天地人-開拓者物語

北海道十勝野オベリベリ開拓の祖

依田勉三物語

~順境温暖の伊豆から未開厳寒の原野へ~


●著作者

 北海道開拓史研究会(代表:福永慈二)

 松崎三聖人(土屋三余・依田佐二平・依田勉三)を顕彰する会

●発行者 

 三余塾 土屋直彦

 〒410ー3626  静岡県賀茂郡松崎町那賀73~1

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(本書購入希望者は三余塾・土屋さんにご連絡を)


依田勉三物語ファイル

(登場人物紹介₋プリントアウト用)


幕末維新の伊豆松崎が生んだ 十勝野開拓者・依田勉三 

  の師 土屋三余

 


【第13回掲載 2024年4月】


 第十三章 大器晩成の社

 

  (1)

明治十五(一八八二)年二月初めの月の夜

久しぶりに東京から大沢に帰った勉三は、食事を終えた後、酒も飲まず、ゆっくり風呂に浸かり、自室に籠もった。満月に近い大きな月が白く冴え、ガラス戸越しに月光が差し込んでいる。

 既に規則草案は出来上がっており、明日来る勝に渡し、清書をしてもらうことになっていた。後は社の名前を書き込むだけである。名前は決まっていた。

 「晩成社」

 

この日の朝、勉三は湯ヶ島の宿を早くに発ち、大沢村を目指していた。横浜で鈴木親長・銃太郎親子に会い、開拓団への参加を確認し、必要な打ち合わせを済ませて帰る道すがらであった。

二月の伊豆山中は寒かった。足を速めて猫越(ねっこ)峠を越え、仁科(にしな)川沿いに山道を下り、まだ落日残照の中にある松崎村に入った。黄金色の夕陽を背にして那賀川沿いに街道を上る。川のせせらぎが耳に心地よく響く。微かな土の匂いが鼻腔をくすぐる。左右に迫る山並みが夕暮れの中に沈み始め、カラスの群れがねぐらの森に急いでいる。

ふと目を上げると正面にあの懐かしい熊堂山が飛び込んで来た。葉を落とした山肌は灰褐色を帯びていたが、山頂は残照を浴びて赤く光り輝いていた。その山頂にひときわ高く突き出た常緑の樹が見える。

「そうだ、あれは大器晩成の大樹タブノキだ!」

 三余先生がそう名づけたあの大樹が今までどれだけ自分を励ましてくれたことか…。

不意に「大器晩成」の文字が頭いっぱいに広がった。

「大器晩成……自分は決して大器という器ではない。しかしせめて晩成はせねばならない…そうだ晩成だ!晩成社だ!」

十勝野開拓はいわば国家的大事業である。一朝一夕に成るものではない。長い年月を要するに違いない。これ以上ふさわしい名前はあるまい。

「そう言えば、親長殿も盛んにこのことを強調しておられた」

数日前の会談で親長が語った、「十勝野もお主も大器じゃ。大器が成る為には時が必要であろう。(すべか)らく大器は晩成すべきものなのじゃ」

という助言が思い出された。

勉三は、勝から鈴木親長・銃太郎父子の開拓団参加決意を聞き、自ら上京して鈴木親長・銃太郎父子と会っていた。二人の開拓団への参加の意志を最終確認し、今後の段取りについて話し合うためであった。既に林顕三の「紀行」を読み、一度は北海道入殖を計画したこともある親長は、その後の蝦夷地の事情にも詳しく、勉三の考えを実によく理解した。勉三にとって、この年長者である親長の参加はこの上ない励ましであった。

勉三が横浜石川町の鈴木家を訪れた日、渡北に大反対の親長夫人直は、用事を作って外出していた。しかし親長の決意は変わることなく、新たな挑戦に心を弾ませていた。

勉三の訪問を待ちかねていたその親長が真っ先に問うたのは、「いったいどこへ入殖するつもりなのか」ということであった。

「余程のことがない限り、私は十勝野に入ろうと考えています」

勉三が断固たる口調で答えると、親長は目を丸くして言った。

「これは驚いた。さすがに農の出の勉三殿じゃ。うん、これはたいしたものじゃ」

親長は十勝川上流に広大な肥沃の原野が全く手付かずのまま拡がっていることを既に知っていた。そして、開拓使の手厚い援護下にある西側地域と違って、まだ文明の及ばぬ東の奥地の開拓を成し遂げるには、相当な決意と覚悟と資力を要することも。それ故に、勉三が迷いもなく「十勝野」と言い切ったことに(いた)く感激したのである。

「よかろう。大志山を砕くと言う。男子たる者はこうでなくてはな。しかし、万事大器は晩成するものじゃ。勉三殿、お主も十勝野も大器じゃ。大器が成る為には時が必要であろう。焦らず怠らず、信念を持ってやり抜く事が大事じゃ」

齢五十を過ぎた年配者の贈ってくれたこの助言の言葉がその後、勉三をどれほど勇気づけたことか!

熊堂山山頂の「大器晩成のタブノキ」が、真っすぐに彼の目に飛び込んで来た背景には、確かに親長のこの言葉があった。

 

勉三は筆にたっぷりと墨を含ませ、半紙に向かい、一気に書き上げた。

「晩成社良い名だ。よし、何年、何十年かかろうと、十勝野開拓をきっと成し遂げ、十勝野を世に出そう。決して中途で投げ出すようなことはすまい」

まだ墨の乾かないこの「晩成社」の三文字をしみじみと眺めながら、勉三は心の中で、そう誓った。

この時、実践躬行を旨としている勉三の胸中に、師三余の座右の銘が浮かんでいた。曰く、「言って行なわない者は国の賊、言わずして行なう者は国の宝なり」と。

 

明治十五年二月十九・二十・二十一日の三日間松崎分家塗り屋依田善六宅に同志相集い、「晩成社規則」が討議され、北海道開拓移民結社「晩成社」の創立が正式に決定された。参加者は依田勉三、兄の佐二平、弟の渡辺要(渡辺家養子)と依田善吾(塗屋分家養子)、勉三従兄弟の依田善六、準次(土屋家養子)。そして塗り屋分家浜店の善吾、塗り屋分家中瀬の直吉。依田一族の主立った者である。勿論、渡邉勝も加わっていた。

「晩成社創立の日」は、前年明治十四年の大沢依田本家新年会の日勉三が北海道開拓移住の決意を宣言した正月元旦とされた。

明治十五年四月初め、発起人依田佐二平、善六、善吾(浜店)、発起人総代依田勉三の四名が調印し、晩成社はここに正式に発足する。

社長は依田善六が務め、副社長は現地の勉三が務めることになった。

 

(2)

少しばかり横道に逸れる。

ある「通説」勉三・勝・銃太郎の晩成社三幹部は、明治九年一月にワッデル塾で巡り会い、ここで友情を結び、北海道入殖を誓い合ったという「通説」に触れておこう。

当時西久保葺手(ふきで)町(現在の東京タワー近辺)にあったワッデル塾で、明治九年一月頃、勉三と勝が顔を合わせたことは確かな事実である。がしかし、そこで二人と銃太郎との交流があった、とは記されてはいない(渡邉勝日記)。既に述べた通り、勝と銃太郎の初めての顔あわせは、築地にあった東京一致神学校でのことである。

この問題に明確な解答を与えたのは今は亡き十勝郷土史研究家前田弘氏である。『トカプチ』創刊号(一九八九年三月刊)に発表した論文『渡辺勝とワッデル』がそれである。

英語に堪能な氏は外国図書にも当たり、確かな裏づけ調査の下、新しい史実を次々と発掘し、「勝と銃太郎は明治十年十月に開校された東京築地の一致神学校において初めての出会いを成している」と結論付けている。

ただ、氏の論文にも勝と勉三と銃太郎三人の出会いの場所や年月については、全く触れられていない。勉三と勝と銃太郎の三人が初めて出会った日時と場所を特定する資料は今のところない。

筆者は、勝と銃太郎が神学校で出会ってから一年後の明治十一年七月、勝が豆陽中に教員として赴任することが決まった頃、東京で三人が一堂に会したと推測する。

勝が在京している頃でないと三人が顔を合わせることは極めて困難であり、勝が間に入って勉三と銃太郎が顔を合わせ、三人の友情が結ばれた、と考えるのが一番自然である。

ともあれ、三人がワッデル塾で巡り合ったという事実はない。

 

三人が北海道開拓を誓い合ったのはいつのことかこれについても諸説がある。

渡邉勝の明治十四年八月四日付日記に「依田勉三氏初めて北海道に行く」との記述が出て来る。が、この記述は日記の「欄外」に鉛筆で書き加えられたものである。蓮台寺の学校にいた時のことである。どうやら本人から直接聞かされたことではなかったようだ。

翌日の日記に「勉三君より紙入れを貰う。氏は十日前北海道へ行かれたりと」との記述がある。この日、佐二平の長男(しん)四郎(しろう)と網直しの仕事をしている故、多分新四郎が勉三贈呈だという紙入れと北海道行の情報をもたらしたものと思われる。

ともあれ、勝の日記に北海道開拓に関連した記述が出てくるのはこの時が初めてである。勉三の北海道開拓計画については一族の女衆の反対もあり、彼の最初の渡北出立は、どうやらごく(ひそ)やかなものにならざるを得なかったようだ。そんなこんなで、この件に関するニュースが勝の耳に届くのが幾分遅くなったのであろう。

勝の日記に北海道に関する記述が頻繁に出て来るのは明治十四年十一月二十三日以後のことである。この日、豆陽中学の隣にある吉村旅館で、北海道周遊の旅から帰って来た勉三と、急遽東京から同行してきたワッデルとが、勝を待っていた。

この時、ここ吉村旅館で、初めて勉三が勝を北海道開拓に誘い、勝もこれを了承したと思われる。ワッデルの了解抜きに勝が決断できないことをよく判っていたため、勉三はワッデルに頼み込み、ワッデルに伊豆まで来てもらい、三人で会うことにしたのであろう。

勉三が心に秘めていた北海道開拓の夢を初めて勝に語り、参加同行を求めたのは、勉三が北海道を視察し、明確な開拓計画を持って帰って来たこの時と見てよい。実践躬行を重んじ、単なる夢物語や空論を嫌う勉三の性格からして十分ありうることである。

勝の日記に北海道開拓の話が頻繁に出て来るのはこの日以後のことである。

 

翌年の明治十五年一月九日、横浜の鈴木真一の写真館に泊まった勝は、横浜尾上町の友人(なか)啓介の家を訪れる。勝のこの日の日記に「(中氏の家に)鈴木銃太郎君が偶々至り、北海道のことを談じ帰る」とある。当時、信徒婦人との不祥事を疑われ、和戸の教会を辞め、意気消沈していた銃太郎は横浜石川町の家に帰ってきていたのである。

翌十日の渡邉日記に「夜また中氏に至る。北海道のことを談ず」とある(この日に勝が鈴木家を訪れたという記述はない)。鈴木父子の北海道入殖が決まるのは、この日以後のことである。

 明治十四年七月の渡北に際して書き始められた勉三の日誌に、銃太郎の名前が初めて出てくるのは、明治十五年三月十四日のことである。この日の日記には「この頃より月末に至るまで鈴木銃太郎、当社(晩成社)規則の活版のことについて横浜東京の間に斡旋す」とある。

 明治十五年二月十一日付の渡邉日記に「大沢村に赴く。勉三君昨夜東京から帰られたり」とあるから、勉三と鈴木父子との間で北海道開拓団に関する会談がなされたのは、恐らくこの年の一月末から二月の初めの頃のことであろう。

勉三と銃太郎二人が開拓地の最終決定を目指して渡北し、再び十勝野に向かうのは、それから四ヶ月後の六月一日のことである。

 

今や、北海道開拓移住の準備は完全に整った。明治十五年四月二十九日、勉三は銃太郎と共に再び北海道十勝野目指して大沢村を後にする。

 勝は渡北を強く願ったがすぐに学校を辞めるわけにはいかず、結局伊豆に残り、佐二平・善六らと共に出資者や移住希望者を募る任務に就くことになった。

今回の渡北では入殖場所を決め、その上で誰かが開拓団受け入れ準備の為に現地に残らねばならなかった。となると、同行者としては若く自由の利く銃太郎が最も適任であろう、という結論になったのである。

 

第十四章 札幌県庁詣で

 

(1)

明治十五年六月十三日夜

勉三と銃太郎は札幌の旅亭・石川に入った。昨日小樽の港に着き、そこで一泊し、この日の午後二時小樽住吉駅発の弁慶号に乗り、札幌へと突っ走って来たのである。それでも札幌に着いたのは夜の八時をとっくに過ぎていた。

到着した夜、その足で元脇本陣の仮県庁舎に加納(みち)(ひろ)という人物を訪ね、大野(つね)()の紹介状を渡した。大野と加納は同じ賀茂郡加納(かのう)村の出で、加納の姓はその村名に由来していた。大野が三余先生の推挙で神田お玉が池の東條一堂の門に入って学んでいた頃、千葉道場に通っていた加納と偶然再会し、交流を深めていた。「三余門下三羽烏」の一人と言われた大野は、豆陽中学創設とその維持経営に力を尽くし佐二平の後を継いで賀茂(かも)那賀(なか)郡の

郡長となっていた。そんな訳で南伊豆の村々では顔が広く、加納の父親とも懇意だった。

勿論、加納と勉三とは初対面であったが、彼は快く迎え入れてくれた。半年前に開拓使が廃止され、ちょうど札幌県・函館県・根室県の三県時代に入ったばかりで、例の「払い下げ事件」と「政変」の余韻がまだ重苦しく残っていた時である。農商務省に籍を置いて開拓使廃止に伴う残務整理に当たっていた加納の心境も不本意で複雑で宙ぶらりん状態であったに違いないが、勉三らには何も語らなかった。

 

見知らぬ札幌の地で、同郷人として勉三を温かく迎え入れ、親切に案内してくれた加納通広彼もまた数奇な運命を歩んでこの地に辿り着いていた。

彼は伊豆松崎の山を南に一つ越えた僻村の生まれで、勉三より一回り歳上であった。農家の長男であったが、伊豆下田で見た「ペリー艦隊」にショックを受けて攘夷を志すようになり、士分()()がり(侍の身分になる)を

求めて江戸に飛び出した。紆余曲折の末、神田お玉が池の千葉道場で剣術を学び、ここで伊東甲子(かし)太郎(たろう)と知り合い、京に上り、新選組参謀となった伊東と共に隊に加わっている。尊王に傾く伊東が近藤勇の手で粛清され、加納自身も新選組に追われる身となったが、薩摩藩に拾われ、ようやく道が開けた。ひょんなことから流山(現千葉県流山市)で捕まった局長近藤勇の首実検に立ち会い、名を挙げた。戊辰戦争では薩摩藩の戦闘員として功を遂げた。その後、薩閥の一員として黒田の開拓使に出仕し、西南戦争の際にも黒田に付いて出陣し、褒賞金を得ている。黒田開拓使時代にはそれなりに羽振りを利かせていた人物である。

開拓使廃止後も農商務省事業管理局道庁に籍を置き、紡績工業等の産業振興に尽くすが、既に「幕末志士の世は遠く去りにけり」であった。明治十九年一月に道庁発足と同時に管理局も廃止となり、やがて辞職して札幌を去り、東京に居を移す。明治三十五年十月、六十三歳で没している。

 

札幌到着の翌日、勉三と銃太郎は朝早く、元の脇本陣に仮庁舎を構えていた札幌県庁を訪れた。ここが石狩・日高だけでなく十勝地方をも管轄統治していたのである。

加納は、早速、勉三を畠山という男に引き合わせてくれた。土木工事請負を手広くやっていて札幌近辺の開拓事情に詳しく、顔の広い人物であった。

 銃太郎も札幌区長の山崎という人物を紹介され、管内の開拓適地に関する情報を集めに出掛けていった。

夕方、三人は旅館で落ち合い、夕食を楽しみながら、その日見聞して来たことを語り合った。加納の話では、石狩地方の開拓はかなり進んでいて、これから入殖する者に貸し下げされる土地は便が悪かったり、沼地や泥炭地が多くなるらしく、最近の注目は日高や上川に集まりつつあるようだという。十分予想されたことではあった。

「ところで、畠山氏に、十勝方面はどうか、十勝・日高について何か聞いていないかと問うたところ、つい最近農商務課の渡瀬(わたせ)(とら)次郎(じろう)氏が日高・十勝を巡回して帰って来ているので、彼に聞くとよいとの返事であった。で、そちらは何か…」

勉三の問いに、銃太郎もやや意外そうに答えた。

「山崎氏もやはり日高・十勝のことは渡瀬氏に聞けとのことでした」

「となれば、渡瀬氏から十勝の様子をぜひ聞いてみたいものだ」

勉三がそう呟くと、一本十五銭(今の約三千円)と当時まだ高価だった苦い西洋飲料麦酒(ビール)の泡を口の周りに付けた加納が、

「まさか、晩成社は十勝に入殖するつもりではあるまいね?」

と、驚いたように勉三の顔を覗き込んだ。

勉三の口から十勝の話が出て、加納の勉三を見る目が変わった。まさか十勝の話が出てこようとは思いもよらなかったのである。

確かに、勉三が持っていた静岡県令大迫(さだ)(きよ)の印が押された添書(てんしょ)札幌県令への口添え願いである「北海道開墾の儀に付御添翰(おてんかん)願い」には「北海道石狩十勝日高等の内に於いて開墾の事業を起こし云々」の記述があった。しかし「石狩十勝日高等」と名を連ねただけで、あくまでも本命は石狩だろう、加納はそう決めてかかっていた。

 むしろそのことより、加納はこの添書の末尾に記された「平民依田勉三」の署名に目を奪われた。彼自身農民の出であったからであろうか、堂々と「平民」を名乗る勉三の誇り高さに胸が熱くなるのを禁じ得なかったのだ。

この「御添翰願」を勉三に書かせ、静岡県令大迫貞清に提出し、添書印を貰うように助言したのは佐二平である。「十勝」とでなく「石狩十勝日高等」と書くように言い付けたのは佐二平の配慮であった。

「現地に入ったらどんな問題が起こるか判らない。最初から十勝ということであれば、鼻から相手にされないか、あるいは何らかの事情で受け容れられないこともあり得る。万一のことも考えておかねばならない。当たり障りの無い書き方にしておいた方がよかろう」

いかにも深慮遠謀の佐二平らしい助言であった。勿論のこと、佐二平は札幌県令の調所(ずしょ)が大迫と同じ薩摩閥に属していることを知っていた。

ところで、この大迫を静岡県令に引っ張って来たのも海舟である。

「維新後の静岡は旧幕臣が沢山移住して居るゆえ、なかなか尋常の人では治め難い事情もある。こういう所の県令には大迫のように懐の深い男で、別段これといふ干渉圧制がましい事はせず、一意ただ公平至誠の考えをもって、県治を施す人物が適任なのだ」

というのがその論であった。

実際、県令の九年間、大迫は波風一つ立てずに治めきっている。大迫はかねてより三余に敬意を抱き、佐二平と依田一族に一目も二目も置いていた。そんな訳で快く添書を書いてくれたのである。

「加納さんもやはり十勝野へ入ることはあまり賛成ではないと…」

反対意見が出ることは、勉三も十分予想し、承知していたことではあった。

「よいかね、ここ二、三年、十勝野は蝗害の震源地として悪評極まりなく、未開蛮地の代名詞のようになっているのだ。日高・石狩だけでなく胆振(イブリ)まで襲われ、収穫ゼロの田畑があちこちに生まれている。とにかく空が真っ暗になるほどの騒ぎで、わしもバッタ(皆、(いなご)と言わずにバッタと言った)をあれ程恐ろしく思ったことはない。とにかく襲われた土地は青草であれ、粟であれ、稗であれ、稲・豆・大麦小麦・黍・牧草であれ、植物はありとあらゆるものが食い尽くされ、残された土地は赤土に変わってしまった程だ。十勝野はとても開拓どころの話ではないのだ。一時は開進社がどうのという話もあったが、それもあくまで噂話でしかないのだ。先のことはさておいて、しばらくは十勝に入る者などおるまい」

「先のことはさておいてとはまたどういう意味でしょう?」

「去年の秋、バッタの発生地が十勝野らしいというので、開拓使の調査隊を入れたのだが、その際、十勝川上流の広大な原野一帯が肥沃の地で、特に牧畜に最適地であることがあらためて判明したというわけだ。十勝野が開拓適地であることは間違いない。だからいずれ、時が来たら鋤鍬が打ち込まれることになるだろう。しかし、そのためには道路が開かれねばならん。開拓使が廃止になった今、その目途が立たないのだから、なおさら当分は無理と言う外あるまいて」

勉三も昨年渡北した際、蝗害について聞かなかったわけではなかった。しかし、夏場には函館周辺から釧路を回っており、十勝から日高地方も専ら海辺を歩いていたため大惨害というほどの現場を目にすることはなかった。それに蝗害はあくまで一過性の災害であり、それ程気にする必要もないという考えを持っていたのだ。

「開拓使の調査が行われているのですか? 昨年の秋ということであれば私とは入れ違いになったようですね。私も昨年、大津周辺の十勝野をこの目で見てきました。広くて、地味も肥えていて、ケプロン氏の報告にあるとおり、牧畜には最適と思えました。更にライマン氏は十勝川上流に四万エーカーもの広大な地が眠っていると報告していますし、松浦氏も豊穣の地と太鼓判を押しています。前々から私は十勝野に関心を抱いており、今もそこが入殖最適の地と考えております」

加納は、勉三がケプロン報文に詳しく、十勝野への思い入れが思いの外深いことを知り、更に驚いた。

「ならば、十勝野に詳しい渡瀬寅次郎氏に会って様子を聞いて見ると良かろう。札幌農学校でクラーク先生の薫陶を受け、今は農商務省博物局に奉職している立派な紳士だ。それに氏は確か静岡県の沼津の出だと聞いている。加納に聞いてきたと言えば相談にのってくれるだろう。今は牧羊場の中にある博物館の方にいるはずだ」

夕食もそこそこに、勉三と銃太郎の二人は旧県庁跡の西側北三条にある博物館に向かった。

 

少し当時の札幌市街の様子を説明しておこう。

北海道の首府・札幌市街を最初に設計したのは、既に記した通り、元佐賀藩士の開拓使首席判官(しま)義勇(よしたけ)である。明治二年旧暦十二月、木枯らしが吹き、粉雪が舞う中、島とその配下は百人の職工を引き連れ、街作りに着手した。渡島(おしま)通(現在の南一条)を基点に街を南北に分け、北を官庁・学校・病院街、南を人民街とした。東西分割の基点は官営模範農場を開くために作られた大友堀である(尊徳仕法を身に付けた相馬藩農民大友亀太郎が拓いた堀で、現在の(そう)(せい)川)。渡島通の西の端の広場には開拓の守護神たる札幌神社(現在の北海道神宮)を鎮座させた。しかし島は当時道を支配していた兵部省(軍馬を司る部署)の長州閥に(うと)まれ、明治四年に追放の憂き目に遭い、無念にもこの街作りを中途で止めざるを得なかった。故郷に帰った島は最後は佐賀の乱に参画し、斬首されている。

島の後を継いだのが元土佐藩の重臣で戊辰戦争に軍功のあった岩村(みち)(とし)である。岩村は、島の構想に京都の条

丁目制を付け加え、更に街を南と北に区切る通りを渡島通から一つ北に移し、そこに「火防線」兼「広場」となる幅五十八間(およそ一〇五㍍)の「大通り」を設けた。

新政府と開拓使が「北海道の首府に相応しい庁舎を」と明治四年に建てた本庁舎は、ドーム状屋根を冠した美しい西洋風建築物であった。それはハイカラで驚くばかりの偉容を誇っていたが、惜しくも明治十二年一月の大火で消失してしまった。

勉三が訪れた明治十五年六月のこの時点では、札幌県仮庁舎は元脇本陣跡におかれていた。明治二十一年十二月に赤レンガ新庁舎が建つまで、以前は女学校がおかれていたこの本陣跡が、そのまま仮庁舎として使われていたのである。開拓使を訪れた勉三が潜った庁舎の門は元脇本陣のそれらしく左右に太い柱が立ち、頭上にも立派な横木が渡された実に堂々とした門構えであった。

 

(2)

「まるで教会のような建物だ!」

銃太郎は思わずそう声を上げた。白亜の博物館は(まば)らな(にれ)の樹に囲まれ、青い芝生の中にすらりとした風情で建っていた。正面から見上げる二階建ての博物館の壁は細身の横板に覆われ、それが白いペンキに彩られ、いかにも清々しく、周囲の緑葉に映えている。尖った切妻の先には十字架を思わせる尖塔が聳え、両サイドには斜傾した屋根を頂く小部屋が張り出され、背高のポーチもまた美しい切妻風屋根に飾られている。加納の「渡瀬氏はクラーク先生門下の札幌バンドの一人」との話から、銃太郎にはなお更のこと、この建物が教会のように見えたのだ。

洋風に(しつら)えられた事務所を訪れ、面会を申し込むと、渡瀬寅次郎はすぐに出て来た。ひげを蓄え、色白で背の高い欧風紳士といった風貌で、いかにも叩き上げの役人といった風の加納とは肌合いが違っていた。農学校で成績トップだった寅次郎は、第一回卒業式の記念演説者の一人に選ばれ、「農は職業中の最も有用、最も健全、最も貴重なるものである」と宣言している。農業振興に熱心で、勧農協会を発足させ、開拓農民に対しても懇切丁寧な助言を惜しまなかった。

 勉三から用向きを聞いた寅次郎は、

「伊豆から参られたのですか。加納さんも確か南伊豆の出でしたね。私は父について江戸から沼津へ移り、兵学校付属小から集成舎の変則科に上がった後、開拓使の官費生としてこちらの農学校に学び、今は農商務省の職を奉じています。お役に立てることがあるなら何なりと言って下さい。明日なら時間がとれます。明日朝、もう一度ぜひお越しください」

 と、実に親切に応対してくれた。

 翌朝、再び博物館に行くと、渡瀬は十勝・日高の地図を広げ、分厚い資料を用意して待っていた。

「十勝はまだ田畑そのものが無いので蝗害は出ていないようですが、日高は酷くやられています。(いなご)の群は十勝の河西・中川両郡のこの辺で発生しているようですが、残念ながら半月程前の調査でも原因は確定はできませんでした。蝗の大群は山岳を越えて日高を襲い、そこから北上して石狩・札幌へ飛び、更に空知(ソラチ)あるいは後志(シリベシ)に向かうか、西の胆振へ向かうかです。この蝗害が始まってもう三年目を迎えるのですが、まだ絶滅の目途は立っていません。とにかく今は人手を使って目に付く成虫・幼虫・卵を駆除する外ないのです。昨年は五万円を出費し、駆除世話係を十五人ほど揃えて各地に派遣し、現地人を雇って虫・卵の駆除・買い上げをやったりしていますが、果たしてそれがどれだけの効果を出してくれることやら…。もし今十勝に入ったとしても、蝗害にやられる可能性は大なるものがあり、危険が伴います」

勉三は、昨日加納に語った十勝野に関する自分の思い入れを、渡瀬にも率直に語った。

「ほう、そこまで把握しておられるとは、正直驚きました。確かに、十勝野の広さ、地味は申し分ありません。私は蝗発生地の調査が主で、地勢調査をする為に行った訳ではありませんが、十勝野の地勢については、私とは農学校の同期で開拓使御用係に就いた田内捨六・内田瀞の二人の方が詳しいのです。彼らは昨年秋、三ヶ月にわたって十勝野の地形地質調査に入り、その調査の結果をこうした『復命書』にまとめています」

渡瀬は傍らの分厚い本を取り上げ、

「これがその復命書です。地理課に頼めば貸し下げができるはずです」

と、机の上に広げて見せた。

「二人の報告は、依田さん、あなたの見立てと完全に一致しています。例えばこんな記述があります。

 総じて十勝全国は林野草野かれこれ相半ばし、あたかも天造の大なる牧場の如し。西北に高山ありて北風を防ぎ、雨雪を減ずるを以って土地高燥、気候温和、牧草甘味にして最も水利に富む。けだし本道十一州中の最も牧畜に適したる所ならん、と。

昔から決して大言壮語を吐いたことのないあの田内と内田が、こうまで言っているのです。更に、

 今試しに十勝平野を方二十五方里と推定し、この三分の一を不用に属するものと定むるも、ここになお十三億六千六百三十四万有余坪の善良なる土地ありとす。今これを牧場として牛一頭一英町(エーカー)(千二百十坪)の割を以って算する時は、百十二万九千二百頭の牛を育成することを得。一頭の代価を平均三十円とせば、三千三百八十七万六千円の金額を生ずべし。然れども開拓の業いよいよ進み、農事いよいよ盛んに荒野変じて良田となるに至らば、十勝平原より生ずるところの産物、あにこの三千三百八十七万有余の金額のみに止まらずして数倍に至る、と」

 勉三が初めて聞く話であった。やはり十勝野は素晴らしい沃野だったのだ。それが事実であり真実であったことが、彼を何よりも喜ばせた。

「だが、最後に彼らがこう付け加えていることも忘れてはなりません。

 (しか)(しこう)してまさに今開拓の業に従事せんとする者、独り石狩原野あるを知りて、十勝地方に注目する者極めて少なきは何ぞや。他なし。道路の開設なく、その実境(じつきょう)(実際の状態)知らざるに、これ()るのみ。それ道路開設は開拓の大本なり。道路既に通じ、運輸既に便にして、而して後、拓地興産凡百の事業初めて隆盛に至る、と」

勉三は感激し「我が意を得たり」とばかりに膝を打った。

「まさに至言です。道路開削こそ開拓の大本であり、生命線です。いずれ国も開拓使も必ずそれを実現させることでしょう」

しかし、寅次郎は手を横に振り、勇む勉三を制した。

「内田と田内は、調査を命じた開拓使に、札幌から石狩原野を抜け、空知から十勝に到る内陸道路を開削せよと訴えています。しかし昨年一杯で開拓使が廃止になり、三県に分割されてしまった今、それはいつのことか、全く目算が立たない始末なのです」

寅次郎はそう言って深い溜息を漏らした。言外に「今は十勝野への入殖は止めた方が賢明ですよ」と訴えていた。渡瀬のこの憂慮は当たっていた。実際この「最も緊要な内陸道路開削」が実現したのは明治三十二年、晩成社入殖から十七年も後の事になる。

しかしこの時の勉三は、渡瀬とは全く違う考えを抱いていた。

それらは皆予想されたことだ。国や県の手が回らないというのであるなら、なおさらこの手で十勝野開拓の先鞭をつけることが必要だ。晩成社の開拓が進み、一万町歩と言わないまでも広い牧畜場が開かれれば、いずれ国も県も道路開削に動くであろう。否、必ず動かせて見せる。動かさねばならぬのだ、と。

「私たち晩成社は、その名の通り、晩成を期しています。艱難辛苦は覚悟の上のことです」

傍らの銃太郎は、広瀬の話に大きな不安を抱きながらも、勉三のこの決意表明に頷いた。

銃太郎は、ここ半年程の間に、十勝開拓を目指す勉三の並々ならぬ意気込み、世のため人の為に尽くすのだという強い決意が、決して言葉だけのものではなく、心底からのものであることを理解し、尊敬と敬服の気持ちを深めていた。

渡瀬は別れ際に、自らが興したという勧農協会の北海道各地の農業実績を記した報告書を渡し、二人を激励した。

その日の午後、二人は県庁を訪れ、今度は札幌県令代理書記官佐藤(ひで)(あき)に面会を申し込むと、受付係は、

「ただ今執務繁忙により面会時間が取れぬゆえ、明日適当な時にまた来るようにとのことです」

と、いかにも事務的な回答を突きつけた。

勉三は、とりあえず静岡県令大迫の添書と東京駐在札幌県係官の紹介状を渡し、その場を辞した。

 

(3)

六月十六日、勉三は朝早くに宿を出て、焼けた旧庁舎の隣にあった代理書記官佐藤秀顕の官邸を訪れた。一刻も早く会って、土地払い下げの件について相談したかったのである。

「加納さんの紹介で」との口上が()いたのか、それとも

静岡県令大迫の添書が効いたのか、すぐに佐藤と会うことができた。

勉三は晩成社の社則を渡しながら願いでた。

「ぜひ石狩十勝日高管内の開墾地払い下げを…」

佐藤は、如何にも手慣れたふうに、

「まず地理課の近藤とよく相談しなさい。その上で、翌朝県庁で話を聞こう」

と手短に答えると、すぐに奥に消えて行った。

勉三が、敢えて「十勝」と言わず「石狩十勝日高を」と言ったのは、昨夜、加納が「書記官代理に会うに当たっては、これだけは覚えておいた方が良かろう」と、佐藤に関するいくつかの情報を提供してくれていたからだ。

加納の話によると、佐藤はライマンや十勝野についてあまり良い印象を持っていないということであった。伊勢藤堂藩の佐藤は、ライマンに付いて渡道した後、不本意極まりないゴタゴタに巻き込まれ、苦い経験を味わわされていた。

明治四年八月、彼は地質調査技師ライマン付の通辞となり、初めて来道した。ライマンは通辞佐藤及び日本の地質調査補助技師らの技術・能力を高く評価していた。しかし、やがて米国式合理主義者のライマンは日本の「お役所流儀」と衝突を繰り返し、開拓使本庁との確執を深めた。ライマンは、本庁側に立たざるを得なかった佐藤を「裏切り者」と非難し、十勝一帯の調査活動に入った頃には完全に佐藤をチームから外してしまった。その後ライマンは開拓使顧問団から外され、内地の調査に回され、一件落着となったのだが、真面目な佐藤はライマンから「裏切り者」と呼ばわれたことに酷く傷ついていた。

佐藤がかつて籍を置いていた伊勢藤堂藩は幕府軍として戊辰の鳥羽伏見戦に加わり、山崎に陣を敷いた折、突然幕軍を裏切って薩長方に味方し、戦況を一変させている。有名な「藤堂藩の寝返り話」である。が、この藩の「寝返り話」はこの時だけのものではなかった。関が原の決戦でもかつて豊臣側であった藤堂藩は家康の側に寝返った。藤堂高虎は巧みに家康に取り入り、外様でありながら三十二万石の大大名にまで出世した。為に藤堂藩は「走狗」「裏切り者」と陰口を叩かれ、家臣は肩身の狭い思いをして来た。佐藤は藩校有造館で洋学を学び、維新後通辞として新政府に仕えるようになったのだが、やはり旧藩については多くを語りたがらなかったという。

 ライマンに「裏切り者」と非難されたことが、どれほど彼を傷つけたことか。彼にとってライマンと十勝方面は鬼門であるという噂は加納周辺にも伝わっていた。

「とにかく今は県が発足したばかりで、しかも調所県令の入庁が遅れていて、なかなか落ち着かないでいる。佐藤県令代理に対してはあまり多くを期待しないように」

これが加納の助言であった。

勉三らは早速地理課課長近藤に会い、石狩・十勝・日高の地勢についてあらためて詳しく尋ねた。課長が強調したことは、十勝についてはまだ道路開削の予定が無く、ほとんど入殖する者はいない、ということであった。勿論彼は親切心からそう言ってくれたのである。勉三は頷いて耳を傾けてはいたが、その決心が揺らぐことはなかった。

その夜、加納を訪れて経過を報告し、「いずれ日高・十勝方面に出向いて行きたい」と伝えると、「念のために浦河(ウラカワ)郡庁に宛てた添書を貰っておくように。三県になった際、日高も十勝も浦河郡庁の管轄に移っているから」とのことだった。かくの如く、日高山系の向こう側に位置する十勝一帯が、山系のこちら西側にある浦河郡に編入されていたことの中に、当時十勝野開拓が如何に軽視されていたかが雄弁に物語られていた。

翌日、再び地理課に行き、浦河郡庁への添書を依頼するとともに、渡瀬から紹介されていた田内・内田両氏の手になる「復命書」の貸し出しを申し込むと、晩にわざわざ「添書と書籍を渡すから来てくれ」との連絡が入った。

銃太郎がそれを取りに行くと、係の者が、

「急な連絡ですが、明朝、佐藤書記官が会うそうです」

と、にこやかに笑って伝えた。銃太郎はほっと胸を撫で下ろした。彼にも、ようやく勉三の十勝野入殖の企ての前途にどれ程厚い壁が立ちはだかっているかが判ってきた。

「加納さんや渡瀬さんの尽力があったに違いない。勉三さんの熱意も通じているようだ。何とかうまくいってもらいたいものだ」

そう呟きながら、銃太郎は夜空に高く浮かぶ北斗七星を見上げ、胸で十字を切り、明日の会談の成功を祈った。

 

六月十八日朝、二人は仮庁舎の奥にあった県令執務室に案内された。外観とは違って、部屋は驚くほど広く立派なものであった。特に洋風に改装された部屋の正面に据えられたマホガニーの外国製事務机は、その前に立つ者を圧倒せずにはおかないほど立派な造りであった。部屋の中央には、応接用の革張りの頑丈そうな椅子が、コの字形に置かれている。

「まあ、座りなさい。大方の話は近藤課長から聞いている」

中央の椅子に座った県令はそう言いながら洋製煙草に火を点けた。四十歳前後、上級官吏にしては珍しく髭を蓄えておらず、童顔であった。テーブルの上には晩成社の社則が置かれていた。

「なかなか立派な社則に仕上がっているが、誰が書いたものかね」

「私です。昨年の渡北の折に伺った開進社の方々のお話や、開拓雑誌に載っていた赤心社の同盟規約を参考にさせてもらいました。また私の兄で依田家の当主である佐二平は片田舎に住んで居る平民ではありますが、田畑山林を経営し、養蚕製糸の事業を営んでおり、何かと相談にのってくれています」

「ほほう、赤心社を知っておるのかね」

佐藤は、昨年十月半ば、当時「払い下げ問題」の渦中にあった在京の薩閥幹部から依頼され、赤心社社長鈴木清と会っていた。初めて北海道を訪れたという鈴木をこの官邸に招き、食事を共にしながら親しく語り合ってもいた。

開拓使、札幌県庁において、赤心社は特別な存在であった。社長の鈴木は九鬼三田(さんだ)藩の重臣で、神戸を代表する交易会社の経営幹部であり、しかも著名農学者津田仙の全面的な支援を得ている。昨年の七月、赤心社の在京株主総会を開いた折にも、社長の鈴木は津田の紹介で開拓使本庁の大書記官連中や岩橋開進社社長らと席を共にし、交流を深めていた。その上に、鈴木は神戸に組合派キリスト教会を設立した中心人物である。札幌バンドとは兄弟のように親しくしており、()()()稲造や渡瀬・内田・田内ら農学校出のクリスチャン開拓使技師たちもまた、陰に陽に赤心社への協力を惜しまなかった。

「ところで、十五年間に一万町歩とはまた途方もなく大きな計画ではないか。その意気を壮とするが、資本金五万の御社には少し、いや、かなり荷が重過ぎるのではないのかね」

正直言って、佐藤には、大した後援者がいる訳でもなさそうな伊豆の片田舎の平民が、何故このような途方もない大構想を打ち出すに至ったのか、全く理解できなかった。目の前にいる男は、見たところ、うつけ者でも詐欺師でもほら吹きでもなさそうだ。それどころか風貌は謹厳実直、面構えは百姓平民というより戦場に赴く武士のそれだ。眼は底知れぬ輝きをたたえ、高きを見据え、不屈の意志に溢れている。本気を感じさせずにおかない人物だ。

 確かにこの男には、維新成った後の士族や政府高官が失いつつあるもの、高い志がある。しかし、今の時代にそれがどこまで通用することか。

 此度の「官有物払い下げ事件」で、薩長の醜い藩閥政治を見せ付けられた佐藤は、道の前途に対してかなり悲観的になっていた。もっとも、その悲観的気分は、この時代には決して佐藤だけが有していたものではなかった。

「御説はごもっともと存じます。当社の資力は微力であり、移住する者も負債を抱えた貧しい者が多くならざるを得ません。しかしわが社は一切の虚飾を去り、節約節倹を第一の事とし、速成を望まず晩成を旨とするものです。十五年で成らねば二十年、二十年で成らねば三十年かけても必ず目指す所に到達致しましょう。どうか、私共の志に免じて、開進社や赤心社同様に破格の詮議を以って一万町歩の内のいくらかでも無代払い下げの件、ぜひ御許可下さいますように」

そう胸を張って要請する勉三には悲観論の欠片もない。勿論、勉三を心から信頼している傍らの銃太郎にもだ。

佐藤は勉三を前に、ふと己の地位身分を忘れ、春秋戦国の「燕雀(*えんじゃく)いずくんぞ鴻鵠(こうこく)の志を知らんや」の一節を

思い起こしていた。

*燕雀いずくんぞ…燕や雀のような小さな鳥にどうして大鳥や白鳥のような大きな鳥の心がわかろうか。小人に大人物の心が判るものではない。

 

「とにかく、細かいことは勧業課の細川君に相談するように。取り敢えず下付願を文書にして上にあげなさい。そして管内の様子をじっくり聞き、自分の目でよく観察し、開墾地所の選定を進めなさい。そのうえでよく詮議することにしよう。それから、老婆心から言うのだが、移住する小作農民の給与についてはこの辺りの相場をよく調べ、尤も具体的にその額を決めておく必要があろう。中途で逃げ出す例が多く、皆頭を悩ませているようだ」

勉三と銃太郎は佐藤に深々と頭を下げ、丁寧に謝意を表した。しかし、県令代理佐藤秀顕はいささか憂鬱な気分でその感謝の礼を受け取っていた。何故なら、今のこの県庁役所においては、平民結社たる晩成社が、元藩主・華族らが支援し、経営幹部が開拓使中枢に深く通じていた開進社や赤心社と同じように処遇される事など、決してあり得ないことをよく知っていたからである。 

彼一人の力で、しかも県令代理に過ぎない一役人の力でどうなるという問題ではなかったのだ。

 

  (4)

翌六月十九日、勉三は書式通りに「地所開墾に付き御下付願」を(したた)めた。

「漸次十五年間に一万町歩開墾見込みに御ざ候えば、(しゅつ)(かく)(破格)の詮議を以って、右地所(こん)(せい)(開墾成功)の上は無代価御下付仰せ付けられます様、願い奉り上げ候」

ただ問題は、中身もさる事ながら、これを誰宛にどの部署に提出するかであった。勉三は静岡県庁において、この種の問題で随分頭を悩まされて来た。入り口を間違えると後々に響いた。銃太郎が先日訪れたことのある区役所まで行き、区長の山崎に「区役所部署」の確認を取る。そして更に「願書」を誰宛に書いたらよいのかを(ただ)すべく、佐藤が指示した県庁勧業課の細川氏を訪れた。 

あいにく不在ということで、熱意の勉三は細川を官邸宿舎まで追ったが、やはり不在という返事であった。

翌二十日午前、ようやく勧業課の細川に面接がかなった。彼は勉三の非の打ち所の無い文書に舌を巻きつつも、やはり「十五年間に一万町歩」という記述には驚きを(あら)わにし、かつ異を挟み、削減を要求した。しかし勉三は断じて首を縦に振らなかった。勉三が彼らに問うたことは願書の宛先をいかにするかということだけであった。

勉三は宿に帰り、願書の宛先を「札幌県令調所広丈殿代理・札幌県大書記官佐藤秀顕殿」と認め、早速区役所にこれを提出し、区長山崎に対して、一日も早く願書を上に通してくれるよう、(ねんご)ろに頼んだ。

それから二日後の六月二十三日、再び勧業課を訪れ、願書がどのようになっているかを尋ねると、「指令の裁可にはまだ時日を要するようだ」との、気の無い返答であった。そして彼らは、口を揃えて、待っている間に管内の地味を調べ、開墾地の選定を進めた方がよかろうと、頻りに札幌近郊の苗穂(ナエホ)一帯の観察を勧めた。

勉三は、今回の願書にはまだ開墾地として十勝野のみを指定してはいなかった。これも佐二平の知恵で、それは次の段階での交渉に回すことになっていた。

 加納も渡瀬もまた勉三の十勝野への熱意を敢えて他部署に伝えようとはしなかった。

「裁可までまだ時日を要する」

この一言を聞いた勉三は、(いたずら)に待つことを嫌い、直ちに十勝に向かうことに決した。それは、昨年大津で十勝野を見学し、ここに入殖すると決めるや、大津に泊まろうともせず、すぐに先を急ぐことにした時と同様、いかにも勉三らしい決断であった。

「徒に待つこと」は「無駄」であり、それは「怠惰」と同義だった。事が判明し、一定の結論が出れば、すぐに次なる行動に移るのが彼の習性であり、身に付いた癖であった。しかし、出発の朝、これを知って急ぎやって来た加納には、全く驚き意外の何ものでもなかった。

「もう少し待って、勧業課の推す苗穂辺りをじっくり観察し、ある程度の目途が立ってから十勝に向かったらどうなのか」

彼はそう諭した。勉三は加納の親切心に感謝しつつも、

「早く決め、次の準備に移りたいと思っております。まず何処よりも十勝野を検分してみたいのです」

と、きっぱりと答えた。

勉三はその足で県庁を訪れ、係を通じて佐藤県令代理に「開墾地観察のため、明日日高十勝に向かうゆえ、願書裁可の件くれぐれもよろしくお願い致します」と伝えてもらい、二人してそのまま札幌を後にした。



【第12回掲載 2024年3月】


 四部 創業篇 

 第十二章 同志集う 

  (1)

中学の授業終了後、下田に書籍を買いに出かけた渡邉(まさる)が学校に帰ると、

「吉村でお客様が先生のお帰りをお待ちしているとのことです」

との伝言があった。

明治十四年十一月二十三日午後のことである。

 吉村というのは豆陽中学のすぐ南にある旅館で、この辺りに所用で来る者はたいていここに宿泊した。勉三も佐二平もここを定宿にしていた。中学の宴会もすべてここを使っており、人懐っこく、開け広げの性格の勝は、ここでもすっかり好い顔になっていた。

親父(おやじ)、お客って誰だい?」

突然の訪問客であり、全く予測がつかなかった。

主は笑いながら、

「会えば分かりますよ」

と、二階に案内した。

「ワッデル先生! おう、勉三さんも!」

こんな所にいるはずのない二人が並んで座っていたのであるから、勝がびっくりしたのも無理はない。

「私は二十日ほど前北海道から帰り、開拓結社を作るための準備であちこち飛び回っていたのです。実はワッデル先生をお連れしたのもその準備のためです」

「マ、話ハ後ニシテ、マズ依田サンノ無事帰還ヲ祝ッテ乾杯シマショウ」

勝は怪訝な顔のまま盃を挙げた。

勉三はそんな勝を前に、北海道周遊の経過、蝦夷地の内地と全く異なる風土・風俗について、或いは当地の開拓事情について、詳細に熱く語った。勝は勉三の話に驚きつつも、夢中で聞き入り、強く惹きつけられていた。

―果て知れぬ原野が延々と続き、大河がゆったりと平原をくねり、豊かな森が山を覆い、鹿や狐が群れをなして駆けて行く。広い放牧地には馬の群れが遊び、のどかに草を食んでいる。なんと雄大で、悠然たる光景であろうか。

勝はいつしかその未開の北の地に自分の夢を重ねていた。森林に囲まれ、西洋風に造られた街が広がり、その真ん中に教会堂が建っている。安息日の日曜日には、街に住む老若男女が大勢集まって来て、先生や自分の説教を楽しげに聴いている。街には市が立ち、人々の顔が輝いている…。

勉三は頃合を見計らったように、こう切り出した。

「私はずっと前、そう、ワッデル先生の塾にお世話になった頃から、いつか北海道開拓に取り組みたいと考えていました。そして、それが本当に確かな計画になった暁には勝君にも相談し、ぜひ同志に加わってもらおうと思っていたのです」

「私ガ今日ココニヤッテ来タノハ、勉三サンニソノ話ヲ聞イタカラナノデス。貴方キット私ニアドバイスヲ求メルデショウ。コノヨウナ大切ナ話、会ッテ話スノガ一番ネ」

勝は声も無く(うつむ)いた。嬉しかったのである。勉三がずっと何かを心に秘めていることは知っていた。いつかきっとその思いが実現する時が来るに違いないと見守って来たのである。だから、彼が北海道開拓を求めて周遊の旅に出たと聞いても決して驚かず、いよいよその時が来たことを祝福する気持ちでいた。

 しかし、「共に開拓の事業を」というところまで自分を認め、信頼してくれていようとは…。先生も、わざわざこんな遠方にまで来て下さり、こんなにまで親身になって考えて下さるとは…。

勝の偽らざる思いであった。

「有難いことです。開拓、それも北海道の開拓と聞くと、胸が騒ぎます。昔夢見たこともありました。でも、私はこの伊豆の地で信仰の畑を拓き耕すことに決めたのです。それなのにまだ大してお役に立てないままで……」

ワッデルは、大きな片手を振ってそれを(さえぎ)った。

「伊豆ニ居ヨウト、北海道ニ行コウト、貴方ハ貴方デス。ソレニ、何処ニ行ッテモ、神様ハ私達ト共ニ居ラレマス。信仰ヤ布教ハ国モ人種モ場所モ選ビマセン。ソレニ、貴方ハ何時、何処デ、何ヲシヨウト自由デス。開拓ハ新シイ街ヤ村ヲ創造スル魅力的ナ事業デショウ。貴方ガキット惹カレルハズト分カッテイタカラ、コウシテ勉三サンニ同行シテ来タノデス」

「ワッデル先生もそう言って下さる。どうだろう、この話、受けてもらえまいか」

「ワッデル先生の許可が頂けたとなれば一も二もありません。是非にお願いします」

勝が差し出した手を、勉三はしっかりと握り締めた。

この時、四十三歳になっていたワッデルは、十三、四歳も年少の二人の青年が手を取り合って喜ぶ姿を目の辺りにし、自分の若き日の「向こう見ずな挑戦」を懐かしく思い出していた。

アイルランドの教会牧師の子として生まれたワッデルも、二十九歳の時、日本へ来る数年前の一八六九年(明治二年)、自分の教会を手伝うようにとの父親の命に背き、キリスト教伝道師として中国北部の奥地に赴き、布教活動に情熱を注いでいた。風土病に罹り、結局二年ほどの滞在に終わったが、今でも時々彼はその向こう見ずな時代の体験を思い起こし、それを勝の身の上に重ねることがあった。

翌日昼、ワッデルは豆陽中学を訪れ、目にするのはこれが最後になるであろう勝の授業風景を見学した。その後で、このような日が来るのを予め知っていたかのように、東京から持って来ていた、自分の大切な使い古しの新約・旧約聖書の『註解』を取り出し、勝に渡して言った。

「新シイ門出ノプレゼントヲ上ゲマショウ。北海道ニ移住ノ後ハコレヲ私ノ分身ト思ッテ耳ヲ傾ケ、頼リニシ、神ニ奉仕スルヨウニシナサイ」

ワッデルはにこやかな笑みを浮かべて別れを告げ、天城峠を越えて修善寺に至る山道に消えていった。事情を知らない旅館吉村の主は、その後ろ姿に何とはなしに寂寥が漂っているのを見て、

「何故でしょう?」

 と傍らの勝に問うた。

勝は胸の奥から何か熱く込み上げて来るものがあり、ついに一言も発することが出来なかった。 

  (2)

勉三は、旅から帰るとすぐに、汗と脂と泥にまみれた分厚い『北海道周遊記』を佐二平に差し出した。これにはさすがの佐二平も驚いた。日誌には、旅中のその日に観たこと聞いたことがびっしりと書かれていた。見事な見聞録であり、報告書であった。

「いかにも、一度進む道を決めたら徹底してやらねば気のすまない勉三らしい」

佐二平はこうした弟の目的に向かってまっしぐらに突き進んで行く流儀、常識離れした合目的的なやり方にあらためて感心し、できる限りの応援をしてやろうと、心に決めていた。

明治十四年十二月初め

佐二平は松崎分家塗り屋の依田園改め善六を呼び、三人でこの問題を真剣に議論することにした。善六は佐二平の四歳下、勉三の三歳上の従兄弟だ。妹リクの夫であった勉三を大いに気に入っていて、何事においても勉三への協力を惜しまなかった。そしてこの三人こそ三余塾門下の俊才であり、三余の思想と精神を最も色濃く引き継いでいたのである。

勉三の理路整然とした、また実地検分に裏打ちされた「北海道入殖論」はそれを聞く佐二平と善六の二人にとって十分に説得力のあるものであった。残された問題はどのような移民団を組むか、どこに入殖するか、費用はどうするかであった。

勉三には一案があった。

北海道から戻った勉三は品川に着くとその足で開拓使の御用雑誌とも言うべき『北海道開拓雑誌』を買い求めていた。田本・武林らとの話にしばしば登場したこの雑誌は、前年の明治十三年一月に津田(せん)が創刊したもので、極めて実践的な北海道移民・開拓の手引書となっていたのである。

明治初期の本格的な北海道移民の中心は士族移民だった。その代表例が明治二年の会津藩士の余市入殖であり、仙台亘理藩伊達邦成主従の有珠(ウス)原野への入殖であり、明治四年の稲田一族の(シズ)(ナイ)入殖であり、明治十年の尾張徳川家の遊楽部(ユウラップ)川周辺(後の八雲村)への入殖である。明治四年には薩摩の西郷隆盛もまた桐野(とし)(あき)を北海道視察に送り込み、後には屯田兵団設置を提案している。

新政府は、家禄を返還した士族には授産金を下付し、彼らに開拓事業への取り組みを奨励した。開拓使もまた「山林荒蕪(こうぶ)()払下規則」を制定し、これらの藩主・士族移民団に対しては特別に「開拓地無代下付」の処置を採っていた。

明治十年代に入ると、出資者を募る「結社移民」即ち会社組織による移民が始まる。明治九年、渡米して西洋農法を学んで帰国した元幕臣の津田仙が学農社を設立し、「出資者を募り、大資本を集め、欧米式大農法を」と呼びかけたのがきっかけであった。その代表例こそ、勉三が先の渡北の旅で訪れた開進社であり、日高の赤心社であった。もっともこうした移民結社もまた士族が中心であり、やはり「失業貧困士族救済」の色合いが濃かった。

アメリカ帰りのキリスト教徒であった津田は雑誌の創刊号にこう記していた。

「今の北海道は異日(いじつ)(他日)のカリホルニヤ州なるは吾輩のする預信(よしん)する(予め信ずる)ところなり」。然るに「北海道の人情、風土、物産等の新状況を記録して有志者の参考に供しその有為(ゆうい)(事を為す)の志を翼成(よくせい)する(助けて成功させる)の書、甚だ乏しきを以って…ほとんどその巨細(こさい)(こと細かい状況)を得るに苦しむ。…是を以って吾輩今この雑誌を編集し、北海道十一ヶ国開拓の模様は勿論、彼の地に適する草木蔬菜(そさい)の培養より六畜(りくちく)(牛・馬・羊・鶏・犬・豚)飼育の方法、衣食什器の製造方法に至るまで、いやしくも利益あると認むることは紙筆を惜しまずその要を論述し、また海陸物産の収穫状況と遠近町村の人情風俗とは(くわ)しく雑報欄内に掲載してその都度これを世間に知らしめ、別にまた開拓使録事(ろくじ)(事件を記す書記役)の一欄を設けて同使の布令報告等にて緊要の条目は新古漏らさず記し、こと北海道に係るものは是が報道を怠らざらんとする嗚呼(ああ)」と。

二号では、政府の強制・保護を嫌い、あくまで自主独立の民間人による開拓を主張していた。更に津田は「アメリカの祖先なるピュリタン宗教メイフラオル船より上陸して移住の道を開きたる図」との説明がついた挿絵を掲載し、こう訴えた。

「わが国人(くにびと)は元来愛国の心厚く、義のためまた道の為には死をも顧みざるは、古来の常習にして、今猶幸いにその遺風余俗(いふうよぞく)(昔から残っている風俗・習慣)の存するあれば、この精神は以って宗教の精神に()う(取り換えられる)べきなり。故に吾輩は有志家に移住の門戸を開き、それをして充分の力を伸べしめば、住民怨望(えんぼう)する(恨めしく思う)の悪徳なくしてピュリタンに(のっと)るに足らざる実効(じっこう)(ピュリタンに学ぶ以上の実際的効果)あるべきを信ず」と。

即ち、道の為、義の為、国の為には死をも恐れぬという武士道精神はアメリカ開拓の宗教精神ピュリタンのそれに取って代わり得るものであり、絶対に成功すると、檄を飛ばしたのである。

彼のこの雑誌は、明治十四年九月三日付第七十三号まで継続され、見事その使命を果たした。

この雑誌中に、勉三はあの浦河で観察した赤心社(本社・神戸)の記事を見出し、移民結社について詳しい知識を得ることができたのである。出資者を募るこの新しい移民組織こそ、勉三が漠然と求めていた当のものであった。当時まだ商法もなく、こうした結社は「私設の移民組織」でしかなかったが、後の合資会社・株式会社・法人会社そのものであった。

佐二平・善六も、勉三が語るこの新しい移民結社に関心を寄せ、赤心社に興味を抱いた。

善六は勉三に尋ねた。

「赤心社とはどのような結社なのだ! 本社は神戸にあるというが、どのような人々が集まって結社を起こしたのか?」

「社長として先頭に立っているのは元摂津三田藩士の鈴木清という人物で、元藩主九鬼(くき)公が株主に名を連ね、後ろ盾となっているとのことです。九鬼公は、早くから摂津に西洋文化を持ち込み、藩内の英蘭塾塾頭川本幸民先生を通じて福沢諭吉先生とも親交を結んでいます。鈴木氏もまた自ら福沢先生の助言に従って神戸に出て志摩(しま)(さん)商会を起こし、医薬・食料品の輸入貿易に当たっているという開明派です。それに九鬼公はワッデル先生や銃太郎君の師ブラウン先生もよく知っている米国宣教師デービス先生と交流が深く、神戸教会・神戸英和学校(後の神戸女学院)の設立に協力を惜しまなかったようです。三田藩士にもキリスト教徒が多く、鈴木社長も熱心なキリスト教徒で、この雑誌を(はじ)めた学農社の津田殿とも、同じキリスト教徒として互いに提携し合っているということです。株主の中にも、北海道に渡った耕夫・小作人の中にも、キリスト教徒が随分多いと聞いています。ただ、この設立趣意書・規則を見る限り、赤心社は教会とは全く別の開拓移民結社として起こされています」

勉三はそう言って、七号雑誌に掲載された鈴木清起草の「赤心社設立趣意書」と「同盟規則」を広げ、読み上げた。

「…そもそもそれ北海道の地たるや地味肥沃にして土壌広大、真にわが国の宝庫なるは学農記者を始めとして()かざる所(もはや不動の事実)なれば、今更吾輩の贅言(ぜいげん)を待たず(言うまでもないこと)。かつ(とう)()(重要な地位にある人)の諸賢も(つと)に(早くから)ここに見るありて、巨額の官費を投じてその開拓に下手(げしゅ)する(手を下す)や、ここに(とし)(何年間かの期間)あり。また近くは開進社のごときもまさに大いに為すところあらんとするは、著しく世人の知るところなり。(しか)れどもその事業たるや素より遠大の鴻業(こうぎょう)(大事業)として一朝一夕に奏功(そうこう)す(出来上がる)べきにあらず。(したが)って資本も莫大なれば……吾輩のごとき貧人に至ってはたとえ後来(こうらい)将来)大なる利益ありて自家の富楽を(きた)し、往々国家に(こう)(えき)(大きい利益)あるを知るも、目下資本に乏しきを以ってただ徒に遥貌(ようぼう)(遠くから望み見るに)して他人の快楽を(うらや)むのみなれば、その業の進むに(したが)い、富者はますます富み、貧者はいよいよ貧に陥り、遂に国家の衰運を招き来さんとす。これを以って、吾輩同志相集り、無産無資の貧人をして容易にこれに従事するを得て、小より大に進み、卑しきより高きに達し、遂に国家の衰運を挽回するの大事業を興起(こうき)せん(盛んにし(おこ)す)と、同盟の人々、申し合わせ規則を設立する事左の如し」

「満期以後といえども、決して本社を解放するを欲せず、社員は各自奮発勉励して永続の方法を謀り、同盟者は子孫永々同心協力して、小にしては各自の生産を経営し、大にしては日本帝国の財政を(りゅう)(ほう)(盛んで豊か)ならしめ、万一有事の日に際せば北門(ほくもん)枢要(すうよう)(しょう)()(敵の攻めて来る北方の重要な道)に当たり、(しかばね)を北海の浜にさらし、日本男子たるの本分を尽さん事を最後の目的とす。ああ、わが同志愛国の諸君よ、僅かの酒飲料の一部を投じて永く子孫の生産を図り、併せて報国(ほうこく)赤心(せきしん)(国の為に尽くすというまごころ)を奮起するの意なきか云々」。

「なる程、なかなかの趣意書だ」

佐二平も善六も、一読し深く頷いた。

「赤心社という社名はこの〝報国の赤心を奮起する〟から採ったもので、大した意気込みです」

勉三はいかにも感に堪えないと言うように呟いた。

「恐らくは家禄返還によって僅かな下付金を得た士族諸氏を糾合(きゅうごう)して北海道開拓を志したものであろう。あくまでも貧民士族の富裕を図るものであるが、国家に報いんとの赤心・真心もまた見事なものだ。勉三、お前もこのような士族結社に負けないような社を組み、世の為人の為に至誠を尽くすことだ。三余先生もあの世からきっと見ておられるに違いない」

佐二平のこの言葉に、善六もまた同意した。

「そうだ。農たる者の誇りを忘れず、農として、農を通じて立派に社稷に報いる。名利(みょうり)を求めず、無私献身を貫くことそれが三余先生の教えだった。勉三君、君の背後にはわれわれ三余塾門下生がついていることを忘れないでくれ」

佐二平と善六は、それぞれに、これから先どんなことがあろうともこの一途で大いなる使命に燃える勤勉一筋の勉三を支え抜いてやろうと、あらためて心に固く誓っていた。

「ありがたいことです。私も三余先生の名を辱めないよう命懸けでやります」

勉三は遥か遠くをグッと睨み、自らに言い聞かせた。 

(3)

「ところで」と佐二平が尋ねた。

「勉三、お前は入殖地を北海道のどこに選定するつもりなのだ?」

勉三は断定的に答えた。

「実は、既に十勝野にと心に決めております」

勉三がこの時まで「十勝野」と言い出さなかったのは躊躇があったからではない。まず北海道開拓の事業を興すことが決まらねば何も始まらないからであった。入殖地選定の問題はそれからの話だった。

「十勝野? 十勝野と言えば随分奥地ではないか」

善六は驚いたように聞き返した。

「困難が予想される十勝野を選定するからには、それだけの理由があろう。それを聞かせてもらおう」

佐二平も勉三を促した。

「既にお話ししましたように、松浦氏もライマン氏も、十勝川上流には広大肥沃の平原地が眠っていると記しており、私は渡北前からそれに関心を持っておりました。 

 実際、この目で十勝川の河口付近の原野を視察して来ましたが、その広大さと草木の豊かさは目を見張るばかりです。河口付近ですらこうなのですから、中流・上流は推して知るべしでしょう。

 大津周辺の者も中上流は比較的温暖で昔から鹿猟の宝庫としても有名だと申しておりました。

 あの開進社もこの地に目を付けているようです。いずれあちこちの移民団体が入殖を始めるでしょうが、とりあえず私は中原に一万町歩の牧場地を拓きたいと考えています」

「一万町歩とはな! これは驚いた。想像もつかぬわ!それにしても既にそこまで考えておるとは……」

善六は目を見張って勉三の顔を覗き込んだ。

「開進社と競り合おうというのか? 焦っているのではあるまいな」

佐二平はあくまで冷静であった。

「その点はご心配なく。何も功を一人占めしよう等という気持ちは毛頭ありません。それに、函館の田本氏の話では、開進社は現状で手一杯で、とても十勝野に手を着けられるような状況にはないそうです。おそらく、十勝野に道路が開削されるまでは、誰もなかなかあそこに入殖しようという事にはならないでしょう。それに、開拓使は対露防備の軍事的価値がないということで、全く動こうとしていません。それだけになおさら、今こそ十勝野を世に出す為に壮大な企画を立てて世に問うことが必要なのです」

勉三が「一万町歩の牧畜場開拓」という途方もない企画を打ち出したのには、それなりの理由があった。

ケプロン調査団は、北海道には広大な平地があり、気候的にも牧畜・畑作に適していると、繰り返し指摘していた。が、問題は道路であった。

ケプロンは「北海道開拓の要は道路にあり」と指摘し、「道路は国の血脈なり。脈絡なければ木偶(でく)(木彫りの人形)の如く活動あるなし。これをこそ開拓使の最も緊要にして急務の事業とす」と強調していたのである。

十勝野を世に出す要はこの道路問題にあった。しかし、未だ新政府にその機運はない。如何にすべきか? 

―もし十勝野奥地に実際に牧場地が拓かれれば、政府も開拓使も日本の国民もこの地に強い関心を持つことになる。そうなれば、必ず道路の開削が進むはずだ。まずは何としても大計画を持って奥地開拓に先鞭をつけることが大事である。牧場は畑作と違って開拓開墾が容易であり、十勝野のような奥地を一気に拓くには最適であった。まず牧畜を軌道に乗せ、その後で畑や田の開墾に取り組んでいけばよい。

つまり、勉三が敢えて「一万町歩の牧場地開拓」という壮大な企画を公言しようとする真の目的は、政府・開拓使をして十勝野の道路開削に目を向けさせることにあった。その為に、まず自らが先兵となって十勝野に入り、旗を立て、道を切り開く決意であった。

「畑作地の開墾は困難ですが、牧場地の開拓はそれ程のことはありません。もっとも、最初は自給自足の為の畑作地の開墾がぜひとも必要で、これは何としても軌道に乗せねばなりません。問題は米です。ケプロン氏は小麦適作論を唱え、米作は不適にして益無しとしていますが、道内各地で稲作が試みられ、中山久蔵氏などは南西部一帯の寒地稲作に一定の目途を付けています。十勝野でも決して不可能ではないはずです。勿論少し先の話になるでしょうが、いずれぜひ挑戦してみたいと思っています」

「ほう、そこまで考えておるのか。これなら成功間違いなしだ。のぅ、佐二平さん」

「うん。だが道路が開けておらねば、運送運搬の問題がしばらくは大きな壁になる。この問題をどうするかだ」

「それについては、アイヌの人々に(なら)い、十勝川の舟便を利用することになります」

佐二平は、先ほどから感心しきりといった按配の善六の顔を見ながら、笑って応えた。

「そこまで掌握しているのであれば問題はない。一族挙げて協力しようではないか。新しく作る結社の趣意書・規則その他はお前に任せよう。渡邉君とよく相談して作るがよかろう」

この日、次のことが決まった。

新しく創る移民結社の資本金は五万円とする。最初に依田一族を中心にして有志より半分の二万五千円分の株を集める。残りの二万五千円分の株は順次、現地自耕者より募集していくこととする。明治十五年の五万円は現代のおよそ四、五千万円に当たる。ちょうど近々佐二平と善六が中心になって(とう)(なん)汽船会社を興すことになって

おり、依田一族だけで全てを負担することは難しい。それに三余門下に助成を請うことは、それなりに意義を有することであった。この事業をやり遂げることは「日本国の農としての誇りを忘れず、世の為に人民の為に尽くせ」と教えた三余先生門下の底力を示すことにもなるからだ。

 

勉三はすぐに結社の『規則』の執筆と仕上げに取り組み始めた。既に構想は出来上がっていた。彼は、その巻頭に簡潔極まりない筆致で、次のような呼びかけを掲げた。

「北海道の(かい)()(開かれるか否か)は、わが全国の形勢上、重大の関係あるところなれば、国民の義務としてその責任を担当せざるべからず。これこの社を起こす所以にして又わが同胞人民の賛成を請う所以なり。熟々(つらつら)(よくよく)全道を察するに、周囲八百里、沃野渺茫(びょうぼう)(果てしなく広々とした様)として極まり無きも、人口わずかに二十万人。商に漁に(やや)(少しばかり)緒を(ひら)くと言えども未だ耒耜(らいし)(すき)をとるもの甚だ(まれ)なり。その偶々(たまたま)これあるも唯に三、四州に過ぎず、(しこう)して(そしてしかも)他の七、八州は実に無人の地なり。今この曠野(こうや)をして(しゅう)(せい)(秋の取入れ)を速やかにせんと欲せば、牧畜に()くはなし。況やや穀菜はある緯度のみ適するも牧畜は遥かにその緯度を越えて(はん)(そく)(盛んに増大)すべきに於いておや。故に先ず牧場を開き、ようやく人口を()(しょく)(増やす)して(じゅく)(でん)(耕作された田)となして国帑(こくど)(国の財産)の万一を補せんとす。仰ぎ願わくば諸君幸いに本社の微衷(びちゅう)(わずかな真心)を()れ、協力賛成あらんことを」と。

勉三の入殖目標地ははっきりしていた。「他の七、八州は実に無人の地なり。今この曠野をして秋成を速やかにせんと欲せば、牧畜にしくはなし」―即ち奥地たる十勝野の開拓開墾である。

そして、士族移民団や士族結社に必ず顔を出す〝北の守り〟を意味する「北海道は北の()(やく)」という言葉はな

く、「わが全国の形勢上、重大の関係あるところなれば」と軽く触れるにとどめている。平民にして百姓であった勉三の開拓目的は、開進社や赤心社とは全く異なり、農そのものが目的であり、農を通じて国に貢献することにその本志・本懐があった。 

  (4)

「ほぅ、雪か!」

渡邉勝は窓の外に目をやった。旅館吉村の二階部屋のガラス戸越しに、ちらちらと粉雪が舞っていた。伊豆は温暖の地ではあったが、たまに雪が降った。昨年の冬は猫越峠が雪で不通になった。それにしても、このように十二月半ばの雪というのは珍しい。

「北辺の地十勝野の雪はどんなものであろう?」

勝の目には、勉三が熱く語って止まない十勝野の広大な平原に燦々と降り積もる大雪の光景が浮かんでいた。

この日、勝は朝早くから開拓雑誌に載った赤心社の記事に目を通していた。彼は何かじっくり読みものをしたり考え事をしたりする時、よくこの吉村の二階部屋を使った。宿の主も、昼間は大抵空いているこの部屋を、自由に使わせていた。学校の寄宿舎に寝泊りしていた勝にとって、吉村はいわば「別宅」のようなものであった。

勝は生徒に洋学を教えながら、勉三の北海道周遊記、ケプロン報告書だけでなく、津田仙の開拓雑誌や赤心社に関する資料を懸命に読み込んでいた。赤心社に関する記事をぜひ読むようにと勧めたのは勉三であった。「士族でキリスト信者である勝君には、津田氏の主張や赤心社の開拓趣旨などがしっくり来るのでは…」と。勝には勝の開拓に向かう思慮と思いがあるはずで、それを大切にすべきだと考えたからである。

実際、勝は「英雄渡邉(つな)末裔(まつえい)」であるという血筋を誇る士族であり、米国ピューリタンに通じたキリスト信者であった。つまり赤心社の鈴木清や学農社の津田仙らとはその身分的思想的背景をほとんど同じくしていたのである。勉三は、三余精神を以って自らの開拓精神の根本とした。が、それはそれとして、当然個々の参画者の思慮は尊重されるべし、と考えていた。

 津田仙が雑誌上でしきりに説いているように、あるいはケプロンが繰り返し強調しているように、困難の伴う開拓事業を成し遂げるためには、開拓団の幹部たちに強い不屈の精神力が求められる。(あつ)い義心が求められ、大変な犠牲的精神が求められる。強制・強圧に()らず、自らの意思と思慮を持った自主独立の人としてその事業に臨んでいくことがぜひとも必要なのだ。勝君を支える義や道がキリスト教や士族としてのそれならば、それはそれで尊重されるべきだ。

勉三の本心であった。実際、勝だけでなく、後に参画することになる鈴木親長・銃太郎・カネらにとって「アメリカピューリタンの開拓精神」は非常に身近なものであった。

勉三は、三余の教えから、人が大事を起こし大事を成す上で最も大切なものはその人間の志、思慮、信念その精神・思想にあることを了解していた。即ち(わたくし)を去り(おおやけ)に徹したその意識・信念こそが大いなるエネルギーの根源であり、大事を成し遂げていく根源的力であることを感得していた。

勝は津田や赤心社の文書に眼を通しながら、これらの文言はまるで自分のために書かれたようなものだ、とさえ思っていた。だからと言って勉三の「趣意書」に不足不満を感じたわけではない。逆だった。勉三がまとめ上げた「趣意書」にはこの開拓事業によって己が利益を得ようとか、名を上げようとかという私欲私心が全くといってよいほど見られなかった。

 私利私欲によって動くことは卑しいことであるという思慮は勉三さんの第二の天性になっているようだ。むしろ神戸で貿易商を営んでいる鈴木氏ら赤心社の方が株主・耕夫の「利益」や「富楽」についてより多く求めているように見える。勉三さんが「国民の義務として責任として」と言うとき、それは文字通りの意味を成しており、私個人の立場というものは見事に投げ捨てられている。だからこそ、正面きって「わが同胞人民の賛成を請う」と呼びかけることができるのであろう。

 「先ず牧場を開き、ようやく人口を加殖して熟田となして国帑の万一を補せんとす…」か。無人の曠野となっている沃野十勝野を、一日も早く拓き、農業地として世に出そうと心に決めているようだ。そうすれば、(こく)()

即ち国の財産の一部を補うことができるのだから、と。これもいかにも勉三さんらしい。

勝は、勉三のそういった純粋で頑固なまでの公徳心・公益心に頭が下がり、敬服していた。

「何があろうと、勉三さんの片腕になって十勝野開拓に尽くそう。そして出来得るならば十勝野の大地にワッデル教会堂を建ててみたいものだ」

ふと窓外に目をやると、伊豆の空に粉雪が激しく乱舞していた。 

  (5)

勉三は佐二平や善六と相談しながら、長年温めて来た「会社規則」の下書きを一気に書き上げた。明治十四年の年の瀬ついにそれは完成を見た。佐二平は感慨深げに呟いた。

「見事なものだ。よくここまで漕ぎ着けたな」

佐二平の脳裏に、ふと懐かしい三余先生の面影が浮かんだ。

師三余がこの世を去って既に十六年が経とうとしている。この間、おのれも戸長・郡長・県議の役にも就き、幾つかの学塾を(おこ)し、学校を建て、製糸工場を操業させ、郷土の為に尽くして来た。しかしながらそれらは依田家の総領としての義務的な仕事でもあった。師がしきりに説いたのは、日本の農として、国家の大本たる農を興し、農を以って国に尽くせ、という教えであった。どうしたらそれに応えることができるのか。思いは幾つもあった。しかし、本家総領の立場がそれを自由に探求することを許さなかった。だから、弟勉三が「十勝野開拓の結社を興したい」と申し出て来た時は、本当にわが事のように嬉しかったのだ。

「三余先生の思いがいよいよ実現していこうとしている。勉三と共にこの事業を必ず成し遂げよう」

佐二平はそう心に決めていた。

静かな年の暮れの夜更け、佐二平は「会社規則」と大書された小冊子をゆっくりめくった。 

「会社規則」の中身を見てみよう。

「晩成社の営業は十五年をもって満期とし、資本金は五万円とする。一株の金額を少額の五十円とする。内二万五千円は明治十五年中に募集を完了させる」

この二万五千円分については伊豆の依田一族と有志者がこれを持つことが決まっていた。

「残りの二万五千円は十ヶ年間の募集とし、これは開拓現地の自耕者より集める」

現地に移住する農民・耕夫を新しい株主にしていくことが最大の眼目であった。

「資本金の運用金利を社の運営費・開墾費にあて、十五年満期には資本金はすべて出資者に戻す。開拓事業において金利分だけでは不足が生じた場合、五千円以内であれば社の資本金から借り入れることとする。株主によって構成される会社(地主にあたる)が土地を所有し、そこで自耕する農夫は株主であろうと借地人であろうと、皆が二年目から地代として収穫の十分の二を会社に納める」

しかしながら、赤心社と異なり、勉三の場合、この耕地を増やすことや地代収入の増収を図ることはその主たる関心事ではなかった。勉三の最大の関心事は次の規定にこそあった。

「本社は一万町歩をその筋より願い受け、まず牧場となし、人畜(じんちく)(人と家畜)繁殖の形状により、漸次牧場を変じて耕地となすべしといえども、結社十五年間にしてことごとくを耕地にすべからず」(十一条)

「耕作者は余力を以って共同して牧畜に労働すべし。本社は年末に至り、人毎に日当なりあるいは牧草を買い取るなり、便宜に随い、金員(金銭)を支給す。耕作者は(がい)(きん)(当のその金)を領取支消するなど各自の随意たるべしといえども、なるべく本社へ入金して借地人は株主となり、株主はますます株数を増加するを要す」(十五条)

勉三の脳裏にはつぎのような将来計画が刻まれていたのである。即ち、あくまでも先ず自給するための土地を開墾し、その上で牧場を開き、これをもって経営を発展せしめ、牧場の一部(あくまでホンの一部だけ)を耕地に変えていく。また社の耕地と機械諸具一式を農民に貸し付けて牧草を作らせ、それを社が買い取る。更に社の牧場地開拓や牧畜業務に携われば日当を出す。こうすれば、借地人(耕夫農民)はその収入で株を購入することができ、自らが会社の株主となることができる。

つまり、これによって現地農民主体の結社、即ち現代で言うところの農業共同化法人のようなものに発展させることができる、というわけである。

あくまでも、主たる事業は牧畜である。その為には社の存続が不可欠である。満期に至った時には牧場や耕地は適当な方法で公平に株主に配分するが、「なお本社を存して維持するも社員の集議に決すべし」と付記し、共同結社として存続させる道を残したのはそれ故であった。

 会社(農業共同化法人のようなもの)がそのまま耕地・牧場・牧畜を保有・経営し、ケプロンの欧米式大農法を目指していくことが出来れば…。

それが勉三の心からの望みであった。 

佐二平は勉三が書き上げた「規則」を一読し、勉三の志の高さと綿密な将来計画に驚いた。

 確かに、開拓用地一万町歩の下付願いは、赤心社のそれが三百数十町歩であったことを思えば、途方もない広さに見える。ライマン氏はこの地には四万エーカー、即ち一万六千町歩もの原野があると主張しており、一万町歩はその六割に過ぎない。決してあてずっぽうの数字を弾いたというわけではなさそうだ。会社営業満期十五年も、下付願い地の広さからいえば赤心社の十年より随分短い。しかし、比較的開墾容易な牧場地が主である。道路が開かれ、開墾・耕作のための米国式農業機械の導入が可能になれば、これも決して不可能な数字ではあるまい。それに出資金の大半を請け負うことになっている社員一同にしても、この事業から収益を得ようとか、資本を早く引き上げて他に回して儲けよう等という考えは全くない。したがってこの満期がいくらか延びたとしても大した問題になるはずもない。

実際、勉三は十分な成算を持っていた。だから、敢えて次のような条目を付け加えたのである。

「社としてできる限り積み立てを行ない、その積み金は社員集議の上、小にしては本社殖民地のために学校・病院・道路費および救恤(きゅうじゅつ)(貧困者・被災者等の救済)等を補助し、大にしては国家の義挙に応じ、本社は国民の義務を(けつ)さん(尽くさん)として成立するの主意(しゅい)(主要な意義)を(しん)(ちょう)(大いに発揮する)するものとす」(八条)

「積み金は本社の主意を振張する義金なれば満期解社のときといえども各自へ配布するを許さず。而して該金は満期に至れば一時に国家のため応分の事業に()(しょう)(支出)するも、また永続して時々の義挙に応ずるも社員の集議に決すべし」(九条)

「いかにも勉三らしい」

佐二平は唸った。既に外は白み始め、夜が明けようとしていた。

「これを口にするのは容易(たやす)いことだ。しかし、われわれ三余門下生は何よりも実践躬行(きゅうこう)(自ら進んで実際に行動し範を示して行く)の徒だ。やると言った以上は最後までやりぬかねばならん。我が一族も、それだけの覚悟を持って事に当たらねばならないのだ」

佐二平にこの「規則書」を見せられた善六もまた、佐二平のこの言葉に深く頷いた。 

明治十五年元旦依田一族の恒例の新年会が、まだ名前の決まっていない勉三開拓結社の事実上の創設宣言の日となった。この日、依田本家の長佐二平と松崎分家の長善六今や南伊豆を代表するこの二人の実力者が、勉三の開拓事業を全面的にバックアップすることを公表し、宣言した。

広間に集まった一族を前に、仁王立ちした勉三は、北海道周遊出立に際して詠んだ自作詩を、朗々と謡い上げた。

 ますらおが心(さだ)めし北の海

  風吹かば吹け浪立たば立て

祝宴の場は一瞬しんと静まり返り、やがて盛大な拍手が巻き起こった。一族の者すべてが、仁王立ちして謡うその勉三の姿に、彼の開拓事業に対する並々ならぬ固い決意を感じ取っていた。

もっとも、理由あってのことではあるが、勉三姉妹と一族の女衆の多くは、

「そんな恐ろしい蛮地に、何故、わざわざ出かけて行かねばならないのか」

「温暖の地で育った女子供が、凍え死んでしまいそうな寒地で本当にやっていけるのかね」

と、それ程好意的ではなかった。後に明らかになるが、彼女らの心配は単なる杞憂(きゆう)に終わらなかった。

そんな女衆の中で勉三の尋常ならざる心境を誰よりも深く理解していたのは、招かれて祝宴に加わり、亡き夫三余の「形見の言葉」を思い起こし、そっと涙を拭いていたミヨ夫人であった。 

  (6)

明治十五年正月元旦

依田一族が勉三の北海道開拓結社創設を祝っていた頃、勝もまた東京でワッデルや教会仲間と共に開拓団参加を祝っていた。そして数日後、勝は横浜に向かった。当時横浜の石川町に住んでいた鈴木親長・銃太郎父子に会い、開拓団への参加を勧めるためであった。勿論、勉三・佐二平とは相談の上のことである。

かねてから親長は北海道開拓に強い関心を持ち、機会があれば開拓団に参加したいと、周囲に漏らしていた。親長がそう言い出した切っ掛けは明治十年に起こった西南戦争である。とりわけ尊敬する西郷の憤死が親長を突き動かしていた。

「西郷さんが早くから建言していた通り、北海道に鎮台を置き、あちこちにもっとたくさんの屯田兵団を進駐させ、路頭に迷った没落士族を送り込み、北辺の開拓事業に就かせておれば、こんな馬鹿な結果にはならなかったはずだ」

そう言って西郷贔屓(びいき)の親長はしきりに悔しがった。

 その頃、親長はたまたま元加賀金沢藩士林(けん)(ぞう)が明治七年六月に著した『北海紀行』を入手し、これを愛読していた。それは明治の愛国人士が記した「北海道見聞録」とでもいうべき書であった。林はその序にこう記していた。

「吾が(くに)の外患は必ず露国」となるであろう。故に「憂国の(やから)(しか)れば北海南北の両島(樺太と北海道)を開墾し漸次盛大にすべき」である。しかし「その地理・景況を記載するもの若干ありと(いえど)も、皆昔日に属し、現今漸々(ぜんぜん)(次第に進む)開化の実際を記載せるもの世に少なし」。自分は「青年より久しく兵役中にあって文筆に(うと)い」が、一念発起し「北海の地を跋渉(ばっしょう)」し、「見聞の記事」を「皇国人民」に供することにしたのだ、と。

彼もまた、対露軍備を唱え、失業士族たちに北海道移住を強く訴えていた。が、渡北して見聞を広めた林は、開拓使が既に「メリケン人農学教師ケプロン氏」を顧問として雇い、「洋人をして全島一円の度数(温度や緯度など)を測量し、地図を(せい)(しょう)(細かく詳しい)にせん」としていること。既に七重村に四百万坪の勧業試験所が拓かれ、開拓支援が進んでいること。この地における養蚕は前途洋々たるものがあること等々、明治六、七年頃の北海道の開拓事情を詳しく紹介し、農事開拓を強く(すす)めていたのである。

親長はその書を一読し、特に北海道の養蚕に関する詳しい記述に惹きつけられた。そんなこともあり、二年半程前の明治十二年夏、親長は「没落士族は(すべか)らく開拓農民となって殖産興業に励むべし」と訴え、周囲に北海道移民団の結成を呼び掛けていた。残念ながら、最終段階で、出資渡北するはずだった士族仲間が尻込みし、この話は立ち消えになってしまったが、親長の胸には今なお、北海道開拓の野望が燃え盛っていた。

ただ、此度の上京では、勝は親長だけでなく、当時ある事件で失意のどん底に居た銃太郎を開拓団に誘うことが大きな目的になっていた。

勉三と蓮台寺にやって来たワッデルから、旅館吉村に泊まった夜「実ハ…」と聞かされたのは、銃太郎が埼玉和戸(わど)教会で「ある不祥事」を起こし、それが原因で一ヶ月ほど前に牧師を辞任したという驚くべき事実であった。

教会内部でも詳細はあまり明らかにされていないようであったが、各方面の話を総合すると、生活上の細々とした事柄について信者の家の世話になっていた二十四歳のまだ若い銃太郎と、その家の夫人との間に「嫌疑の風聞」が立ち、基督公会の調査が入ったということのようであった。

どういう嫌疑だったのか、結局銃太郎は自らの落ち度を認め、一年と一ヶ月で牧師を辞めざるを得なくなっていた。

勉三は、勝から「銃太郎失意」の件を聞かされていたので、「彼を北海道開拓事業に誘いたい」との話が出された時、一も二もなく賛成した。

「何があったか知らないが、真面目な銃太郎君のことだ。新天地に移り、初めからやり直しすれば、また牧師として説教台に立てる日も来るだろう」

そんな配慮からであった。 

明治十五年正月九日

真一の横浜写真館に泊まっていた勝が教会仲間であった(なか)啓介(けいすけ)氏の宿に寄ると、そこへ偶々銃太郎がやって来た。思った通り、銃太郎の表情は冴えないものであった。

勝が「実は、親長殿にお目にかかり、お話ししたいことがあるのだ」と言うと、銃太郎は「例の話をするつもりか?」と、驚いたように聞き返した。銃太郎は、勝が自分の妹のカネに好意を寄せており、いずれ結婚の申し込みをしたいと言っていたことを思い出したのだ。今までずっと、勝から「いずれ私がきちんと親父殿にお願いに伺うから」と口止めされていたので、このことはまだ誰にも、父にも本人のカネにも話していなかったのである。

「例の話って? ああ…」と、勝は顔を赤くし、強く手を振り、慌てて言った。「そう、そう、その例の北海道開拓団の話なのだ! 実は、ワッデル先生とも相談の上のことなのだが、我輩は勉三さんと一緒に北海道に入殖することにしたのだ」

勝は、驚く銃太郎に、勉三がこの夏北海道に渡って下検分を行ない、入殖の準備を始めていること。伊豆蓮台寺の旅館でワッデルを含めた会談を行ない、その結果自分も開拓団に加わることにしたこと等を伝えた。

「親長殿はかねてより北海道入殖にずいぶんご執心の様子。勉三さんもぜひ一度話してみてくれというので、こうして出向いて来たというわけだ」

勝はそう言って銃太郎に顔を向けた。敢えて銃太郎を誘う言葉は口にしなかった。

「願ってもない話だ。父は昨年十一月からカネの通っている横浜女学校で漢文を教えているのだが、北海道入殖の夢が忘れられないらしく、未だに林顕三氏が公刊した書籍を持ち出し、しみじみと眺めていることがある。ただ母は恐ろしい囚人と熊が住む北の蛮地などに行くのは真っ平ごめんという人で、なかなかすんなりとはいくまいが」

銃太郎はそう答えながら脳裡で何かが閃くのを感じていた。

後日、勝は、その銃太郎から「その時、そう答えながら自分の頭に不意に聖書のマタイ伝福音書のある一節が啓示のように浮かんだのだ」という興味深い話を聞かされた。「人もし我に従い来らんと思わば、己を捨て、己が十字架を負いて、我に従え。己が生命を救わんと思う者はこれを失い、我がために生命を失う者は、これを得べし」これがその時脳裡に浮かんだ一節だったという。

「銃太郎君、どうかしたのかい?」

勝の呼び掛けでハッと我に返った銃太郎は、身が震え、茫然として声も出せずにいた。

「いや、何でもない。とにかく、明日我が家に来て貰おう。父を交え、ゆっくり話を聞こう」

 この日、銃太郎は何事かに心を奪われたかのように沈黙し、早々と友の宿を辞し、急ぎ家に帰って行った。

中はその後ろ姿を見送りながら呟いた。

「親長殿もいよいよ渡北か。父親思いのカネさんはきっと寂しがるだろうな」

勝は友のその呟きを耳にし、何故か「ふうー」と溜息を漏らした。

 自分にも、北海道に渡る前に乗り越えねばならない高い壁がまだ残されているようだ…。

脳裡に純情純真そのものといった風情のカネの白く愛らしい顔が浮かんだ。

 それにしても、この話、どうしたものか…。また、ワッデル先生に頼む外なさそうだ。

一方、銃太郎は横浜石川町の家に向かって歩きながら、先の「啓示」について(しき)りに考えていた。

 恐しい蛮地…己が生命を捨て…そして十字架を背負って…。

突如舞い降りた聖書の一節が頭にこびり付いて離れなかった。その最大の原因はやはり和戸教会の不祥事にあった。

 ―指弾(しだん)されても致し方ない軽率な振る舞いであった。新天地に移り、一から自分の信仰を鍛え直すべし、ということかも知れぬな。

銃太郎は次第に「北の新天地」に惹きつけられていく自分をどうにも押しとどめることができなくなっていた。

 教会堂の中の牧師ではなく、荒野の伝道師として生きるのも悪くはない。汗を流して開墾の鋤を振るい、畑を拓き、穀物の種を播き、収穫の秋を喜ぶ。主への罪を償いながら、蛮地の片隅に種播く人になるのが一番自分に相応しい生き方なのかも知れぬ。心配している父もきっと喜ぶことであろう。

これは、彼にとって全く思いがけない成り行きであった。

「開拓地では、神の教えに従い、悩める者、弱き者、貧しい者を救うためにできる限りのことをしよう」

そう思ったら急に気が楽になった。運良く勉三の開拓団に参加できそうなことがむしろ「神の導き」とも思えた。家に着く頃には銃太郎の心はもう既に決まっていた。

翌日、親長夫人(なお)が北海道開拓話を毛嫌いしていて、自宅で談じ合うなどとてもできそうにないというので、勝は鈴木父子の待つ友人の下宿屋に再び向かった。

勿論、勝はまだ銃太郎が渡北移住の決意をしていることを知らない。

親長は勝を前にすると、興奮を抑えきれないように唾を飛ばした。

「依田君がいよいよ結社を起こしたか。さすがに豪農依田家の血筋じゃな。一、二度言葉を交わしただけだが、大望を腹蔵した一途な男とわしが見込んだ通りじゃ。それにしても北海道開拓を目論んでいたとはな。随分前からの企てだったそうじゃな。忍耐して時来るまで待ち、時到らば断然と行なう。いかにも大器晩成の彼らしいやり方じゃ」

親長はよほど勉三が気に入っていたようである。

「渡邉君、君までもが入殖し開拓に乗り出そうとはな。結構、結構。北門の防備は国家の大事にしてその鍵は北島の開墾勧農にありとは林顕三氏熱誠の陳述だ。士族青年はすべからく開墾勧農にいそしむべし、とな」

親長はキリスト教徒ではあったが、やはり根は士族であった。

「それにしても、依田一族がこの開拓事業を支えるということであれば成功は疑いなかろう。大農場を拓くということになれば、やはり先立つものは資金だ。国家も盛んに入殖を奨励し、便宜を図るというが、つまるところはまとまった自己資金がなければ動けないのが実情なのだ」

 親長は、先の入殖計画ではあまりに事を急いだ結果、肝心の出資者の開拓魂がふらついていることを見落としてしまったと、苦い顔でその経験を語った。

勝は二人に、勉三が開拓結社の規約規則を練っていること。今年夏にもう一度渡北し、まだ誰も手を染めていない奥地の入殖地払い下げを願い出ようとしていること。来年四月には第一次開拓団を出発させる予定であること等々を告げた。

「それでよい、それでよい、拙速は禁物じゃ。じっくり時をかけて準備するが良かろう。わしらも来年の春には皆と一緒に出立できるよう、しっかり手配していくつもりだ。渡邉君、依田君にわしも、そして銃太郎もぜひ開拓団に加えてもらいたいと、きっと伝えてくれ」

親長は両の手に力を込めて勝の手を握った。

「えっ、銃太郎君も開拓団に! これは驚いた。勉三さんも大喜びだろう」

勝は大仰に驚いて見せた。今更理由など聞くまでもなかった。

「よろしく頼みます」

 と、銃太郎は幾分顔を赤くして頭を下げた。

「全て神のご加護さ。(しゅ)に感謝しよう」

銃太郎の目に熱いものが込み上げた。 



【第11回掲載 2024年2月】

 

 第十章 十勝原野

 

  (1)

勉三が根室を発ち、釧路を経て初めて十勝の国に入ったのは、明治十四年十月二日のことである。

十勝原野の奥から流れ下って来た十勝川は下流平野部で本流・支流の二つに分かれて海に流れ込んでいる。小舟に乗って十勝本流を渡り、一里半ほど歩いて更に支流大津川を越えねばならなかった。

大津川の渡し場から港のある村落に出ようと、南に下る途中、道を見失い、気が付くと小高い山の頂に出ていた。勉三は来し方をふと振り返り、名状し難い感動と興奮に襲われた。

眼前の十勝川河口の平原は、海辺に沿って東方向に二里余り続き、十勝川の上流北方向に遡ること八、九里に及んでいる。その中原を、十勝本流と大津支流が曲線を描いて悠々と流れ、至る所に沼を造り、岸辺に葦原や木々を茂らせている。

「何という広さ、豊かさであろうか! この奥にライマン氏がいう四万エーカーの大平原が横たわっているのか。ここに大沢・松崎の村々なら幾つ入るであろうか。しかも一面萱の原で、樹林も(まば)らだ。牧畜には最適であろう。やはりここだ。この十勝野こそわが入殖の地に違いない。かつて静岡藩の移住者がこの地で鋤を振るい、汗を流したことがあるというのも、何かの因縁に違いなかろう」

勉三もつい最近知ったことであったが、明治の初め、ここ十勝、中川、河東、上川の四郡は、徳川宗家十六代(いえ)(さと)を藩主とする静岡藩の支配下に置かれていた。新政府と開拓使は一時期、国有轄地外の奥地十勝一帯を、静岡・薩摩の二藩に命じて管理させようとしたことがあった。薩摩は早々と手を引き、後事はすべて徳川の一族たる一橋・田安家に任された。一族にとっては土地開拓などは問題外のことで、経営の関心は専ら商場(*あきないば)にあり、漁業・交易の監督がその任となった。

*商場…元は松前藩が藩主の直営あるいは藩士への知行として設定したアイヌとの交易のための場所。家臣はそこで米・酒・漆器などとアイヌの毛皮・干鮭などとの「物々交換」を行い、莫大な収入を得た。やがて松前藩は運上金を取ってその経営を内地商人に任せるようになる。この商場制度は明治の初期にも残っていた。

 

それでも静岡藩は大津に役宅を置き、白野(しらの)()(うん)を現地責任者として旧藩士六戸七人を移住させ、商場管理だけでなく、役宅付近に一町五反ほどの畑を拓かせた。言うなればこの静岡藩の移住団こそ最初の十勝野開拓団だったと言えなくもない。

夏雲は藩命によって帯広一帯の地勢調査を行なっている。どうやらオペレペレプ(あるいはオベリベリ)というアイヌ語地名に「帯広」の漢字を当てたのはこの夏雲のようである。

 明治七年五月、十勝もまた国の直轄地に編入された。徳川一族、静岡藩の移住団はこの時大津を引き払い、この地を去って行った。

その大津村は、今や河口の港の周囲に戸数八、九十戸を数えるこの地方最大の村落となっていた。戸長役場、駅逓(*えきてい)があり、船宿や雑貨店や蕎麦屋、貸し座敷等もあった。貸し座敷と言っても板張りの粗末なもので、鮭獲り人足の遊び場のようなものである。この村に集まってくる商人たちの目当ては鮭と鹿であり、この二物がこの地の生業の元だった。

*駅逓…駅逓制度は北海道独特の制度で、旅人を泊めたり、人足や馬を貸し出したりした宿泊所。やがて郵便の仕事も取り扱うようになる。江戸時代には通行屋という制度があったが明治維新によって廃止され、開拓使が規則を整備して重要地点に新たな駅逓所を設置した。運営には半官半民の請負制がとられ、その運営は取扱人に任された(一定の地位・財産のある者が指名された)。開拓使が廃止されるまでに全道で百十一もの駅逓所が作られている。

 

勉三が大津村に入ったのは明治十四年十月二日昼

勉三は蕎麦屋で飯を食った後、店の主と立ち寄りの商人二、三人が興じていた茶飲み話の輪に加わった。

「いずれは適当な地で開拓事業を始めたいと思っている」

 と自分の北海道周遊の意図を語り、彼らが炉辺で茶を(すす)りながら交わす世間話に耳を傾けた。

「明年あたり、北海道開進会社がこの辺に一万町歩を選んで拓くと言っているそうだ」

「田内という男がサツナイブトに九州天草から二百戸ほど移住させて来るという話もあるべ」

「十勝川上流には十里四方の平原があるのさ。この川筋を小舟で何里も遡って行かねばなんねぇほど奥深い所だが、見事な萱の原が果てしなく広がっているのさ」

「トシベツにも百戸ほど入り、オサウシには水田を拓こうという男が入るという噂もあるぞ」

「トシベツ、オトフケ、オベリベリ辺りは暖かい所なのさ。他は五尺の積雪があるというのにその辺は二尺くらいしか積もらず、冬場に野鹿はこの二ヶ所に集まって来て冬の寒さを(しの)ぐらしいと。大津川下流の海に近いこの辺りは風や寒気が強くて農事に向かないが、上流は山並が四方を包んでいて、気候もここより緩やかだから農作に適しているのさ」

「武四郎さんも、オベリベリの川筋一帯は肥沃な平地で、将来の繁盛は間違いないと太鼓判を押されており、間違いなかろう」

「しかし問題は道路の開削だべ。道路が付かなければ奥には入れまいて。何百戸が移って来るとか、何万坪が拓かれるとか景気の良い話はいくらあっても実現した(ためし)がないのも道理だべさ」

「上流にはアイノの部落もあり、鹿が多く、鮭・鱒・イトウもよく捕れていたが、近頃はどうだろう。あまりいい話が聞かれなくなったのう。カムイコタン、つまり神の国と言うほどに善い所とアイノは自慢しておったのだがのう

「うん、一昨年の大雪で鹿がたくさん死に、その上開拓使の鮭漁禁止の通達が出て取締りが始まり、これですっかり暮らしが苦しくなってしまったようだ。いずれアイノも野っ原を拓き、百姓仕事に就くほかあるまいて」

「ここ二年ほど、殿様バッタが異常発生し、辺りの草原(くさっぱら)を食い(あさ)り、山菜も根こそぎやられているのさ。去年などは大群が日高の山を越え、日高、胆振、札幌の方まで襲いかかり、移住者は皆震えあがっていたそうだと」

「そう言えば近々札幌から開拓使派遣の調査官が十勝に入り、バッタ発生の実態と土地の調査を行なうそうだ。これを機に、開拓使がもう少し十勝の国の開拓に力を入れてくれると良いのだがなぁ」

「なに、バッタ対策も札幌や道南地方の為にやるのであって、十勝に金を注ぎ込む気なんぞあるもんかね」

「その札幌だが、十ヶ年計画が終わる来年から、国の始めた幾つかの事業が民間に払い下げされることになったものの、その払い下げ先を巡って黒田長官が随分新聞で叩かれているそうではないか」

「東京・大阪から政商が黒田長官に面会を求めて押しかけてきたというに、薩摩の五代商会が一人占めしてしまったのさ。結局いつも甘い汁を吸うのは薩長閥の係累と政商ばかりだべさ」

やがて話は政談に及び、官庁への不平不満と愚痴話に至った。勿論勉三は払い下げ問題が世間を騒がせていることは知ってはいたが、どうにもこうした醜聞めいた話には興味が持てなかった。

 勉三は北の潮の香りがする茶をぐっと飲み干し、腰を上げ、そっと外に出た。

 やはり十勝野だ。ケプロン調査団の報告通りだ。ここ以外にない。それに牧畜に適しているというのも確かなことだ。

ケプロンは、「北海道農地不適論」を頻りに流していた英人探検家やジャーナリストに、正面切って反駁している。世界の人口密集地範囲を示す区分け上部線は北海道北端より更に十五度も北を走っており、地質・気候的に稲作には適さずとも牧畜・畑作には保証付きの有望地である、とまで断言していた。

 ケプロン氏の言っていることは、この地に入り、この地のことをよく知っている商人連中が語っていることと同じだ。南部太平洋に近い十勝野が牧畜農作に適さないはずがない。それにしても、良い開拓開墾適地を手に入れようと思うならあまりおちおちしても居られないようだ。早く帰り、開拓団結成の準備を進め、もう一度この地に来て本格的な土地選定を進めなければなるまい。

勉三は今日中にここを発ち、日高・札幌に向かうことに決めていた。十勝野辺りに開墾地を求めると決した以上、今ここでうろうろしている意味はない。無駄なことだ。本格的な土地調査と選定を行ない、開拓団を結成し、開拓庁に早く開拓願いが出せるように準備することが先決である。

 とは言え、彼は決して焦っていたわけではない。勉三にとって「無駄」は三余先生の嫌った「姑息」「怠惰」と同じことを意味していた。「合理主義」ともやや違う、勉三一流の即断即決主義であった。

 

  (2)

ところで、明治十三、四年当時、この十勝野に世間の注目が集まることになった最大の原因は、蝗害(こうがい)即ちバッタの害であった。昨年も今年も、十勝の奥地から日高山脈を越え、日高・胆振(イブリ)・石狩一帯をバッタの大群が襲った。(あわ)(ひえ)(きび)、麦、牧草など青草であればなんでも片端から食べ尽くし、農事に携わるものの心胆を寒からしめていた。

驚いた開拓使は発生源を突きとめるために吏員を全道各地に飛ばした。その結果「十勝国の河西・中川両郡」が問題の地であるらしいことが判った。そこであらためて、内田(きよし)・田内(すて)(ろく)の二人の吏員を派遣し、内陸十勝野の地勢調査を行なうことにしたのである。

勿論それまでも内陸十勝野が全くの未調査地だったわけではない。寛政十二年には幕府の命で胆振(いぶり)勇払(ゆうふつ)(づめ)八王子同心皆川(しゅう)太夫(だゆう)が大津から十勝に入り、日高山脈を越えて沙流川上流へ抜けている。安政五年には松浦武四郎が石狩川をたどり、十勝川筋を下って道東へ抜け、肥沃の平野地の存在を確認している。静岡藩士白野夏雲の調査もある。そして明治七年にはケプロン調査団の一翼を担うライマン一行が石狩上流から石狩岳東の峠を越えて音更川を下り、十勝野の大平原を調査している。

ただ、開拓使が本格的に十勝野の地勢調査を始めたのは蝗害が深刻になった明治十四年秋以降のことである。

根室から十勝大津に入った勉三を追うように、開拓大書記官調所広丈(ずしょひろたけ)の命で、札幌農学校第一期卒業生で開拓使御用係の内田・田内の二人が十勝野の地形地質調査に入っていた。彼らが、三ヶ月にわたる調査の結果を『復命書(ふくめいしょ)』(調査結果報告書)にまとめ上げたのは、翌明治十五年一月、つまり勉三が北海道周遊を終えて伊豆に帰った後のことである。

「総じて十勝全国は林野草野かれこれ相半ばし、あたかも天造(てんぞう)(自然が作ったもの)の大なる牧場の如し。西北に高山ありて北風を防ぎ、雨雪を減ずるを以って土地高燥(こうそう)(土地が高くて乾燥している)、気候温和、牧草甘味にして最も水利に富む。けだし本道十一州中の最も牧畜に適したる所ならん」

 これが彼らの見立てであった。

 つまり、彼等はこの地が「開拓適地」、とりわけ「牧場適地」であることを再発見したというわけである。「開進社やら田内やらが入殖願いを出した云々」の噂も当地に田内・内田らが調査に入ると人づてに聞いた者達の世間話から生まれた誤解だった。

明治十四年の十月に十勝大津を訪れた勉三が、翌年一月に提出された内田・田内両人の『復命書』の中身を知る由はない。それを考えると、勉三の「十勝野は牧畜適地であり、必ず入殖すべし」との決断が、いかに卓見であったかがよく判る。

それを可能にしたものこそ、勉三の大いなる使命感と、ケプロンがレポートに記した助言の数々、そしてライマン一行の調査報告に他ならなかった。

 

話は少し外れる。

勉三は既に第一回目の渡北において「十勝野入殖」を決断しているこの説に異を立てる史家は少なくない。後に、内田・田内の『復命書』を読み、それに()って初めて十勝野入殖を決断した、とする見解である。しかし、勉三自身が明確に語っている。

明治二十年九月二十四日に記した、「十勝国晩成社履歴」に曰く。『明治十四年勉三は函館に航し、沿海根室に到り、石狩をし跋渉(ばっしょう)し(方々を歩き巡り)、十勝の耕牧に適するを信じ、ここに牧畜を起さん事を期す。同十五年晩成社を設立す』と。

また明治二十四年七月の「履歴書」(北海道屈指の歴史研究家河野常吉が筆写した資料)に曰く。『西別(ニシベツ)地方(西側の函館・胆振地方)より花咲厚岸(ハナサキアツケシ)(根室と釧路の間にある地域)釧路十勝と沿海を歩行す。十勝川の大なるを見て地域の大なるを察し、小山に登り沃土を眺め、又川源に十里の沃野あるを聞き、この地に開拓せんことを決す』

また明治二十五年三月に勧農協会に提出した晩成社幹事の名による「晩成社沿革史」にも曰く。『明治十四年伊豆の人依田勉三本道に来たり、渡島・後志・石狩・胆振・日高・十勝・釧路・根室等の国を視て、独り十勝に来たりて農作せんと欲し、帰りて郷友に謀るに、皆曰く、一社を立て衆を率いて移住すべしと。依りて社員を募り同十五年一月より晩成社を起こしたり…』と。

これらの文書において勉三が敢えて虚偽を記す理由など何一つ存在しない。

「勉三は第一回渡北の際に十勝入殖を決断していた」と断定して何の不都合もない。

 

  (3)

大津を出て、太平洋の波洗う海浜を四里ほど歩くと勇洞(ユウドウ)に着く。そこでは「旅の途中ここが気に入り、そのまま居ついてしまったのだ」という佐藤()兵衛(へえ)という中年の男が粗末な旅人宿を開いていた。口が重く、元は松前藩の家臣であったということ以外に自分の素性については何も語ろうとはしなかった。

後に勉三が生花苗(オイカマナイ)に牧場を拓いた際には(ねんご)ろに付近を案内してくれ、以後勉三とは終生肝胆相照らす仲となった男である。

この時も嘉兵衛は、

「今晩あたり雨が降るだろう。雨が降れば歴舟(レキフネ)川は洪水が溢れて四、五日は動けなくなる。急ぐなら今日中に川を渡っておいた方が良い」

と、親切な助言を与えてくれた。

宿主としての利益を度外視して示されたこの彼の厚意は勉三の心に深く刻み込まれ、忘れ難い思い出として残った。

嘉兵衛が忠告した通り、陽が海に没するや雨が降り出し、天はたちまち暗黒と化し、激雨となった。夕方に歴舟川の船着場に入ったころには旅人は皆すでに宿に休んでいた。勉三は嘉兵衛の助言に従い、危険を冒して川を渡りきった。既に対岸は闇の中にあった。道を見失い、叫べど呼応する者はいない。疲れ果て、手足は凍え、倒れんばかりになってようやく人家を発見し、一夜の宿を得た。

貧しい、漁を生業とする小屋の主が「これで体を温めるとええ」と差し出してくれた一本の徳利酒。主の歓待の温情と熱く燗された酒精(アルコール)とが、冷え切った彼の体と心を温めた。ふと「十勝の国と人と(うま)(うるわ)し」という言葉が浮かんだ。

彼は改めて心に誓った。

「この地に必ず人の羨むような別天地を造り上げよう」

明治十四年十月三日広尾を通り過ぎ、近藤重蔵が開いたという山道から波飛沫の襲う海浜を伝って留守別・猿留(サルル)に出る。 

更に二日がかりで険しい路を歩き、襟裳岬方面に落ちる日高山脈の背を越え、猛烈な勢いで吹き荒れる暴風に耐え、幌泉(ポロエルム)に抜け、ようやく文明の香り漂う西側地域に入る。

 

 第十一章 西の別天地

 

  (1)

日高は十勝野同様、太平洋に面している。が、日高一帯はそれ程広い平野地に恵まれているわけではない。風は少々冷たいが、道内では最も温暖で、雪も少なく、暮らし易い土地柄である。昆布・鮭など魚介も豊かで、養蚕にも十分適していた。麦・粟・稗・黍・茄子・大豆・小豆・蔬菜類は良く成熟を遂げ、更に西瓜・瓜、麻・煙草も上作で、既に水田が開かれ、反当たり七俵もの収穫を上げていた。

地味は火山灰の上に腐植土が混じった黒色砂質壌土で、決して肥沃とは言い難く、どちらかと言うと田畑には不向きであった。豊かなミヤコ笹が群生しており、気候的にも牧畜最適地であった。

明治十四年十月七日、幌別(ホロベツ)川の(ほとり)にある茶店で一休みした際、店の親父が、

「上流二里ほど入った所に臼杵(ウスキ)村・西舎(ニシシャ)村があり、今年五月に神戸から赤心社(せきしんしゃ)という、何でもキリスト教の団体らしい人々が入殖している」

と教えてくれた。

勉三はふと、クリスチャンである勝や親長・銃太郎のことを思い出し、その村を訪れてみることにした。

 確かに、この日高地方は比較的温暖で、それなりの苦労は伴うにせよ、北の気候風土に慣れない内地人が入殖するにはうってつけの地と見られていた。札幌・函館周辺は既に多くの移住者が入っており、もはや開墾に適した土地が手に入らなくなっていたのだ。実際内地からの移住者が日高一帯に次々と入殖していた。勉三が注目した赤心社もまたそうした移住団の一つであった。

現地責任者の赤心社副社長加藤(きよ)(のり)氏は不在で、しかもまだ移住は僅かに六、七戸に過ぎず、特に見るべきものはなかった。それに近々やって来る第二次移住団七十戸はここでなく、もっと地の利の良い浦河付近に入るということであった。

勉三が赤心社の名前を知ったのはこの時が初めてである。この社がどのような経緯で、どのような趣旨をもって設立されたのか、全く不案内であった。しかしながら、この時から数ヶ月後に伊豆で発足する晩成社は、一年程前に結成されていたこの赤心社から非常に多くのことを学ぶことになる。

赤心社がどのような開拓団であるか少し触れておこう。

赤心社創立の先頭に立ったのは鈴木(きよし)という人物で、勉三より四歳上の三十三歳、摂津国三田(さんだ)(現在の兵庫県三田市一帯)藩主九鬼家の重臣である。藩の造志館で文武を学び、馬術を最も得意にした。維新後、三田の蘭学者川本幸民(こうみん)に英学を学び、神戸に出て貿易業に携わり、ここでアメリカ人宣教師デービスと出会う。

当時多くの日本人がキリスト教を忌み嫌い、暴力をもって迫害する中、鈴木は「犬や狼が道を阻むといえども我は行く」といささかも(ひる)まず、キリスト教に入信し洗礼を受けている。神戸・三田の地で熱心に福音を宣伝し、明治七年には同志十一人を集めて日本初の組合派教会である摂津第一公会(現日本基督教神戸教会)を設立している。

彼は熱烈な信者で、熱心に布教を続けつつ、また事業経営にも力を注ぎ、貿易業や缶詰の製造・販売で大いに成功を収め、財力にも恵まれていた。

そんな彼の元に、ある日加藤清徳(きよのり)という男がやって来た。彼は岡山の豊岡村(現在の加茂川町)で神主の息子として神官修業中であったが、維新で日本の欧米化が進み神戸に邪教が横行していると聞き、「邪教キリスト教撲滅」を果たさんと鈴木の元にやって来たのである。が、逆に「今日本人は欧米に負けない立派な日本国を創るために、小異を乗り越えて大同団結し、赤心を以って国家に尽くすべきである」と諭され、心機一転する。

鈴木はかねてより抱いていた「アメリカ・ピューリタンの新世界開拓に(なら)って北海道開拓を」との計画を加藤に持ちかけた。加藤は鈴木の説得を受け入れ、明治十三年三月の開拓会社赤心社設立に参画、社長鈴木を助ける副社長に就き、日高幌別川上流の開墾地に入ったのである。

明治十四年の秋に勉三が訪れた時、見るべきものがなかったというのは、それなりの事情があってのことであった。加藤ら数人の先発隊は明治十三年十月に浦河に入り、浦河西舎に入殖地を選定した。加藤は第一次移民団の受け入れ準備を進めるべく、そのまま現地に残った。

赤心社第一次移民団五十余名が加藤らの待つ現地に到達したのは、勉三が訪れた時から五ヶ月程前の明治十四年五月半ばのことであった。この移民団は最初から幾つかの不運に見舞われていた。まず強風のために二十日間も函館で足止めを食らい、滞在費用自弁の移民団にとって大変な経済的負担となった。また現地に残った加藤の小屋掛けもまだ完成途上で、寝る所にも事欠く始末であった。更に航海中チフスに感染した者があり、十余名の患者を出していた。その上に、農具・家財道具を満載した帆船が暴風で千島まで漂流し、日高に到着した時には既に播種期が終わっていた。移民団はやむなく札幌辺りに出稼ぎに出なければならず、開墾どころではなかった。

勉三が訪れたのはそうした苦境の最中であった。「見るべきところ何もなし」というのも無理からぬことであった。

勉三がこの赤心社に強い関心を抱き、その「設立の趣意書」を手にするのはこの周遊から帰った後のことである。後に勉三が注目したその「趣意書」にはこう記されていた。

「同志集まり、無資無産の貧乏人であろうと、容易に参加し得るようにして小より大へ、低きより高きに達し、遂に国家の衰運を挽回する大事業にしよう」と。

その主たる目的は貧乏士族の救済、開拓事業の経営であったが、確かにその趣旨は晩成社の、勉三と三余門下生の「世の為に人民の為に」という理想に通じていた。

それにしても、勉三がこの北海道周遊の途中、この赤心社の存在を知り、現地を訪問したことは実に意義深いことではあった。

 

(2)

臼杵・西舎を出た勉三は、冷たい秋雨の夕暮れ間近、日高(もん)(べつ)海浜を走る砂道をしきりに急いでいた。

明治十四年十月十日夏盛んな伊豆大沢村を出立してから既に二ヶ月余が過ぎようとしていた。

 北の十月は寒い。足は海浜の砂粒に捕えられて重く、雨混じりの冷たい西風が容赦なく吹き付ける。背を丸めて必死に歩を進めて行く勉三の目に、机状台地の崖に這いつくばる密集した(かしわ)の木の樹林群が飛び込んで来た。近づいて見ると、何とも奇妙な形状の樹木であった。丈は三、四間もあろうか。皆一様の背丈である。海風が容赦なく吹き付ける崖の斜面一面に繁茂し、遥か彼方まで延々と続いている。

その槲の木々の姿形は、内地の高く素直に伸びたそれとは全く異なっていた。幹は黒く、根元は太く、がっしりと大地を捉えている。その幹は更に二つ、三つ、四つと分かたれ、風雪に鍛えられた鋼の如くに頑健極まりない。しかもそれらは右に折れ左に折れ、怪異に曲りくねり、いたる所で瘤をなし、辛苦辛酸の痕を留めている。左右横に張った枝先には黄色い、あるいは赤茶い枯れ葉が残っていて、烈風に耐えている。

美ではない、壮と言うべきか。いかにも北辺の大地寒地烈風の蝦夷地に生息する樹木の群であった。

勉三はふと兄佐二平が好んで口にする「辛酸を楽しむは我が家の流」という言葉を思い起こした。おそらく自分も、この槲の木々同様、大自然の辛酸、即ち過酷極まる風雪風雨の脅威に晒され、嵐に揉まれながら荒蕪の地と血みどろの格闘を繰り広げていくのであろう。しかし、その辛酸を恐れず、それを楽しむ境地に至ってこそ己は鍛えられ、事は成るのだ。

海から吹きつける潮()じりの秋風秋雨に凍える勉三の体内で、依田家の血が熱く(たぎ)った。崖に這う黒い槲の林はその強風にじっと耐え、勉三の行く手を励ましていた。

 

(3)

「一度アイヌ人と話してみたいものだ」

日高門別から佐留太(サルフト)(現富川(トミカワ))に入り、沙流(さる)川橋のたもとの商人宿に靴を脱いだ勉三がこう洩らすのを聞いた宿の主は、

「この脇を流れている沙流川の上流に平取(ビラトリ)という部落があります。彫刻者イモンパの店がありますから、そこで買い物でもしながら話し込んでみたらどうでしょう」

と、助言してくれた。

勉三は前々からアイヌの生活の場に触れ、実際にアイヌが食しているものを口に入れ、その人となりに接してみたいという願いを抱いていた。旅の途中に時々アイヌとすれ違うことはあった。が、彼らと親しく接するという体験はついぞ持てないままであった。

 言葉も生活習慣も風俗も違う彼らは元々は「異族」であった。アイヌに「和人(シャモ)」と呼ばれた内地人は彼らを「土人(アイヌ)」と書き表し、一段下等な者に見なしていた。十勝川上流には多くのアイヌが住み、鹿や獣を狩り、鮭や魚を獲り、山菜や根菜を採って暮らしているという。いったい彼らとどのように付き合っていったらよいのか。勉三にとって決して蔑ろにできる問題ではなかった。

 佐留太の宿主が紹介してくれたイモンパは、この辺りではよく知られたアイヌの彫物師で、鮭の木彫りやら盆などを彫り、土産物として売っていた。

翌日、イモンパの店目指して沙流川を遡って行くと、偶然「義経神社」の前を通り掛かった。付近に居た旅人から「義経さんは平泉からこの地に逃れて来て、アイヌを助けた後、さらに大陸方面へ落ち延びて行った」という「義経伝説」を聞かされ、その判官贔屓には苦笑させられた。

 もっとも、後でこの辺りのアイヌ古老に話を聞くと、彼は「シャクシャインが騙し討ちにあった後に和人が広めた作り話だ。昔からこの村では、財宝やメノコを奪って行く悪い魔神を退治した英霊神オキクルミのユカラが詠われて来た。そのオキクルミの話が義経にすり替えられたのだ。アイヌが和人を有難がるようにとな」

 と、吐き捨てるように語った。

 この話を聞いた時にも、勉三は和人とアイヌの心の溝の深さをあらためて思い知ったことであった。

平取は七百戸ものアイヌの(チセ)がある全道一大きいアイヌ部落であった。

勉三は、道を聞くために寄った家の老婆が多少は内地語が通ずるというので、遠慮がちに、

「ここでアイヌの料理を食べさせて貰えないか」

と頼んでみた。

彼女は「とんでもない」と言って断ったが、その断り様はまるで大名に対するかのように(へりくだ)ったもので、勉三をひどく恐縮させた。

彼女が勉三をイモンパの茶店に連れて行き、事の次第を話すと、イモンパの家の老婆が彼を接待してくれることになった。暫くすると、イモンパの老婆はまず板敷きの床の上に高さ一尺程の高台を(しつら)えた。その後で朱漆塗りの脚付盆(オッチケ)に金蒔絵を施した立派な赤椀(トゥキ)を載せ、それをあたかも貴人に捧げるかのようにして運んできた。椀には少し黒い油汚れが付いていて、幾分不潔な感じが免れなかった。

一つの椀には南瓜(かぼちゃ)(あぶり)魚を混ぜて煮詰めた糊のようなものが盛られ、もう一つは南瓜の煮物であった。料理には塩味というものが全くなかった。傍らに置かれた小鍋には(きび)(がゆ)を炊いたものが入っていたが、口に入れてみると黍(かす)が口の中に溜まり、これも決して美味と言える代物ではなかった。

すると、ここに案内してくれた老婆がやって来て、「こればかりだが」と言って家から持って来た隠元の煮豆を一皿差し出した。勉三が感謝の印にと銅貨と弁当の半分をやると、今度は再び珍しい小魚を携えてやって来て「土産に」と言う。恐縮して紙幣を渡すと今度は家から小刀を持って来て土産の小魚(シシャモ)の腸を抜き、小枝を刺して携帯できるようにし、更に蕗の葉で蓋まで作ってくれたのである。

結局イモンパ本人には会えなかったが、勉三は接待に応じてくれた二人の老婆に礼を尽くし、見事な鮭を彫り刻んだ茶盆を買い求めてアイヌ部落を後にした。

勉三はアイヌの人柄の良さ、損得に(とら)われぬ、あるいは損得に(うと)い親切心に溢れた接待に驚き、心温められた。が、その帰りすがら、世知辛い生き馬の目を抜くような今日の時代を、彼らがあのままに生き抜いていくことができるのかどうか、強く危ぶまざるを得なかった。

「彼等を侮蔑することは絶対に許されないことだ。ぜひとも仲良くせねばならない。そして、彼等と共に農事を行なうことが出来たらどんなに良いことか…。いつか、必ずそうせねばなるまい」

平等主義者(ヒューマニスト)三余譲りとも言うべき勉三のその思いは、たとえば吉田松陰が嘉永五年春に津軽を訪れた際、現地の日本人商人が、集落を作って住んでいたアイヌをまるで犬か牛馬であるかのように扱うのを見て、「習俗や慣習が違っても同じ人間ではないか」と、激しい怒りを吐露したことに通じていた。

 

  (4)

明治十四年十月半ば、北海道稲作開発の先人中山久蔵に会うべく、勉三は勇払・苫小牧を経て美々(ビビ)から広島村島松(シママツ)に入った。

久蔵に会うことを強く勧めたのは、開拓使専属の写真師として道内各地を歩き回っていた田本である。田本は、ケプロンの進言を聞き入れた開拓使が米作に否定的であったにもかかわらず、久蔵が自らの信念を貫き、果敢に寒地稲作に挑戦し、これを実現させたことに甚く感激していた。

 勉三が面談を求めた寒地稲作の第一人者中山久蔵は実に快活な男で、その顔付きは自信に満ち溢れていた。そして、すこぶる上機嫌であった。ちょうど二ヶ月前、明治天皇がここを訪れた際、自作の米、馬鈴薯、胡瓜、ぶどう等を昼食に提供し、お褒めの言葉を賜り、大いに面目を施したばかりだったからである。

河内(かわち)国(現大阪府南河内郡)の片田舎の農の出であった久蔵は、同じ農の出である勉三の「農としての気概」をすぐに見抜き、懇切丁寧に自分の経験を語り聞かせてくれた。

久蔵はこの時齢五十三。二十五歳年下の勉三は恐らく息子のように見えたことであろう。勉三にとっても久蔵は〝農夫勉三の父親〟といったような独特の感情を抱かせた特別な存在であった。

勉三が訪れた明治十四年当時

「今では良作の年は反当たり米二石から二石四斗の収穫があるのだ。また大麦・小麦だって反当たり二石以上の収穫がある」

久蔵はそう語り、開拓使や農学校の学士が唱える「米作危険論」を一笑に付した。

そして彼は、寒冷の地における稲作成功の鍵となった、水を温めるための水路の長い貯水池を見せ、その工夫の数々を教えた。

「依田君、日本人はやっぱり米を食わんと力が出んのだよ。米と漬物さえあれば何とかやっていける。それに藁がなければ縄が()えない。米や藁を一々内地から運び込まにゃならんということでは開拓は進まん。それだけではない。もう一つ、忘れちゃならんことがある。酒、酒だよ。北海道の寒さを防ぐには酒が一番。アイヌの酒飲みを笑う者がいるがとんでもない。ここの冬の夜の(しば)れ方は大変なものだ。仕事終いの後は、うんと酒精を注ぎ込んで体を燃やさんことには生きた心地がしないのさ。ここでは酒は必需品と言わねばなるまいに。上等な酒でなく、濁酒で結構。とにかく米さえあればいくらでもできるというものだ」

久蔵はそう言って大笑いした。

勉三は、夜雨の中、暦舟川を渡った所で道に迷い、寒さに震えあがったこと、助けてくれた宿の主が差し入れてくれた一杯の酒が、その時芯から身と心を温めてくれたこと等を、あらためて懐かしく思い起こした。

勉三にとって、久蔵は実に身近な人物に思えた。この人もまた、自分と同じように、農として世に尽くそうとの決意に燃えている。あらゆる困難と反対と批判に抗し、北の大地を熟田の地に変えんと、ひたすら実践躬行(きゅうこう)に励んでいるのである。

 ここにも手本とすべき人物がいる。

勉三は、久蔵の歓待に深い感動を覚え、初対面の彼に十勝野開拓の志を告げた。久蔵は目を輝かせ、勉三の肩を強く叩いて言った。

「その意気だ。その大志を忘れずにな。後は為すのみだ。何事も為せば成る。この俺がその証だ」

勉三は、久蔵に別れを告げると心躍らせ、寒風をものともせず、札幌に向かって勢いよく歩きだした。

 

  (5)

勉三が北海道の首府札幌に入ったのは、明治十四年十月十五日のことである。

この大都で、彼を温かく迎えてくれたのは、田本の友人で、同じく開拓使写真御用掛に任命されていた武林盛一であった。

武林は実に社交的な男で、顔も広かった。さすがにこの三年後に上京し、東京麹町に写真館を構えて成功を収めただけの人物である。実際、勉三があちこちの開拓使施設を隈なく見学することができたのは、この武林のおかげであった。

勉三がここで観察することが出来たのは、農学校所轄の家畜房、屯田兵村の共同養蚕所と開拓使養蚕所、開拓使工業課の水車・蒸気を使った(のこぎり)器械と木工所、鍛工所、鋳造所、麺粉製造所、織物工場、製糸場、紡績所染工場、ビール製造所、葡萄酒醸造所等など、目を見張るばかりの洋風施設の数々であった。

しかし、最も勉三の関心を強く惹いたのは、エドウィン・ダンが設計した真駒内牧場で見た洋風農具と新しい酪農経営法であった。十七万坪・百九十トンの牧草も洋式器械を使えば、刈入から乾燥貯蔵まで四匹の馬と人間三人で僅か十日の内に片付けてしまうというのである。洋風農具の威力にあらためて目を(ひら)かれる思いであった。

もっとも、後に知ったことであるが、アメリカから持ち込んで来たこれらの大型農具使用には問題もあった。アメリカ西部の農場程広くもなく、また処々に木の根や岩石が残る日本の農場にはうまく合わない点が多々あった。要するに小回りが利かな過ぎた。これら洋式農具が北海道の農場で本格的に活躍するようになるのは、明治末期から大正の初めにかけてである。この頃、道内の農民・大工・鍛冶屋・器械製作所が研究と工夫を重ね、農業器械の小型化を実現し、ようやく「北海道式農機具農法」を確立するのである。

またこの札幌真駒内牧場では乳牛百三十頭を飼育し、牛乳生産だけでなくバター・乳粉・チーズの製造も試みていた。内地に販路を広めるためには、やはり製品加工がぜひとも必要だったのだ。

それは兄佐二平が養蚕だけでなく製糸工場を作り、農山村の産業育成を図り、より安定した収入を確保せんとした方針と同じであった。

それはまたケプロンが農家の自立自給への道として、その報告において繰り返し強調していたことでもあった。

ところで、勉三が十勝原野へ入殖を企てていることなど、武林には思いもよらないことであった。頭から札幌近辺に入るものと思い込んでいるようであった。それ故、彼は札幌近郊を案内しながら、札幌の冬季生活について事細かく教えてくれた。

 湯屋や暖房のため大量の薪が焚かれ、黒煙が街全体を被い、煤が流されっぱなしになっていて、不衛生極まりないこと。冬は皆大根を漬けるため近隣農家と契約するのだが、近年その大根が細くなっており、この辺りの畑の地力の衰えが目立って来ていること。雪室(ゆきむろ)など寒地特有の雪や凍れを利用した野菜の貯蔵の仕方。更には貧しい家は防寒の為に多く火を焚くことから空気が濁り、その上脂っこい安魚ばかり食し、湯に入ることも稀なため、疱瘡(ほうそう)になる者が非常に多いということ。(ひぐま)も出ることがあり、かつて乳児が襲われ、殺した羆の胃から子供の手足や頭巾が出て来たこと。札幌の移住者は元士族が多いせいか、とにかく麦を食べることを恥ずかしがる者が多い。それ故麦を作る者が少ないため、官庁は麦一斗と米八升を交換しているという。それでようやく近頃は麦を植える者が多くなってきたこと、等々。

 こうした武林の話は勉三にとって貴重な情報となった。見知らぬ街で武林が示した親切心は勉三を励まし、北海道移住への意欲を更に掻き立てた。

 

勉三の初めての北海道周遊の旅も、ようやく終わりに近づいていた。

明治十四年十月二十二日、札幌に早くも冬が訪れようとしていた。この日は、(あられ)混じりの雨・雪が舞い、晴れ間が出たかと思うと一転にわかに掻き曇り、墨を流したように暗黒となり、気がつけば一転して辺りは白い雪に覆われ、一面の銀世界であった。

 勉三の故郷伊豆ではついぞ見た事のない天候激変の光景であった。

「これが北辺の地北海道の北海道たる所以か」

勉三は北海道開拓の厳しさをあらためて思った。

「十勝野はここよりも遥かに奥地にあり、しかも未だ文明及ばざる地である。計り知れない困難がある。しかし、何としても十勝野の荒蕪の地をこの手で拓き、祖国と人民のために尽くしたいものだ」

勉三の心は既に十勝野に飛んでいた。

 勉三が小樽を出航し、函館の港に寄り、更に品川の港に帰着したのは、明治十四年十一月二日未明のことである。故郷大沢村を出立してから二ヶ月半に及ぶ、長い、だが充実した北海道周遊の旅であった。

 

  道史Ⅱ 中山久蔵と寒地米作279ページ


【第10回掲載 2023年12月】



 第三部 北游篇 


 第九章 北の大地

 

  (1)

 明治十四(一八七一)年八月二十日

「おお、あれが蝦夷地北海道か!」

船内の息苦しさに耐え切れず、波しぶきが飛び散る甲板に出た勉三の目に、遥か前方、低い尾根を連ねる山陰が飛び込んで来た。室蘭(ムロラン)から苫小牧(トマコマイ)勇払(ユウフツ)、日高に至る山並みであろうか。

夏八月の高い空の下、青めいた山稜が延々と伸びている。眼前に拡がるその風景は、島というにはあまりにも大きかった。

「ようやくここまで来たか」

この時、勉三二十八歳。伊豆の熊堂山の頂に立ち、師三余の形見の言葉を胸に刻んでから、既に十六年が経とうとしていた。

「長い道のりだった。がしかし大器晩成という言葉もある。慌てるには及ばない。何事も着実に実行に移していくことが大切なのだ」

熊堂山山頂に聳える大樹「大器晩成」と名付けられたあのタブノキと茫洋たる師の顔が目に浮かんだ。

「そうだ、大器はともかく、大事なことは晩成ということだ。時間がかかってもよい。怠ることなく、ひたすら己に課せられた使命達成に向かって進むだけだ。それが先生の教えだ」

 

八月十八日に勉三を乗せて品川港を出航した瓊浦(けいほ)丸は、およそ二日間走り続け、今まさに舵を西方に切り、津軽海峡に突入せんとしていた。ここまで海は思ったより静かであった。それでも船に弱い勉三は、ずっと胸をく不快感に苦しめられ通しであった。その上、船内は驚くほど混雑し、喧騒乱雑を極めていて、その不快感は並みたいていのものではなかった。

幅五間、長さ二十八間この船に四百余名の客が乗っていた。寝ている者同士の頭と足が、口と尻がくっつきかねない有様で、荷物の上に親が足を載せ、その下の隙間に幼児が押し込められている。船内の雑踏、暑苦しさと鼻を突く臭気の原因は、乗客の大半を占めていた近畿・中国地方からの移住民にあった。老若男女三百四十余名からなるこの移民団は、神戸から汽船に乗って一昼二夜走り続けて品川港に着き、そのまま上陸せずにこの船に乗り換えさせられたという。風呂を使う暇もなかったということで、体が臭いのも無理はなかった。

初めての長旅に疲れた幼児は泣き叫び、女達は気短に怒声を上げている。景気付けのつもりか歌ったり叫んだりする大人がいれば、食に当たって下痢をしたり、船酔いで嘔吐したりして隣人の顔を(しか)めさせる者もいた。勉三も昨夜頭の上でそれをやられて一睡もできずじまいだった。

 勉三は頭から夜着を被り、二重三重の不快さに耐えながら、開拓移民の大変さ、その事業の容易ならざるを実感した。

「下の放縦は上の責だ。上に立つ者は志を高く持ち、移民団をしっかりと導びかねばならないのだ」

勉三は自らにそう言い聞かせた。

 昼時、いよいよ船が津軽海峡大間(おおま)(みさき)沖に入るや、突然強風が襲い、海は一変した。激浪が甲板を激しく洗い始めた。皆窓を閉じ、荒れ狂う波の音を聞きながら、真っ暗な船内で不安のひと時を過ごした。

夕方四時頃、函館沖に至りようやく嵐は収まったが、初めて北辺の地を訪れた者に、あらためてこの地の気候風土の厳しさを教えた。

北の夏八月の夕暮れ間近海はまだ明るく、波は静かだった。津軽海峡に入った船はやがて北に舵を切り、陸に向かって突き進んで行く。眼前の山並みは低くなだらかな稜線を走らせ、それらの山嶺の南側斜面が(ゆる)やかなスロープを描いて海辺に下っている。北東方面に目を向けると原野が延々と続いている。これらは渡島(オシマ)半島のごく一部の風景に過ぎなかったが、確かにここは「島」というよりも広い「大地」を思わせる。

船は陸の手前で右旋回し、更に右に舵を切って舳先を南に向け、十二、三隻も浮かぶ外国船の間を縫うようにして港に入って行く。函館港は南向きに海に突き出た拳のような半島の内側にあった。いかにも「(ともえ)の港」(巴という字形に似た地形)であった。

湾内に入ると正面に深緑に包まれた臥牛(がぎゅう)函館山の北斜面が迫って見える。山の下方には家々の屋根が連なり、中段辺りに東本願寺の巨大な瓦屋根が見える。岸壁付近には赤いレンガ壁の倉庫が何棟か並んでいる。斜面上方の処々に尖塔・円蓋の屋根を頂く白い洋館が見える。ハリストス正教会、ロシア領事館、カトリック教会堂、英領事館の建物であろうか。それらの白壁に夕陽が映り、ほんのり紅色を差している。

「なんと綺麗な街なんだろう」

甲板に立つ乗客は皆一様にこの言葉を口にし、ため息を漏らした。

蝦夷地北海道の第一夜を、勉三は港近くの宿でゆっくり過ごし、風呂に浸かり、船旅の疲れを癒した。そして翌朝、さっそく函館会所(かいしょ)町にあった田本写真館を訪れた。写真館の主人田本研造は、遠い北の大地に初めて足を踏み入れた勉三の、この異郷における唯一の知り合いである。

「早速、お邪魔させて頂きました」

「ついにやって来ましたか。大いに歓迎しますぞ」

「本当に、心強いかぎりです」

「しかし、よくぞ参られた。しっかり観察していかれるが良い。できる限りのお手伝いを致そう。鈴木さんは元気かな。そうそう、頼母殿からも大志ある若者故、案内くれぐれもよろしくと聞いておりますぞ」

あらためて此度の渡北に当たっての保科近悳の親身な配慮が思われ、胸が熱くなった。

「とは言え、こんな有様で申し訳ありませんがの」

田本は満面に笑みと喜びを浮かべ、仮建築中の自邸に勉三を招き入れた。一年半前の大火で、それまでの瀟洒な洋風の二階建て写真館は全て燃えてなくなり、ちょうど再建の最中にあった。

田本は齢既に五十歳になっていて、勉三とは二十二歳も離れていたが、この田本と勉三もまた奇妙な縁で結ばれていた。

 

田本研造(号は音無榕山(おとなしようざん)故郷の音無川に因んで使用した)は天保二年、紀伊国南牟婁(むろ)郡神川村(現和歌山県熊野市神川)の生まれである。生家は林業・農業を営む大家であった。似たような出自故もあってか、かなり年上であったが、田本は勉三に特別の親近感を持っていた。

田本は医者になるべく長崎に出て西洋医学を学んでいた。その医術の師の言い付けで長崎通辞に同行し、函館に移る。ところが函館で凍傷に罹り、それが因で壊疽に冒されてしまった。

そんな田本に救いの手を差し伸べたのが、ロシア領事ゴシケビッチであり、彼の右足切断の手術を施したロシア医師ゼレンスキーであった。彼等はまた写真の愛好家でもあり、写真術に詳しかった。田本は右足を膝頭から切断する外なく、結局医学の道は諦めざるを得なかった。そんな田本にロシアの友人たちは写真技術を伝授してくれた。

幸い田本の周囲にはこれらのロシア人から写真術を伝授された木津(きづ)幸吉や横山松三郎というような先達がおり、親切に相談にのってくれた。木津などは上京することになった際に写真機一式を全て譲ってくれた。横山は横浜の写真師下岡蓮杖と親しく行き来しており、そこから伝えられる新しい技法を惜しみなく教えた。田本はその横山を通じて横浜の蓮杖と交流を持つようになり、蓮杖の弟子であった勉三の叔父鈴木真一とも親しく交わるようになっていたのだ。

田本は、前に記した通り、榎本武揚や土方歳三の肖像写真を撮り、これらの写真は今日では明治期を代表する歴史的作品としてつとに有名である。更に開拓使お抱えの写真師としても著名な存在であった。長官黒田は破格の給与で田本を雇い、開拓事業の様子、西洋風の農場風景、官営工場、鉄道等々の写真を撮らせ、政府への報告、世間への宣伝に利用した。それ故、田本は道内・日本国

内のみならず米国でも名を知られた有名写真師であった。 

 勉三はそんな田本と写真師の叔父真一を介して顔見知りになっていた。

ところで、勉三と田本の二人を結びつけた人物として、もう一人西郷頼母近悳がいる。

 幕軍との交流浅からぬものがあった田本は桑名藩主松平定敬(さだあき)の函館宿舎にもよく出入りしていた。定敬は会津藩主容保の実弟で、京都所司代として守護職の兄を助け、会津城五稜郭と転戦して来た根っからの佐幕派藩主であった。頼母近悳も弟陽次郎も定敬を敬い、我が主とも思っていた。その定敬の宿舎があった箱館神明宮(後に山上(やまのうえ)大神宮と改称)に近悳も田本もよく出入りしていた。そして、その神社の宮司こそが沢辺琢磨、即ち近悳が息子吉十郎を託した男であった。

箱館戦争の当時、田本は神明宮をしばしば訪れた近悳とも親しくなった。田本は近悳から息子を沢辺に預けて敵軍に下るということも聞かされており、後に沢辺が一時函館を離れた際は陰ながら吉十郎の守護に動いていた。近悳にとって田本は函館の大事な恩人・友人であった。

 近悳は、勉三が渡北すると聞き、急ぎ筆を執り、その案内方を田本に頼まずに居れなかったのだ。言うまでもなく近悳は依田家を介して写真師の鈴木真一と親しく、近悳妹の未遠子は真一の後妻に入っている。その真一がまた同じ写真師田本と交流を持っていて、勉三と田本の二人を結び付けてくれていた。勉三・頼母近悳・研造・真一の四人は奇妙な縁で二重三重に結ばれていたが、その結び目の核に蝦夷地北海道があった。

田本と勉三の初顔合わせは、田本が初めて上京した明治十四年春のことであった。田本は上野で開かれていた第二回内国勧業博覧会の見学と新しい写真機を購入するのが目的で、東京には三ヶ月ほど滞在した。この時、田本は真一の居る横浜の写真館にも顔を出し、北海道周遊を準備中であった勉三も面会の機会を得ることができた。勿論、叔父真一の計らいであった。もっとも、この時の勉三は初対面ということもあり、計画中の北海道周遊については開拓地の視察・観察が目的であることを告げただけで、それ程詳しい相談をした訳ではない。

あいにくこの時、田本は近悳とは会うことが出来なかった。真一夫人の未遠子を通じて消息を伝えただけであった。当時、近悳は東照宮宮司に就いた松平容保・定敬兄弟と共に日光に居て、自由が利かなかったのである。

人と人の出会いの妙、結びつきの妙はいかにも偶然の出来事のように見える。しかし、そんな偶然にもその根底には必然性が貫かれている。必然は必ず偶然を伴って現象し、その偶然はまた必ず必然に何らかの作用を及ぼしていくのである。しかしてその偶然を必然に結び付け、転化させ、一つの〝意味ある現実〟にさせるものは、必然を意識した人間の決意・決断の力である。

 もし、勉三に「国家・社稷(しゃしょく)・人民のために尽くそう」「蝦夷地北海道の開拓をなし遂げ、世に出そう」という、己の使命に向かう激しい意思・意欲必然性がなければ、決して彼らとの偶然的な出会いは〝意味ある現実〟とならなかったであろう。

 

  (2)

田本は勉三を函館の街に連れ出した。横浜ほどの華やかさはなかったが、二つの街は同じ雰囲気を持っていた。横浜で勉三から渡北の企てを聞かされて以来、すっかり勉三の支援者になっていた田本は、片脚が義足であること等全く意に介する風もなく、いかにも嬉しげに歩き回っていた。

市中見物を楽しみ、ロシア風肉料理の昼食を終えた後、田本は勉三を函館山の裾野を巡る散歩に誘った。小高い斜面を横切って走る散歩道からは、眼下に海と函館の街が見える。小道の脇には伊豆で見慣れた杉の木立が続いていた。桑もまた大沢より一ヶ月ほど遅くはあったが見事な生長を遂げていた。そんな見慣れた樹々の姿が、北の異郷をぐっと身近なものに感じさせた。

 八幡神社の入り口まで来ると、函館湾が一望できた。

「どうだね、この風景は」

立ち止まって、田本が指差した北の方角に、勉三が今まで見たこともない、広く大きい緑の大地が広がっていた。東の彼方の山峰蝦夷駒ヶ岳は聳えるというほどに高くはなく、なだらかな山脚がゆるゆると海浜まで延びている。裾野には緑の原野、牧場地が広がり、あるいは樹林が点在している。そんな平原の真ん中を有川の清流が悠々と下り、河口付近に建つ亀田の瓦製造工場の煙突から一筋の煙が上がっている。

「この風景は本邦のものとは思えませんね。いつか『米国小史』の挿絵に見たことのある米国西部一帯の風景と恐ろしく似通っており、驚きました」

「北海道の風景は何処もこんなものだ。開発はまだ始まったばかりだが、先人の苦労苦闘が実を結び始めてもいる。彼らから大いに学んで今後に活かすべきだ」

開拓使お抱えの写真師として北海道各地の開拓開発風景を見ている田本の言である。それなりの重さを持って勉三の胸に迫った。

散歩道の東端は海岸沿いにある谷地頭(やちがしら)温泉に繋がっていた。田本が贔屓(ひいき)にしていた温泉宿浅田楼は豪勢な大邸宅を思わせる造りで、函館発展を象徴していた。勉三を歓待した田本が、この楼上で酌み交わしながら聞かせてくれた北海道の気候風土や開拓事情は、若い勉三にかなり具体的な北海道の印象をもたらした。

が、この夜、田本が最も力を入れて語ったのは「官有物払い下げ」の話題であった。政治向きのことに疎く、野を拓き、野を耕すことばかりを考えていた勉三には、それほど関心の持てる話題ではなかった。言うまでもなく、開拓使お抱えの写真家であった田本にとって、この問題は己の写真事業のこれからと深く関わっている。それ故に深い関心を抱いて当然のことであった。

「開拓使の払い下げ問題のことは既に知っていると思うが、これがどうやら大きな政変問題に発展しそうなのだ。ちょうど陛下が北海道巡幸の旅に下られ、今小樽に向けて船旅をされておられるというのに、本当に困ったことだ」

本当に困りきった様子であった。

勉三がこの函館に足を踏み入れる一ヶ月前の明治十四年七月二十六日、東京横浜毎日新聞が「薩摩閥による北海道官有物払い下げ」という暴露記事を大々的に取り上げていた。

前年の明治十三年十一月、政府は開拓使発足から十年目に当たる次年度をもってこれを廃止することにし、開拓使経営の官営工場や鉱山施設の民間への払い下げの方針を打ち出していた。そうした中で、開拓使長官黒田や薩摩閥が企てた事は、大半の事業を薩摩の政商に引き継がせ、自分たちの手で「開拓使事業」を引き続き推し進めていくことであった。

問題はその「払い下げ条件」にあった。それは、開拓使が巨額を投じて造った工場・船舶・牧場などめぼしい開拓使公営施設を、捨て値に等しい三十八万余円、無利子三十ヶ年の年賦払いで薩摩出身政商()(だい)友厚の関西貿易商会に払い下げるというものだった。

東京横浜毎日新聞がこの実態を暴露すると、これに郵便報知新聞が続き、反対の世論がワッと沸いた。

「開発十ヶ年計画」の総仕上げとして天皇の北海道巡幸を一ヶ月後の九月に企画していた時の内閣は、黒田の「払い下げ案」を承認し、強行突破を図ろうとしていた。これに真正面から反対を唱えたのが、国会開設を叫ぶ参議大隈重信であり、板垣退助ら在野の自由民権家たちであった。彼らの多くは「傲慢薩長閥」を嫌う土佐(高知)・肥前(佐賀)をその出自としている。今や「士族反乱」は「自由民権運動」へと進化発展を遂げつつあった。

「これが大きな政治問題に発展すれば、日本国を揺るがす大事件となり、黒田長官の政治生命も危ういものになりかねないのだ」

黒田に目を掛けられ、黒田の推し進める開拓事業を写真に撮り、それを生業にしてきた田本にとって、決して他人事の話ではなかった。

結局、この「払い下げ事件」は「明治十四年の政変」へと発展し、北海道と日本の歴史を大きく転換させていくターニングポイントとなる。同時に、その後の北海道開拓事業に大きな影響を与えていくことになる。

田本は、勉三がこの話題にあまり興味を示さないのを(いぶか)ったが、深く追求せず、話題を変えた。

「ところで勉三君の此度の周遊計画を聞かせてもらおうか」

勉三は出発前から練り上げていた旅程を話した。

「函館・勇良払(ユウラップ)・室蘭一帯を見学した後、船で根室に渡り、海浜沿いに歩いて十勝方面に下ります。そこから襟裳を経て浦河・日高を通って札幌に出て、小樽から船に乗って帰途に就くという行路を予定しています」

田本は、根室から浦河に直行する船便を使わず、わざわざ十勝一帯を遊歩するとの計画を耳にし、思わず聞き返した。

「わざわざ根室・十勝方面へ?」

当時東部奥地は手付かずであった。大半の移住者は当然のように比較的暖かい道南・道央・日高方面への入殖を求めていた。

最東端に在る根室は漁業開発が中心であった。漁業以外の開拓事業もあったが、全てロシアに対する軍事的備えを目指したものである。

十勝川流域一帯に広い原野未開の十勝野が存在していることは既に知られていた。が、開拓使も調査だけにとどめており、道路も通っておらず、入殖は余程資本力のある者に限られるだろう、と見られていた。

「いえ、まだ何も決めてはいません。ただ如何に困難とは言え、広大な未開荒蕪の地の開拓をしないのであれば日本人が北海道開拓に挑む本当の意味がないように思われてならないのです」

勉三は脳裏に深く刻み込まれていたケプロン報文について、熱っぽく語った。

「地質・鉱物資源調査担当のライマン氏は石狩川上流を(さかのぼ)り、石狩岳東側の峠を越えてオトブチ河(音更(オトフケ)川)上流に達し、これを下って十勝原野に到達しています。そのライマン氏が札内ブト(サツナイ河とトカプチ河との合流地点)の河畔に立ち、そこで見た光景をこう記しています。

『我が(そう)(チーム)が通過せる草野はほとんど開闊(かいかつ)(広々開けている)にして、平均少なくも…四万エーカー(約一万六千町歩)なるべし。…余輩(自分たち)の食らうべき菜はほとんど欠乏せり。然れども、近隣の土人(アイヌ)村より得たる野菜にてかなり満足せり。土人の園圃(えんぽ)(畑)はすなわち山林にしてここに肉あるいは野生の菜を得て食物となすなり。(こと)に野ゆりの一種は…蕃薯(サツマイモ)に代用するに最も好し。また牛蒡(ごぼう)その他二、三の良菜あり』と。

幕末に十勝を探査した松浦武四郎氏もまた、『この地追々第一繁盛の地となるべし』と賛嘆し、『このあたり馬の車のみつぎもの御蔵(みくら)をたてて積ままほしけれ』と詠っていることはご存知のことと思います」

 このような広大肥沃の地を放置したまま、ただ易きをもって近きを開拓開墾するのみで良いのか?

勉三の使命感、気概、あるいは「辛酸を常に楽しむは我が家の流」とする依田家の家風がそう言わせたのである。

「近悳殿の見立て通りの人物じゃワイ」

田本はあらためて勉三の決然たる言葉に深い感動を覚えた。

「東京でお目にかかった時は、正直まさかそのような考えを持っておられるとは思わなんだ。近頃は、あなたのような開拓志望者にはお目にかかれなくなった。さあ、前途を祝してもう一度乾杯といこう」

勉三をこのように高く評価した田本は単なる一介の写真師ではない。開拓使お抱えの写真記録者のこの人物は、新しく開かれた北海道をつぶさに目撃しかつ観察して来た、北海道を代表する第一級の報道写真家なのである。

別れ際、脚の悪い彼は、手配してあるので道案内人として弟子である函館の写真師井田(てい)(きち)、札幌在住の写真師武林盛一(せいいち)を大いに頼るよう伝えた。更に「西洋農法の採用で有名な開進社第一会所には言付をしてあるのでぜひ訪ねて行くように」と言ってくれた。

 こうした田本の勉三に対する好意は生涯途絶えることなく続いている。

 

  (3)

数日後、勉三は田本の好意を無にすることなく、早速開進社に向かった。

 開進社は元老岩倉具視(ともみ)の勧めで、華族銀行と士族銀行の幹部連中が資金を出して創設した士族授産と開拓が目的の結社であった。本社を函館に置き、五つの拠点で開発を行なう道内隋一の開発会社であり、資本金二百万の大プロジェクトであった。

農耕馬に引かせてハロー(西洋式の鋤)やプラオ(土ならし機)を走らせたり、函館近郊にあった官営の七重(ななえ)勧業試験場の協力を得て新種作物を作ったりと、大々的に西洋式農法を採り入れていた。

もっともこの開進社は明治十八年四月に至り、利益が出ないことに嫌気がさした華族の援助が打ち切られ、あっけなく解散してしまう。勿論この時はまだ先進農場としての輝きを放っていた頃で、田本の口添えは勉三にとって願ってもないことであった。

開進社に向かう途中、道に迷い、偶然にも五稜郭に出た。平地に掘られた星形城の堀は赤く濁り、辺りは草茫々として人の姿を見ず、まさに「(つわもの)どもの夢の跡」であった。かつて近悳らが「北海道共和国」を夢見たという面影はどこにもない。あれから既に十余年が経ち、この北辺の大地は今全く新しく生まれ変わろうとしているのだ。

 ―何としてもこの北の大地の一角に新天地を開きます。

勉三はあらためて胸の中で近悳に誓った。

開進社は広い函館平野部の真ん中にあった。田本の名を出すと支配人は「さあさ、どうぞ」と喜び勇んで農場を案内してくれた。およそ百町歩の耕地を四人の社員と五十二、三人の雇夫で耕作・管理し、大豆・麦・馬鈴薯・小豆・麻・甘藷・蕎麦を作り、結構な収穫を上げているという。その日は、広い農場を歩き回っているうちにあっという間に日が暮れた。勉三は支配人の強い勧めでここに宿泊させてもらうことになった。

夜遅くまで談論を重ねた社員・雇夫から聞いた話は、北海道の耕地の土質についてであった。

 この地の本来の土質は火山灰が多く分布し、決して美なるものではない。とは言え平野部ではその上を腐植土の黒土が厚く蔽っており、初期は無肥料で十分収穫が見込める。連作は避けたとしても、いずれは徐々に養分は失われていく。それでもイワシ粕や堆糞(たいふん)肥料を使えば畑作地としては申し分ない、とのことであった。

またこの南方に数百町の牧場があり、そこでは既に二百六、七十頭の牛馬が飼われていて順次洋種に変えられつつあるという。やはりこの地には牧畜が一番合っている、というのが彼等の主張であった。

 

開進社を訪れた翌々日、田本の弟子である写真師井田が勇良払(遊楽部)にアイヌの写真を撮りに行くというので、ついでに尾張徳川家の開墾場に連れていってもらうことにした。そこには近悳がぜひ訪問するようにと手配してくれた農場があった。

尾張の藩主徳川慶勝(よしかつ)は会津藩主松平容保及び五稜郭に落ち延びた桑名藩主松平定敬の実の兄である。この頃、近悳は日光東照宮宮司に就任した容保に就いて禰宜(ねぎ)になっていたこともあり、尾張関係者とはよく連絡を取り合っていた。中でも小林知行(ともつら)とは若い頃からの知り合いであった。

明治十一年に知行が開拓農場大番頭としてこの勇良払近辺(後の八雲(やくも)村)の開墾に入ってからも、人を介して連絡を取り合い、勉三のことを予め頼んでおいてくれたのである。

「頼母殿にはこちらに来て共に開拓の事業に取り組まないかと誘ってみたのですが、容保公をお守りするのが自分の務めとついに動くことはありませんでした。いかにも頼母殿らしいとも言えます。貴方のことは頼母殿からよく聞いております。われわれ士族上がりと違って貴方のような農の出の拓士ということならきっと大きな成功が得られましょう。とりあえず、ここは百五十万坪を払い下げてもらい、十五戸七十余人で開墾に着手し、三年経ってようやく四百余町を拓いたところです」

牧畜にもかなり力を入れていて、津軽南部から五百七十円かけて(めす)牛十頭を仕入れ、更に七重の官営試験所から洋種の(おす)牛三頭を借りてかけ合わせ、耕作用の大きな牛を産出させるというようなこともしているという。牧畜に関心を示す勉三に、彼は牛馬の仕入れから育て方、冬の雪の頃の飼育方法、篠笹や飼料の量のことなど、実に丁寧に説明を加えてくれた。

また勉三が養蚕に詳しいことを知ると、ここでは蚕には天燃の桑を食わせることや気候天候対策のこと、原紙一枚の種から一石七升もの繭が取れること等を伝え、北海道農業の前途は洋々たるものがあると断言した。

彼はこの寒地での稲作の可能性についても熱心に語った。

「日本人にとって、やはり米作は必要不可欠のものです。開拓使は米作不可能論を押し付け、無駄なことはするなと言っていますが、そうはいきません。徳川の時代にもこの地方では稲作が試みられており、また千歳(チトセ)方面では中山久蔵(きゅうぞう)という人物が水田を開き、温めた貯水を使うなどの独特な方法で収穫を達成し、少しずつ周辺に広まっていっているようです。東風が冷たいここでも陸稲の発育は良好で、今水田にも取り組んでいるところです。今年は失敗しましたが、いずれ立派に米も()れるようになるでしょう」

勉三は既に多くの先覚者がこの北の大地で日本の農の発展のために奮闘している事実に接し、身が奮い立つ思いであった。

別れ際、知行は遠い昔を思い起こすかのように、海浜に近い丘を指して言った。

「あの丘からは故郷に続く海と新しく開いたこの開拓地が一望できます。初めて上陸し、ここに移住すると決めた時、私はこの地を自分の墳墓の地にすると心に決めました。それで、移住団が最初にここに入殖した日、この勇良払の土くれとなってここを見守っていこうと、そういうつもりで真っ先にあの丘を墓地と定め、密かに墓代わりの杭を立てたものです」

勉三は近悳に聞いていた彼の来し方を思わずにおれなかった。知行もまた西郷頼母近悳同様、苦渋に満ちた幕末維新期を送っていたのである。

維新前夜、彼が籍を置く尾張徳川藩は江戸と京の中間に在って尊皇か佐幕かで揺れ動いていた。当時、隠居しながら幼い藩主義宜(よしのり)に代わって実権を握っていた慶勝は御三家の一角にありながらも大局を見据え、密かに勤皇方に組すると決していた。彼は重臣三人を含む家臣十四人を一方的に佐幕派と断じ、「朝命により死を賜るものなり」と一切の弁明を許すことなく首を刎ね、箝口(かんこう)令を()いてこれを闇に葬むり去った。世に言う「青葉松事件」がこれである。

維新後、一部の旧藩士はこの事件に関わった知行らの責任を厳しく問うた。慶勝は彼を名古屋に留めておけば面倒なことになると、「北辺の防衛」「旧藩士の救済」を名目に、新政府から百五十万坪の土地を譲り受け、彼らをこの荒蕪の地に逃がしたのである。

日光で慶勝とも顔を合わせる機会があった近悳は、そうした北地入殖に至った事情をよく知っていた。彼は、勉三にこうした士族移民の裏話をよく語り、移住士族の心情を教えていた。彼らとの付き合いに役立てて欲しいとの老婆心からであった。

 この日、知行は盛んに勇良払近辺への移住を勧めたが、勉三の十勝方面への密かな関心を捨てさせることはできなかった。 

 別れを惜しみ、室蘭・札幌に至る街道まで送ってくれた彼の日焼けした浅黒い顔は、もはや武士のそれではなく、まさに農夫のそれであった。が、その目には武士としての誇り、矜持が満々と漂っていた。「北辺を(まも)る」という気概は未だ忘れ去られてはいなかった。

 

翌朝、井田と別れた勉三は長万部(オシャマンベ)から礼文華(レブンカ)を経て紋瞥(モンベツ)に至り、伊達家を訪れた。ここには朝敵として領地を没収された仙台亘理(わたり)藩の旧主伊達(くに)(なお)が移住し、自ら先頭に立って開拓に励んでいた。邦直は偶々札幌に出ていて留守だった。が、邦直の代わりに元家老の田村(あき)(まさ)が快く出迎えてくれた。

ここも田本の紹介であったが、近悳との縁もまた大いに役に立った。奥州列藩同盟の主力たる会津と仙台は共に西軍に抗した仲であり、当然会津藩元家老西郷頼母近悳の存在は、この地の開拓指導者となっていた仙台亘理藩元家老田村顕允の知るところであった。

顕允は自ら案内の先頭に立ち、隈なく農場を見せてくれた。彼が真っ先に見せたのは、プラオやハロー等の洋式農具が広大な農地を走り回る光景であった。それらの農具は既に東京の官園で目にしていたものであったが、逞しい馬に引かれた西洋農具が広い大地を勢い良く縦横無尽に駆け巡る光景は、まさに圧巻であった。

伊達農場は藩主自らが先頭に立つ士族経営であったが故に、旧来の日本農法に縛られることが少なく、ある程度の資金を集めることも可能であり、大胆に西洋式農法を導入することが出来たのである。とは言え、ここに至るまで、どれほどの艱難辛苦があったことか。しかし、毅然たる顕允はその苦労話を決して語ろうとはしなかった。

こうして、勉三は室蘭方面への十二日間にわたる小旅行を行なった後、根室行きの船便が未定で、再び函館に戻った。

 

  (4)

根室の港は朦朧たる霧の中にあり、冷たい雨が降りしきり、落ち葉が寒風に舞っていた。僅か二日前に函館を出るときにはまだ暑さが残っていて扇子を使っていたというのに、何という違いであろうか。

勉三が、函館を発ち、根室に向かったのは明治十四年九月十七日のことである。船には鮭漁に臨む漁夫ら三百余の客が乗船し、一部乗客は波しぶきの襲う甲板に寝泊りしていた。

出港した日の夕暮れ時、船は襟裳岬に差し掛かった。風が南から北に向かって激しく吹きつける。陽は既に水平線に近く、柔らかい日差しが岬を照らしていた。海の上から見ると、日高の山々が一際高く聳え、蝦夷地を東西に隔てているのがよく分かった。西は未だ明るい陽光を浴びているのに、東は既に黒く暗く翳っている。鮮やかな東西の対照であった。

船縁から眺めると、目の前から岬まで黒い岩が点々と筋のように連なり、陸地からぐっと手前に張り出した岬の崖下に達している。確かにそれはの鼠尾のように見えた。更に、その尾を付けた高い岬の上には、こんもりと盛り上がった円い小山が載っている。その全体の姿はまるで険しい日高の山嶺に挑む鼠のように見えた。

勉三はその鼠に北の大地に挑まんとする自分を重ねた。後に彼はエリモというアイヌ語が鼠を意味することを知り、アイヌの魂に通じたような不思議な感動を覚えたことであった。

荒波の襟裳岬を過ぎ十勝野の沖に達した頃はちょうど真夜中で、しかも小雨が振り出していた。ライマンが紹介する十勝野は遠く闇の中に沈み、その姿を見せてはくれなかった。

 根室港には米国・露国の捕鯨船が三、四隻碇を下ろしていた。マストには彼らの母国の国旗がはためいている。港には役人・軍人が行き来しており、「北の()(やく)」という言葉が身に迫った。

根室一帯は鮭・昆布漁業と牧畜の地であり、農作物はせいぜい(かぶら)と馬鈴薯が育つのみ、他の作物の育ち具合は惨憺たる有様であった。

原野に近い牧場には、およそ民有の馬四百頭に牛九十余頭、官有馬四、五百頭が放たれていた。

ただ、港の近くでは、一日千五百缶を製するという鮭の缶詰工場が盛んに動いており、漁業の町としての発展を窺わせていた。

田本の「ほとんど農事の為に地を願うものはない」という話は本当だった。



     (9回)


第八章 時節到来

 

  (1)

 明治十二(一八七九)年一月

いよいよ私立豆陽中学(後に賀茂郡立豆陽中学静岡県立豆陽中学県立下田第一高校下田北高校に改称し、現在県立下田高校)は開校の時を迎えた。

校舎は蓮台寺山崎にあった旧第十区議事堂である。和洋折衷で、玄関屋上にバルコニーが付いた、大きな二階建ての堂々たる構えの校舎であった。郡役所が下田に移り、そちらに新しい議事堂が創られたため、この建物を校舎に使うことになったのである。

まだ県の認可を得るに至ってはおらず、生徒も佐二平の末弟や長男など那賀郡から来た四人だけであったが、とにかく開校を先行させた。いずれは正式な認可を受け、やがては公立中学に格上げすることが計画されていた。

初日、勉三は(らい)山陽(さんよう)の『日本外史』を論じ、三余先生譲りの至誠の哲学「自らの天分を発見し、真心をもって実行実践せよ」という教えを説いた。正規の教員ではなかったが、漢学を教えることになっていた教員の赴任が遅れていたため、臨時に教壇に立ったのである。

勝は英語教材『ナショナル・リーダーズ』の一節を流暢(りゅうちょう)な英語で読み上げ、田舎の少年たちの度肝を抜いた。

この年の八月、豆陽中学は県の正式認可を受け、生徒数も三十名を数えた。が、正規教員は英学と漢学を担当する二人だけだった。県からの予算二百六十円ではこの二人の人件費が賄えるだけだったからだ。年間二百二十円程の不足が出たが、この不足分については南豆の有志百二十名の熱意と善意がこれを支えた。

大正六年一月にこの地を訪れた大辞典「言海」の著者大槻文彦(ふみひこ)博士は「かかる僻地に中学のあること不審なり」と滞在記に記しているが、それほどにこの地における中学設立は尋常ならざる出来事であった。

いずれにせよ、この明治十二年という年は勉三にとって、勉三の渡北計画にとって極めて意義深い年となった。何故なら、一つにはいずれは北海道開拓の同志として迎え入れたいと考えていた勝が伊豆で仕事に就き、勉三との友情をさらに深めることが出来たからであり、二つには将来同志となるべき銃太郎・親長父子との交流を持つことが出来たからである。

更にもう一つ重要な出来事があった。開拓使外事課が『開拓使顧問ホラシ・ケプロン報文』の翻訳本を出し、待ちに待ったその書を遂に入手出来たことである。

日本語に翻訳された『ケプロン報文』は五百六十ページに及ぶ大冊であった。勉三は夜遅くまで、大沢の実家の離れに籠り、那賀川のせせらぎを聞きながら分厚い報文に読み耽った。四年前、義塾の書庫で初めてその一部に接した時の感激が再び蘇って来た。

この報文はアメリカ南北戦争から僅か六年後に書かれている。それ故に、北軍の勇者ケプロンが著したこの報告文には、奴隷解放を実現させた自由闊達な平等精神と、理想主義的なフロンティア精神の息吹が(みなぎ)っている。その精神が勉三の魂を捉え、蝦夷地開拓へと突き動かしたとも言える。

ケプロンは力強く、確信を持って、こう断定している。

「本島の実価(掛け値なしの価値)あるや、天然の物産に富み、漁労あり、鉱属あり、地味沃饒(よくじょう)(肥えていて作物がよく採れる)、気候清和(せいわ)(陰暦四月の季節のような穏やかさ)にして且材木あり。加うるに佳港(かこう)(良い港)、良河ありて他邦(外国)と交通するに便あり。是をもって開拓の法そのよろしきを得ば、世界中最上位に位せんこと必定なり…」と。

 ―北海道はそれ程に素晴らしい土地なのだ。なんとしてもこの北辺の大地の開拓をやり遂げ、国の役に立ちたいものだ。

勉三はその思いを改めて強くせずにはいられなかった。

 ケプロンと米国人顧問が行なった調査と提言は実に多岐にわたっている。地形・地質・鉱山の調査と測量、道路・運河・航路・鉄道の開削と敷設計画、村落・市街の区画、農業・牧畜・漁業・鉱業の振興計画立案と実行、民間資本や外資導入案、畑作・酪農を中心とした洋式農法の導入、農林水産物の加工・生産、外国人技術者の導入・雇用と移民法の制定、生活文化の改良にまで及んでいた。

当時日本、特に南国地方では、

「蝦夷は凍土の地でとても農作物を育てることなど出来るはずがない」

(ひぐま)や狼がうろうろしているとかで、とても普通の人間の住めるところではないそうだ」

「流刑地の蝦夷には恐ろしい囚人がうようよしているというではないか」

などといった風説が広まっていた。

英国人探検家や旅行者なども、しきりに「蝦夷地は亜寒帯に属し、シベリアの気候である」とし、「農業地不適論」を英字紙に発表していた。もっともこれは英国の米国牽制キャンペーンの一つであったのだが。

こうした風説や俗論が今後の北海道開拓計画を進める際に大きな障害として立ちはだかるであろうことは、十分予測できたことである。報文訳本の中に「気候清和なり」、即ち「陰暦四月の季節のような穏やかさである」など多分に創作気味の訳文が出てくるのも、その辺への配慮からであろう。

ケプロンは、英人報告を念頭に置き、緯度的に北海道より北に位置する欧米の農業地の例を引きながら、繰り返し「農業地不適論」に反駁していた。開拓使庁も、あちこちで既に函館・室蘭・札幌の各地で開拓が進み、道路が開かれ、畑に麦・馬鈴薯・玉葱が植えられ、牧場に牛馬が放たれているとの報告を広めていた。ただ、報文には「日本人主食の米は適作でない」との記述があり、「牧畜を盛んにし、麦を植えつけ、主食を麦粉から作られるパンと肉を中心とする洋食に切りかえていく事でこの問題は解決できる」と提言されている。

 ー米が出来ないというのは本当のことであろうか。実際に蝦夷地に行って、現地の気候風土や土地柄をこの目で見ることが何よりも大切なことだ。

勉三はそんな思いを強くしていた。

 

  (2)

勉三がこんなふうに北海道開拓の夢で頭を一杯にしていることを知ってか知らずか、時を同じくして勉三の結婚問題が持ち上がってきた。

勉三は既に二十七歳になっており、この結婚話は突然に持ちあがって来たというものではなかった。つまり、結婚相手は前々から松崎分家塗り屋のリクと決まっていて、そのリクが今年十八歳になり、適齢になったということから「具体的な話」になったのである。

 勉三とリクの組み合わせは、佐二平がリクの姉フジと夫婦になり、そのフジの弟善六が佐二平の妹ミサと夫婦になった時から、何となく周囲の口の端に上り、やがて暗黙の了解事項となっていた。

依田家に限らず、この地方の旧家では、分家を出し、その分家と本家の間でお互いに養子・婚姻関係を結ぶ例が多かった。一族の間で土地財産を守り、継承していくという一つの智恵、仕来りでもあった。

勿論近親結婚の弊害もある。後に、蒲柳(ほりゅう)性質(たち)に生まれた愛息(しゅん)(すけ)が僅か二歳で早死したり、開拓に協力した兄弟が若死にしたり、リク自身も病弱だったりしたという不幸はそれと全く無関係だったとは言えない。

「婚姻の儀は今年の四月五日に」こうした申し合わせを最も熱心に推し進めたのは、塗り屋の当主でありリクの兄であった善六である。

善六は佐二平と並ぶ「三余塾の逸材」といわれ、塾を()えた後、韮山の江川氏の農兵隊に参加したこともあり、周囲から「至誠にして剛毅果断の人」と称されている人物であった。

その善六は、「共和会」を主催しながら勉三の働きをじっと傍らで見てきた。そして、この男は狭い郷土でなく、いずれもっと大きな世界に出ていって何事かを成し遂げる人物になるに違いない、という期待を寄せるようになっていた。それだけにこの結婚を契機に、勉三が新しい人生を切り開いていくことを強く願ってもいた。

「気心の知れ合ったリクが家庭を守ればこそ、勉三も思い切ったことが出来るはずだ」と。

勉三もリクとの結婚をごく当たり前のことのように考えていた。自然の流れであった。また、自分が北海道開拓に入る時は当然一緒に行くものと決めていた。それがリク自身にとってはどうかということについては、考えてもみなかった。「夫唱婦随は当たり前」という封建的な道徳観からそうであったということだけではない。ケプロンの報文を読み、ますますこの開拓計画に熱中していた彼には「反対される」という意識がほとんどなかったのだ。

「きちんと調査をし、しっかりとした計画案を持てば、誰しもが賛同してくれるはずだ」

 彼はそう考えていた。

ある意味では、こうした思い込みがあればこそ開拓という難業難事が成し遂げられたとも言える。しかしこうした激しい「思い込み」がまたその後数多(あまた)の「行き違い」を生む原因になっていったことも事実である。

リクもまたこの結婚を極めて自然のことと受け止めていた。三余夫人のミヨからは「勉三さんは無口なだけに一層その心に深く一途さが(かく)されている」と聞かされ、兄善六からも「将来が期待される男だ」と聞かされていた。しかし、先々のことなど考える余裕などなかった。夫となる人は九歳も年上である。十八歳の娘にはまだ勉三を理解するだけの才知はなかった。ただ「この人の下で一所懸命尽くそう」と固く心に誓うばかりであった。

結婚式は極めて質素なもので身内が参列しただけである。総領息子の場合はそうもいかなかったが、田舎の次男三男の結婚式は大概そうしたものであった。「質素・倹約・正直」を家風にしていた依田家一族の場合は特に質素を極めていて、佐二平や善六の結婚式も驚くほど簡素なものであった。

勝は、勉三から二ヶ月も後になって婚姻した事実を告げられ、さすがに驚いた。

「水臭い、予め知らせてくれればお祝いでもしたのに……」

そう愚痴を(こぼ)しつつも、「いかにも依田家の家風らしい」と苦笑いした。

しかし、この結婚は勉三に自分の年齢というものを強く意識させ、渡北開拓への意欲を一層掻き立てた。

この年の四月末、政府から「北海道送籍移住者渡航手続」が出された。これによって「送籍(転籍)者」には家作料・種子料・農具を支給し、開墾地の私有を認め、七年間は税を猶予するという従来からの保護に加えて、更に渡航費用が助成されることになった。この記事に接した勉三の目には、ケプロン報文の翻訳本発行といい、今回の決定といい、いかにも新政府が北海道開拓を急務とし、一層力を入れ始めたように見えた。

またこの明治十二年の十一月、横浜で第一回生糸・繭共進会が開かれ、松崎繭は高評価を受け、松崎一帯の養蚕・製糸事業もようやく軌道に乗り始めた。

 そして、翌十三年春共和会の中で、前年から正式に会員に加わっていた佐二平の提案で、新たに松崎沼津下田横浜の航路開発が論議にのぼり始めていた。

「どうやらここでの自分の役割は、もう果たし終えたようだ。そろそろ渡北計画に向けて動き出しても良さそうだ」

勉三は心の中でそう思い始めていた。

 

  (3)

明治十三(一八八〇)年夏転機がやって来た。

大沢村共有の入会地に低木・雑木が生え茂っている荒地があった。あまりにも山奥にあり、使い道のない原野であったため、地租改正の折にもついに国有化されなかった土地である。日ごろ治山治水の重要性を訴えていた佐二平の発案で、ここを開墾し、そこに数千本の杉苗を植えることになった。いつものように資金の大半は佐二平が負担し、村人の負担は僅かなものであった。佐二平は自らを誇ることなく、

「こうして村人が協力し合えば、山や水源や下流地が洪水から守られるだけでなく、後世の大沢村子孫に大なる財産を残すこともできる」

と説き、村人を奮起させた。

勉三はこの山の原野開拓作業に率先して取り組み、思いがけず、村人から賞賛を受けた。勉三にしてみればこの仕事はいずれ北海道開拓計画に連なる恰好の演習であり、自然に熱が入ったのである。

佐二平もまた勉三のこの熱の籠もった働き振りに目を奪われた。

「勉三はこのような仕事に特別の興味を持っているのかね?」

遂にチャンスがやって来た。勉三は居ずまいを正して佐二平に向かった。

「興味というより、もっと強い関心を持っています。ぜひ兄さんに聞いて貰いたいことがあります」

勉三は、慶應義塾でケプロン報文に接して以来のこと、北海道への入殖・開拓事業計画等など、胸の中に溜まりに溜まっていた思いの丈を一気に語り、吐露した。

そして最後にこう付け加えた。

「三余先生は『勉三には果たすべき使命がある』との形見の言葉を遺して下さいましたが、今は北海道開拓こそが私の使命・天職と思っているのです。しかし、これは決して私一人の力で軽々に行なうことの出来る事業ではなく、一族の、特に兄上の協力がなければ到底成し遂げられるものでありません。いずれは相談せねばと思ってきましたが、とにかく一度渡北し、現地を視察したいと考えているところです」

佐二平は、いつまでも幼い弟と見なしていた勉三が、心の奥にこのような大望を抱き、じっとそれを温め、時節の到来を待っていたという事実を初めて知り、驚くと同時に「済まないことをした」と悔いる気持ちに襲われもした。

 「自由にやれ」と言いながら、ついつい片腕として頼りにし、重宝に使ってきてしまった。ケプロン氏の報告に啓発され、義塾を退めてからもうかれこれ十年が過ぎようとしているのか。それにしても相変わらず一途な奴だ。三余先生が見込んだだけの男ではある。

佐二平には勉三が急に頼もしく見えた。

「そうか。よし、一度じっくりお前の思案計画を聞いて皆で相談してみることにしよう」

勉三の顔がパッと明るく輝いた。頬に赤味が差し、顔面が上気していた。

 

  (4)

明治十四(一八八一)年正月三日

大沢村依田本家でもたれた新年の祝宴には、佐二平の声掛かりで一族の主立った類縁の者全員が集まって来ていた。渡邉勝は、例年お正月には上京し、ワッデル先生の教会堂の手伝いをすることになっていて、この正月も留守だった。

本家の当主佐二平を中心に、その弟である勉三、渡辺家に養子入りした要、塗り屋分家浜店に養子入りした善吾、大石家に養子入りした唯四郎、家の手伝いをしていた末弟の文三郎。そして分家塗り屋当主善六、その弟で三余土屋家に養子入りした準次、分家浜店の又四郎、分家中瀬の直吉。その妻子。準次の養母三余夫人ミヨもまたこの席に招かれていた。

宴もたけなわになり、夏の入会地の原野開拓と植林に話が及んだ時、

「ちと、皆の衆に聞いてもらいたいことがある」

と、佐二平が座を制した。

「入会地の植林もさることながら、この四百戸からなる大沢村の田地は百二十余町歩、山地の畑も百余町歩しかない。那賀・賀茂郡の村々も似たりよったりで、近頃のような勢いで人口増加が続いていくと、耕地の狭さが如何ともし難い困事になることは必定だ。伊豆沖の島々の活用も検討してみたが、これは結局東京府の所属ということに決まった。養蚕も桑畑の広さに限りがあり、いずれ頭打ちは避けられまい。そんな中で、勉三の方から北海道の開拓開墾事業に取り組みたいという話が出されて来たのだ。のう、勉三」

「ええっ!」

「ほほう!」

大広間に声にならぬ大きなどよめきが上がった。

勉三は一座の視線をいっせいに浴び、祝い酒で赤らめていた顔を更に赤くしながら、つと立ち上がった。

「かねてから、何か郷土の、国のお役に立ちたいと思い、この間ずっと北海道に渡って新天地開拓に取り組むことを考えて来ました。人間(こと)を成すは黒頭(こくとう)にありすなわち頭の黒い若いうちに事を起こせという詩がありますが、私も今年数えの二十八歳。兄に相談し、許しを得て、いよいよこの事業に着手することに決めました。蝦夷地北海道には手付かずの広大な原野が眠ったまま放置されています。私はそこに何万坪もの耕地を拓くつもりです」

「えっ!」

という驚きの声が上がり、広間の酔いはいっぺんに醒めてしまった。

「面白そうな企てだな。いかにも勉三らしいではないか」

まず、塗り屋の当主善六が賞賛の言葉を放った。それは、彼がこの勉三の北海道開拓事業計画に賛同し支援を惜しまない、との意思を示すものであった。

「勉三さん、いよいよね。おめでとう。主人が生きていて、このことを知ったらどんなに喜んだことか……」

そう言うとミヨは着物の袂でそっと目頭を(ぬぐ)った。この席にいる者は皆「勉三には果たすべき使命がある」という三余先生形見の言葉を知っていた。だからミヨが目頭を熱くした意味もよく判っていたし、勉三の意気込みが通常のものでないことも知っていた。

「しかし、北海道は熊や蛮人が住む寒冷地で、ごく一部でしか農作が出来ないとも聞いているが、その点は大丈夫なのかね?」

農事に精通する準次が心配げに尋ねた。

「米国人顧問ケプロン氏が報告文で、天然の物産に富み、漁労あり、鉱属あり、地味沃饒、気候は初春のように清和で、かつ材木あり。加うるに佳港、良河ありて他邦即ち外国と交通するに便あり。是をもって開拓の法そのよろしきを得れば、世界中最上位に位せんこと必定なり、と言っている位です。熊の生息は山奥の話で、里に出てくることなど滅多にないそうです。蛮人というが原住民アイヌは数も少なく、自然と調和した生活を好み、今では和人ともすっかり慣れ親しんでいるということです」

勉三はそう答え、更に様々な「北海道農地不適論」に対するケプロンの反論を我が反論として激越に語った。そして既に現地ではケプロン氏の提案に基づく洋式農業が導入され、現実のものとなりつつあることを熱を込めて話して聞かせた。

「そんなふうに開拓使の黒田長官が、洋式大農法を採り入れた開拓計画を推し進めているということですが、それがどこまで成功しているのか、入植して開拓をするとしてその地をどこに定めるか、それはやはり現地に渡り、この眼で現地をつぶさに観察した上でないとなかなか結論は出せません」

佐二平は勉三のこの発言を引き取った形でこう続けた。

「この夏辺りに、一度勉三が北海道を視察して来て、その報告を受けた上で、最終的結論を下そうと思う。一族挙げての後援が必要になろうが、その際はあらためて皆に相談したい」

 この日の祝宴は北海道に関する話題で持ちきりとなり、勉三は英雄扱いとなった。子供達は勉三の周りに群れ、北海道には大雪が降る話、厚い氷が海を閉ざすという気候風土の話、アイヌの風俗習慣の話、人を襲うという恐ろしい羆や狼の話等々を盛んにせがんだ。

 リクの受け止め方も子供たちと大して違っていた訳ではない。

翌朝、既に落ち着いた気分に戻っていた勉三は、若妻のリクに、

「驚いたか? しかしもう決めたことだ。一緒に苦労して貰いたい」

と、ごく普通に声を掛けた。

「驚きましたが、前々から貴方は何か大きな事をする人と兄にも土屋の叔母にも聞かされていましたから、やっぱり、と。いよいよ、なのですね。おめでとうございます。私もしっかり準備をしなければ……」

彼女はそう言って臨月の近づいたお腹をそっと撫でた。しかし、勉三の目はそれを見ていない。

「夏、三ヶ月ほどの周遊になるだろう。これは視察だけで、本格的な準備は来年に入ってからだ。忙しくなることは間違いない。家内(うち)のことは頼んだぞ」

「はい。私も……」

勉三は若い妻がお腹を見詰めながら何事かを言おうとしていることに全く気付かなかった。

「そうだ、このことを早く渡邉君や近悳殿に報せねば……」

そう言うと早くも机に向かい、紙を広げ、筆を執っていた。

勉三のような人間にとって、家内のことはどうしても些事と見過ごされがちであった。リクの方も、そのことに対して愚痴を零すでもなく、夫について行かねばと覚悟し、ただひたすら前に進んで行くのだと思うばかりであった。

 

  (5)

正月を東京のワッデル先生の元で送っている勝に北海道開拓事業のことをどう話したものか。

「大きな問題だ」

勉三は、開拓の同志にと考えていた勝に早くこの開拓計画を報告し、相談したかった。が、躊躇もあった。まだこの企ては立案の段階であって、その実行が決まった訳ではない。そして、勝は勝で一つの夢を持っている。しかもそれは彼一人の夢ではなく、ワッデル先生の夢でもあるのだ。

昨年の夏、勝の友人が米国留学に旅立つことになった際のことである。

「わしもいつかは米国へ留学したいと思っている。しかし、片道二百数十円の旅費を貯めるのは大変だ。禁酒禁煙して、その上飯を節約しても後しばらくはかかりそうだ。はっはっは」

勝は自嘲めかしてそう言って笑ったが、半分以上は本気だった。実際、勝の語学力は勉三の目にも極めて優れたもので、伊豆の片田舎の中学教師にしておくには勿体無い程であった。彼は欧米の原書を読み漁り、英文をよく書いた。長い休みがあると横浜や東京に出かけ、欧米からやって来ていた宣教師らと交わり、語学学習に時間を割いていた。

彼はいかにも明治のロマンチストであった。尾張の洋学校を飛び出したその時から、いつか狭い日本を飛び出し、見聞を広め、何か大きな仕事を成し遂げてみたいという夢をずっと持ち続けていた。電信技術学校に行ったのも、ワッデル塾に飛び込んだのも、すべては洋学・英語修行のためであった。

規則ずくめの工部官僚の世界も、聖人君子たることを求める牧師の世界も、彼には窮屈過ぎた。ワッデル先生はそれを理解したからこそ、彼を教会から解き放ったのである。ワッデル先生の脳裡にも、彼が米国留学を果たした暁には教会ではなくワッデル塾を任せ、これを本格的な英語学校に発展させるべく、思う存分に運営させてみたい、という思いがあった。

勉三は、勝の「外国への留学を果たし、国のために何事かを成し遂げたい」という目論見や、ワッデル先生の将来計画を知らないわけではなかった。だからこそ、いよいよとなった今、勝に北海道開拓の計画を語り、同志として共に開拓の鋤鍬を振るわないかと誘うことに、いささかの躊躇が生じたのである。

慎重の上に慎重を期する必要があった。勉三は四月になってようやく、それもごく軽く「北海道周遊」の件を勝に伝えた。

「夏頃、北海道に渡り、現地を探査し、現状を観察して来ようと思っている」

勿論この渡北が、ケプロンレポートに接して以来自分が夢見て来た入植開拓計画の第一歩であることも、ケプロン報文が描いて見せた西洋式農業の青写真についても、熱情を込めて語り聞かせた。しかし、まだ「一緒に入殖して開拓事業をやらぬか」と誘うことはしなかった。

「とりあえず、まず現地を探査し、現状をつぶさに観て、入殖するかどうかは、それからのことなんだがね」

実際、最終的にこの事業が一族の賛同を得て実行に移せるかどうかは、探査結果を()ってのことであった。

さすがの勝もこの話には驚いた。

 それにしても、勉三さんは義塾を退めた時からずっとそうした計画を持ち続け、時節到来を待ち続けて来たのか。なんという一途さ、忍耐強さであろうか。

勝は勉三の「農に生きる」という決意が生半可なものでなかったことを初めて思い知らされた。

「面白そうな話じゃないですか。うん、なかなか愉快な計画だ。周遊から帰ったらぜひ詳しく話を聞かせて貰いたいものだね」

そんな勝の弾んだ声を聞き、勉三は嬉しさのあまり、思わず身震いした。そして、あらためて、この男をぜひ同志として迎えたいものだ、との思いを強くしていた。

しかして、この勉三の打ち明け話は、勝の心中に思いがけなくも驚くような変化をもたらした。

 いつしか彼の脳裏に、北海道の平原に出現するであろう西洋風の新天地農場・牧場に囲まれた街が、白ペンキ塗りの学園校舎が、ポプラの並木道が、そこを行き交う着飾った人々と馬車の群れが、高い尖塔に十字を飾った教会等々の情景がくっきりと浮かび、やがては北の新天地で開拓の鋤を振るい、伝道に(いそ)しむ己の姿が浮かぶようになっていた。

 

明治十四年七月二十九日

曇天の早朝、生まれてまだ間もない俊助を抱いたリクに見送られ、勉三は一人密かに大沢村を出立した。彼は出立に先立って旅日記の冒頭にこう記した。

「この(こう)(旅)は一遍の周遊にして風土人情を視察するに過ぎず。しかれども良土にして吾人の棲息(せいそく)する(住み着く)に足るを得ば、まさに耒耜(らいし)(農具の(すき))を(にの)うてここに耕耘(こううん)し(田畑を耕し草を刈り)、以ってわが郷里の如き人口()()(人口過剰)の地よりこれを北海道の如き無人の地に移植し、その欠乏の万一を補わば、余が如き天下の無用者も変じて有用の者にならんとするの意を有せり」と。

勉三の目は既にわが郷里だけを見てはいない。その目には「天下」の至る所に存するであろう「郷里の如き人口夥多の地」が映っていた。

「三余先生、見ていて下さい。この勉三、天下の無用の者から必ず有用の者になって見せます」

勉三は、そう呟きながら、一度だけ、遥かな南伊豆の山々を振り返った。そして、それっきり二度と後を振り向くことなく、猫越(ねっこ)峠を越え、(しの)()く雨の山中を北へ北へと、力強くその歩みを進めた。

 時まさに明治十四(一八八一)年夏明治政府中央と北地は「官有物払い下げ事件」と「政変」に沸いていた。

 

 

 

 

 道史Ⅰ 開拓黎明期 259ページへ

        

  【巻末に北海道の近代史】

  主人公依田勉三が生きた時代とはいかなる時代で

  あったのか。依田勉三の生涯は彼の生きた時代を

  抜きに語ることは出来ない。『北海道の近代史』

  は、勉三の生きた時代、その生涯の歴史的背景を  

   明らかにしたものである。それぞれ、適当な個所  

   に挿入すべきものであるが、かなりの長文である

   ため、本文の自然な流れを阻害することになりか

   ねないため、『北海道の近代史』はそれぞれの巻

   末にまとめて掲載した。          


【第8回掲載 2023年10月】



 第七章 巡り合わせ


  (1)

 「勉三、豆陽(とうよう)中学の洋学教員に渡邉氏を誘ってはくれまいか」

 明治十一年夏、兄佐二平からの相談であった。

 下田蓮台寺(れんだいじ)に新しく発足する中学の英語教員として、ワッデル塾にいた渡邉勝(まさる)を招くことが正式に決まった。このことが、勉三にはこの巡り合わせが何か運命的なものに感じられ、渡北の夢が急に近づいて来たように思えてならなかった。

 前年の春あたりから、南伊豆一帯では中学校建設問題が大きな話題になっていた。切っ掛けは、伊豆北に当たる静岡県第九区に韮山中学が出来たことであった。

 「県から伊豆国全体に予算が出ているというのに、北にだけ中学が出来て南に出来ないのは不公平ではないか。山奥だからいらないとでもいうのか」

 南豆(なんず)人の言い分であった。伊豆半島の真ん中に天城山系がでんと座り、それによって半島は南北に仕切られている。この天城山の南側︱南伊豆は、表街道東海道に近い北伊豆からするといかにも「僻地」であり、「山奥」である。

 松崎・大沢等の那賀(なか)郡、下田・蓮台寺等の賀茂(かも)郡からなる南伊豆の第十区の人々、とりわけ教育に熱心な住人にとって中学建設は重大な問題であった。小学校を卒業した子供を上の中学校にやろうにも韮山はあまりに遠かった。もし韮山まで通わせるということになると寄宿させるほかない。かなりの出費が求められ、そう容易(たやす)く進学させることは出来なくなる。しかし中学にはぜひ行かせてやりたい。何としてもこの南に一校開かねばならない。

 佐二平は三余の教えを忘れてはいなかった。

 「三余先生なら、向学心に燃えた若者の才能を朽ち果てさせるようなことは決して許すまい。何としても南豆に中学を建てよう」

 三十一歳とまだ若かった佐二平らはそう決断すると、直ぐに勉三に相談を持ちかけた。当時、佐二平は県議会では副議長を務め、大沢では製糸工場の操業を進めており、身動き取れない状況にあった。勉三が片腕となって動かねば到底実現不可能な企てである。勿論三余塾門下生の勉三自身にとってもやりがいのある仕事であった。

 佐二平と勉三兄弟はこの計画を真っ先に地元の社交親睦の会である「共和会(きょうわかい)」に持ち込み、ここをバックに南伊豆一帯にこの運動を広げていくことにした。勉三にはある予感があった。将来北海道開拓事業に乗り出していく時、それをバックアップしてくれるのは三余塾門下生の集うこの「共和会」のメンバーに違いない、と。彼等の信頼を得たいと欲する勉三にとってもこの中学建設運動は願ってもない絶好の機会であった。

 既に明治九年に郷里松崎で設立されていたこの「共和会」は「社員の親睦、地方の公益を図り、弊風(へいふう…古臭く悪い風習や風俗)を正し、適切な事業があればその主唱者となり、実行の労をとること」を会の目的としていた。非政治的結社で、その中心に立っていたのは、依田松崎分家の塗り屋跡取りで弱冠二十六歳の依田善六(幼名は園‐その)。他に塗り屋分家中瀬の依田直吉、東京帝大で薬学を学んで帰郷し、実家の薬舗を営んでいた近藤平八郎、塗り屋分家浜店の依田又四郎、佐二平妻実家の奈倉惣三らがいた。帰郷してすぐ勉三もそのメンバーになっていた。村外に出ることの多かった佐二平はメンバーにはなっていなかったが、年に四回開かれる演説会・講演会には参加し、講師を務めることが多く、明治十二年に社員になっている。

 後に、会は「豆南(とうなん)社」と名を変え、以後三十七年間にわたって郷土の発展に尽くした。彼らは皆三余塾門下生であり、三余薫陶下の青年たちであった。

 さて、この中学創設運動の先頭には人望の厚い佐二平と経営実務能力に優れていた大野恒哉(つねや)、区長木村恒太郎(こうたろう)らが立ち、実働部隊は勉三が担った。

大野は三余塾で学んだ後、三余の薦めで江戸の東條一堂(いちどう)に師事し、幕末には塗り屋の園(善六)と共に韮山江川氏の下で農兵隊に入っていた。故郷に帰ってからは牧場を開いて牧畜業の先駆をなし、地租改正問題でも佐二平と共に運動の先頭に立っており、勉三の良き理解者でもあった。

 勉三は南伊豆一帯を駈けずり回った。運動は下田・南伊豆海岸一帯にも広がった。明治十一年の夏には「いよいよ年末には開校できる」というところまで漕ぎ着けた。

 この頃には、新しく創立される学校では洋学、即ち英語授業に特に力を入れていくことが決まっていた。それで「中心となるべき洋学指導の教員としてぜひ渡邉氏を招きたい」ということになったのである。


  (2)

 明治十一(一八七八)年七月ー

 勉三は桜田鍛冶(かじ)町(現在の西新橋一丁目十七番)の一角に新築されたばかりのワッデル師の教会堂に勝を訪ねた。既に手紙で洋学教師依頼の件については知らせてあった。上州の養蚕技術講習を済ませた帰り、その返事を聞きに立ち寄ったのである。

ワッデルと勝はにこやかに勉三を迎え入れた。

 「勉三さん、洋学教師の件、オーケーですぞ。ワッデル先生も快く承知してくれましたぞ。わしはなんと言っても十円という月給に惹かれたいう訳だがね。英国へ遊学するにはまず先立つモノを貯めないとね。ははは」

 相変わらず勝らしい言い方であった。

 勉三はホッとした。

 「勝クン、牧師ニスルニハ、少シ惜シイ人ネ。型ニハマラナイ人ダカラ、モット自由ナ生キ方ガ向イテイル。彼伊豆ニ福音ノ種ヲ播イテ、私時々行ッテ育テ、刈リ取ル。コレガ一番ネ」

 さすがにかつて乞食のような格好で教会に飛び込んで来た勝を寄宿させ、ポンと六円を貸し与え、身なりを整えさせ、周りをびっくりさせた師である。勝の気性をよく見抜き、彼の将来を真剣に考えてくれていた。

 勝はワッデル先生に拾われてから一年後の明治十年正月、早くも洗礼を受けている。教会から日用入費として月額六円を貰い、ワッデルの英学教授を手伝いながら聖書を学び、同時に師の聖書翻訳事業に協力していた。

 また受洗するとすぐに名古屋の父母の元を訪れ、弟律平への家督相続を確かめ、ワッデルの下で牧師として生きていく許しを得ていた。

 その上で、明治十年十月には新しく発足したばかりの築地の神学校―「東京一致(いっち)神学校」(後の明治学院大学)に特別生として入学し、牧師の資格を取る準備を始めていた。

 新しい教会堂を建てたばかりであったワッデル師は、勝の協力を得て教会と英語塾を大きくし、やがては勝を欧米に留学させ、日本における福音主義キリスト教の布教と英語学校設立の中心に立ってもらおうと考えていた。だから当然、勝の伊豆行きについては師弟共々随分悩んだはずである。結局、勝の豪放磊落、酒好きで、幾分野放図な性格をよく承知していた師は、彼を野に放った方が彼らしい人生を送れるであろう、と思うに至ったのである。

 勿論この時、師もその弟子も、勉三が北海道開拓の夢を抱いていることも、勝を開拓同志に迎えたいと望んでいることも全く知らない。勝が北海道の奥地十勝野の原野に入って、開拓の鋤を振るうことになろうとは夢にも思っていない。

 「先生、本当に、本当にありがとうございます。私も伊豆で勝君や先生の説教を聞きたいと思っています。先生もぜひ伊豆にお越し下さい。大歓迎します」

 勉三は後にこの約束をきちんと果たした。勝はしばしば共和会主催の演説会の壇に登り、ワッデル先生もまた三度にわたって松崎・大沢を訪れて演壇に立ち、聖書を講じた。


  (3)

 ワッデル先生夫妻が勝の前途を祝して宴を張ってくれた翌日、勉三は北行を共にすることになるもう一人の友と運命的な邂逅(かいこう…巡り合い)を果たすことになる。

「はじめまして」

 築地の東京一致神学校の勝の友人、鈴木銃太郎(じゅうたろう)は背筋をピンと伸ばし堅苦しく頭を下げた。まだ二十一歳で勉三より三つ、勝より二つ歳下であったが、早くに洗礼を受けていた。いかにも神学を学び、将来牧師になることを願っている青年らしく、ひたむきで真面目さが溢れていた。

 伊豆に去る前に、銃太郎を勉三に引き合わせたかったのは、どうやら勝のようであった。自分が最も親しく付き合っている二人である。かねがね引き合わせたいと思っていたのであろう。

銃太郎と勝は、明治十年十月に新しくできた築地の神学校で半年以上一緒に机を並べて学んだ同級生である。銃太郎には二つ歳上の勝が時として弟のように思えることがあった。勝は後に銃太郎の妹カネと結婚し、彼とは義理の兄弟となり、北海道の奥地で共に鍬を振るい、苦楽を共にするのだが、この頃既に銃太郎は彼を実の兄弟のように思っていたのである。

 勝とワッデル先生との出会い、勝の信仰動機の話を聞いた時には「あまりにも荒唐無稽な話だ」と、銃太郎は呆れ返ったが、しかしそんな勝に好感も抱いた。無邪気で開けっ放しの性格が、生真面目で羽目の外せない長男特有の性格に固まっていた銃太郎には、羨ましくまた好ましくもあった。

 それ故、勝から神学校を辞めて中学校の、それも遠い南伊豆の洋学教師になると聞いた時、銃太郎はびっくりもしたが、いかにも彼らしいとも思った。

 その夜、勝が勉三と銃太郎の二人を案内した先は、かつて勉三と席を囲んだことのあるあの飯屋だった。当時からワッデル塾の者はこの飯屋の弁当を使っていたが、勝はここを我が家のように使っていたのである。

三人が会うのはこの日が初めてであったが、この時ひょんなことから「北海道移住」の話になり、勉三を驚かせ、かつ楽しませた。

 「寮を追われ、塾を追われ、借金を催促された時、俺は西郷さんのいる薩摩に逃げて行くか、北海道に行って屯田兵にでもなろうか、と真剣に考えていたのだ」

明治九年春、巷では「薩摩の旧士族たちが征韓論に敗れた西郷さんを押し立て、新政府に反旗を翻すのでは」との噂がしきりに口の端に上っていた頃である。

 「勝さんは南へ行くつもりだったの? それとも北へ?」

 銃太郎が真面目な顔で質(ただ)した。

 「北だね。士族が士族として何かをする時代は終わったが、北には没落士族の恰好の働き場所があった。北の守り役だ。ロシアの南下は本物だ。北海道か満州か韓半島か、いずれかが狙われるだろう。最後は武力勝負になる。俺は西郷さんが北海道に屯田兵や鎮台の創設を唱え、韓半島に影響力を作り上げようとしていることには賛成なのだ。しかし、国はまだひ弱で立ち上がったばかりの赤子だ。国を強くするのは武だけでなく、財力・技術力・政治力・外交力もそうだ。北海道には広大な原野があり、資源も豊かに眠っていると聞いている。武と農との結合︱まさに屯田兵の育成こそが必要だ。国の内で争っている時ではない」

 「ははは、面白い。私の父も全く同じことを言っています」

士族という立場を払拭し、あくまでも親の影響で敬虔なクリスチャンになっていた銃太郎には父親や勝のような熱い愛国の情はない。

 「そんな俺が北へ行くのをやめて、キリスト教信徒になったのは、ワッデル先生のような人物に会い、日本というこの国を土台から鍛え直したいと思うようになったからさ。新政府工部省の官吏と教員は、規則を振りかざして青年の熱情に冷水を浴びせ、貧窮青年に矢のように借金返済を求め、容赦なく街頭に放り出した。それに比べて異人ながらもワッデル先生の人物の大きさはどうだ」

 キリスト教信仰の普及を通じて、この日本に幸福な千年王国を創り上げたいと真面目に願っていた銃太郎も、「彼ハヤハリ野ニ置イタ方ガ良サソウデス」と語ったというワッデル先生の判断が正しいと思わない訳にはいかなかった。

 この夜、普段どちらかと言うと寡黙な勉三であったが、彼らに郷里伊豆松崎のこと、三余先生のこと、農民として農を通じて国に益する生き方をしたいのだということ、今は伊豆で兄の養蚕製糸事業を手伝っているが、いずれはわが道を求めていきたいと思っていること等々を率直に語った。

 がしかし、彼はこの夜も自らの北海道開拓の夢について語ることはしなかった。いつか必ず北海道開拓を現実の事業となし得たその時にこそ、彼らと思う存分語り合おうと心に決めていたのである。

 銃太郎は、勉三が慶應義塾を退(や)めてワッデル塾に入学し、そこで勝と出会ったことを聞いた時、さも不思議という顔をして尋ねた。

 「依田さんはどうしてせっかく入られた義塾を退(や)めてしまわれたのですか?」

貧乏士族の息子銃太郎にとって、それは考えられないことであった。

 「私は新政府に勤めたいとか、この東京で何か事業を興したいとの希望をもっているわけではありません。農を通じて国に尽くしたいと、ただそう願っているだけです。英語を学びたかったのも西洋の農業事情を知り、その優れたところをこれからの日本の農業に活かしたいと思ってのことです。出来たら外国に行き、直接西洋の農業現場に触れてみたいと願っていました。ですからワッデル先生の塾の方が、私の留学に必要な語学を学びたいという目的と要求に合っていた、ただそれだけのことです」

 「西洋の農業について学ばれるのですか?」

 銃太郎はいかにも感に堪えないといったふうに驚きの声を発した。

 「でも少し体調を壊したこともあり、故郷に帰ってつらつら考えた結果、西洋の農学を学ぶ前に自分の足元の日本の農業についてもっと学び、深く考えてみることが大切と思うに至ったのです。それにわざわざ留学せずとも、欧米人が欧米の農法の観点から日本の農地農耕について研究した書物やレポートも出始めていますから、なおさら自分の足元をしっかり見詰めたいと思うのです」

 銃太郎は、三歳上だという勉三のその揺るぎない決断、確固たる判断に驚きを禁じえなかった。

 「なんと頼もしい人物であることか」

 銃太郎は勉三に強く惹き付けられるものを感じていた。

 銃太郎が勉三に強い興味と関心を抱いた大きな理由は、実はその農の問題にあったのである。銃太郎にとって、というより鈴木家にとって、農の問題とりわけ養蚕問題は特別に強く興味を惹かれる問題であった。

 「人はもともと皆百姓だったのであるから士族が廃止された今、よろしく農に帰するのが人の道であろう、というのが私の父の考えでした。私はそんな父と一緒にかつて養蚕を試みたのですが、思うようにはいかず、方々に大変な迷惑をかけてしまいました」

 銃太郎は、こうした話題に強い関心を示した勉三に心を許し、問わず語りに自分の身の上についても縷々(るる)語った。

 銃太郎の父鈴木親長(ちかなが)は元上田藩士で、藩の財政改革に腕を振るい、武芸校大目付や藩校舎監を務めた藩の進歩派であった。まだ九歳の松平忠礼(ただなり)を藩主に戴かねばならなかった上田藩は藩内抗争が激しく、維新において新政府側についたものの、何ら功をなしえなかった。明治四年の廃藩置県の際には忠礼は免官となり、鈴木家もまた禄を失った。

 明治五年、忠礼は早くから留学を計画していた弟と共にアメリカへ渡ってしまい、残された藩士たちは自分で自分の身を処する外なかった。四十二歳で家禄を失った親長は、妻直(なお)と長男銃太郎・長女カネ以下六人の子供を連れて東京に引っ越し、駒込に住居を定めた。「士族帰農論」の信奉者であった親長はそこで養蚕を営むことにしたのである。

 当時故郷の上田では篤農家が「青白(せいはく)」という黄緑色の繭種を発見し、欧米人の間で爆発的な人気を博していた。親長はこれに目を付け、上田に在った妻の実家鈴木家配下の助けを借りて養蚕業に乗り出したのである。因みに妻の直は藩の奥女中に上がっており、親長は主命によって鈴木家へ婿入りしている。

親長の「武士の商法」ならぬ「武士の農法」はたちまち失敗してしまう。元々蚕種管理は難しい作業で、「武士の農法」で間に合うものではなかった。新政府の高額税制も祟(たた)り、多額の負債を抱えて事業は挫折。金銭的に支援してくれた妻の実家からは「己が才を鼻にかけて、せっかくの忠告にも耳をかそうとしない」とその失敗を責められ、夫婦仲までおかしくしていた。

 明治六年正月、この挫折で「新しい時代」を乗り切って行く自信を失った親長は藩主の弟松平忠(ただ)孝(たか)を頼った。そしてその忠孝から築地六番町の日本基督(きりすと)公会の伝道牧師タムソンを紹介され、その教えを乞うようになる。藩主兄弟のアメリカ留学という新しい生き方に影響を受けていたこともあった。

 「欧米化された新しいこれからの世の中を生きていくためには、英語かキリスト教か、どちらかを自分のものにすることがぜひとも必要となろう」

 進歩派親長はそのキリスト教を自分の道として選んだのである。しかし、こうした選択の困難さは現代のそれと比べものにならない。この頃の日本にはまだ「禁教令」が布(し)かれていて、キリスト教は「邪教」として忌み嫌われていた時代である。

 明治新政府の目には「キリスト教は欧米のアジア進出の先兵」と映っており、これを許すならば天皇親政体制が蔑(ないがし)ろにされ、日本国が欧米に侵蝕されかねない、という不安があった。徳川幕藩体制の否定は、それを支えていた官許儒学・朱子学の否定であり、一般士族の拠(よ)って立つべき精神的バックボーンの否定であった。欧米植民地主義の餌食になることを恐れていた新政府が、その精神的空白へのキリスト教浸透を恐れたのは当然であった。そこで、明治新政府は新しい国家の精神的支柱を「天皇を神と仰ぐ神道信仰」に求め、神道を「国教」とする方向へ、急速に突き進んでいくのである。

 危険視されたのはキリスト教だけではなかった。徳川旧体制の保護者であった仏教、特に東本願寺も目の敵にされた。明治元年三月、新政府は早くも「神仏判然令」(神仏分離)を打ち出し、これによって「廃仏希釈(*はいぶつきしゃく)運動」が高まって行く。

 *廃仏毀釈運動…本来は神仏混淆を禁ずる程度のものであった 

 が、一部の熱烈な復古神道家らによって寺院・仏像を破壊する 

 過激な運動へと発展し、全国に十万余あった寺は半減させら

 れ、多くの貴重な仏像・文化財が失われた。

 しかしこうした過激な廃仏毀釈も仏教界が「恭順の意」を示し、新政府への協力を誓う中、やがて静まっていった。結局は明治政府も、明治六年二月、正式に「キリスト教禁教令」を廃止するほかなかった。キリスト教徒への迫害・弾圧は欧米との間に軋轢を生み出すばかりで、逆に危険を生じさせかねなかったからである。

 まだ「禁教令」の高札が立てられていた頃、聖書を初めて読んだ親長は、

 「イエスが人の罪を贖う為に自分の身を犠牲にしたというのは、仮に作り話であるにせよ道理があり立派なことだ。武士道と相通じるものがある」

と、その高い精神性を評価していた。

 異国人である宣教師タムソンが、神の国について語るだけでなく同時に日本の国の幸福を祈ってくれたことも、大いに気に入ったようだ。

 明治七年四月、親長・銃太郎父子は横浜にあった日本基督公会でタムソンの洗礼を受けた。禁教令が解かれ、キリスト教に対する関心はかなり広まっていたが、まだ信徒になる者は決して多くはなかった時代のことである。親長はしばらくの間故郷の信州上田を訪れ、「聖書売りさばき人」となって信仰の種蒔きをしている。

 明治八年八月、師のタムソンの紹介で一家は横浜に移った。親長は横浜公会の執事を務め、銃太郎はブラウン塾に入って英語を学び始めた。娘のカネもまた横浜のミッション女学校に入り、横浜公会で受洗した。

 受洗当時、十八歳、十六歳とまだ若くしかも生真面目な性格であった銃太郎・カネは親長とは少し異なり、キリスト教の説く博愛主義、伝道師の奉仕的な生き方そのものに強く惹かれていた。

 ところで明治五年二月に、横浜に最初の教会として設立された日本基督公会は日本の風土に合わせて作られた独特の教会であった。それは福音主義(*ふくいんしゅぎ)を唱えるプロテスタント各派が集まって作った教会で、日本の宗教的風土や禁教制度を考慮し、宗派の違いに囚われず大同団結し、伝道だけでなく語学教育や医療活動への貢献も熱心に行なった。

 *福音主義…あくまでも聖書に記されたキリストの生涯・言行

 を信仰の中心に置き、戒律や儀式や伝統等にあまり縛られない

 との教え。

 その公会が、明治十年十月、築地に新しい神学校︱東京一致神学校を設立し、銃太郎が学んでいた横浜ブラウン塾もそこに合流する。将来牧師になるべく勝も銃太郎もそこの第一期生となり、ここで二人は出合い、友情を深めていったのであった。もっとも勝が先に意気投合したのは、銃太郎の方ではなく、やはり豪胆で酒好きだった彼の父親長の方であったのだが。

 勉三は、銃太郎や勝から親長の人となりを聞きながら、

 「親長殿にはいつかぜひ会ってみたいものだ」と心から願っていた。

 勉三は、この夜、勝にも銃太郎にも「ケプロンレポート」のことや「北海道開拓計画」についても何一つ語らなかった。それは、何らまだ具体性をもたないこの計画を「人に語るに値しないもの」と自らが見なしていたからである。

 勉三のような実際的人間ならではの判断ではあった。

 飯屋の祝宴がすっかり盛り上がった頃、突然、手伝いの娘が、「呑んでばかりいたら駄目だ。そろそろ飯を運んでくるぞ」と言って飯台の上を片付けだした。

 一ヶ月ほど前から店に出てきて手伝いを始めた、ここの亭主の十四歳になったばかりのヨウという名の孫娘である。父母を相次いで亡くし、店主である祖父の手伝いをすることになったのだ。健気にも淋しい素振りを見せたことがなかった。爺(じい)さんはぶっきら棒な言葉遣いを直そうとしきりに注意をするのだが、全く効き目がなかった。しかし馴染みの客は皆言いたいことをまっすぐに言うこの娘が気に入っていて、時々甘いお菓子などを土産に持ってくる者もいた。

 ヨウが食事を持って来ると、勉三はどんぶりに盛られたご飯の一部を予め空いた皿に移し、それから箸をとった。これを見て、彼女は怒ったように大声を張り上げた。

 「うちの店のご飯がそんなにまずいのか!」

 調理場の爺さんがこれを聞きつけ、慌てて飛び出して来た。

 「これこれ、依田様に何ということを言う! 全く礼儀知らずの娘で申し訳ありません。それにしても依田様は、以前お取り下さった弁当もそんな風に綺麗にお取り分けなされ、後始末に私ど もが頂いておりましたが、なぜそのようなことを?」

 「いや、なに、大したことではないのだ。今日は酒を飲んでおり、無理して口腹に押し込むのも勿体ないので、こうして空いた皿に取り分けておいて店に返そうと思ってね。百姓が日々泥にまみれ、汗水流し、大雨大風を心配しながら、お天道様とお田神様の力添えを頂き、天地自然の恵みを賜って産した米は天下の宝であり、決して私(わたくし)したり粗末に扱うべきものに非ず。これが私の師の教えだったのでね」

 この話を聞いた飯屋の爺さんは、

 「有難い、実に有難い」と、二度三度額を床に擦り付けんばかりであった。

 孫娘のヨウはこの光景を神妙な面持ちでじっと眺めていた。

 「偉い! 依田さん、あなたは本当の農士だ」

 勝は、いかにも感に堪えないといった風に唸り、銃太郎も深く頷いた。

 それからも時々勝と銃太郎は連れ立ってこの飯屋に通ったが、あれ以来ヨウの所作や言葉遣いががらりと変わり、驚くほどお淑(しと)やかになり、周囲の微苦笑を誘っていた。勝が「俺の嫁にならんか」とからかうと、この時ばかりは「大酒飲みは嫌いよ」とはっきりとした物言いをするので、客は一斉に大笑いしたものだった。



【第7回目掲載 2023年9月】

 
   第六章 故郷伊豆へ帰る

  (1)
 ワッデル塾に入門したその年―明治九年の夏あたりから勉三は体調不良に陥った。
 医者の診立てでは脚気の気味があり、なおかつ胃弱だという。胃弱は持病のようなもので、それほど深刻というわけではなかった。しかし、この病気を切っ掛けに考え込むことが多くなった。
 ―学者になるわけでもなし、ここまで無理して英語修得に打ち込むだけの価値が果たしてあるのか?
そんな疑問が芽生えていた。
 ―いずれケプロンレポートは翻訳書が出る。語学にこだわることもあるまい。それに必ずしも米国にまで出かけて行く必要もないのではないか。開拓の現場は日本であり、蝦夷地なのだ。それにまず何よりも兄をはじめ依田一族の理解と協力を得、開拓団を支えるしっかりとした態勢を作ることの方が大事だ。それが出来上がらねば大がかりな開拓事業を始めることなど到底できまい。
勉三の脳裏には写真で見たアメリカ西部の広大な牧場風景が浮かんでいた。そしてそれはいつしか未だ見たことのない「北海道風景」に変わっていった。果てしなく広がる北の草原に無数の馬や牛が群れている……。それは、田舎の人が聞いたら誰しも「夢だ、妄想だ」と一笑に付すような途方もなく広い牧畜場であった。
 ―大きな開拓団を組まねばなるまい。膨大な費用・資金が必要になる。一族の、特に長兄の理解を得ることが何よりも必要だ。やはり故郷に帰るべきだ。
 勉三が下した結論であった。

  (2)

 明治九年九月、勉三は丸二年ほどの東京遊学に区切りをつけ、ワッデル塾も退め、故郷大沢村に帰って来た。
 彼はこの帰省の旅に勝を誘い、箱根・堂ヶ島を巡った。もちろん費用は勉三持ちである。勉三は既に心に決めていた。いずれは彼に北海道開拓の話をし、同志となって共に開拓の汗を流してくれるよう頼みたいものだ、と。
 ―北海道開拓の尖兵屯田兵にでもなろうとした男である。北の開拓にも興味を持っているようだ。信仰者の彼には大事業を興すに必要な誠の心もある。それに何よりも熱血漢で胆力・気力も持っている。また長男ではあっても、既に家督は弟に譲っているとのことだ。自分と同じく至極身軽な身分だ。しっかりした準備と計画があればきっと同志になってくれるに違いない。
 勉三はそう思っていた。だから、彼に依田家一族とその故里である大沢・松崎を見ておいてもらいたかったのである。そしてこの機会に彼を兄佐二平にも引き合わせておきたかったのだ。
 勝は勉三の誘いに喜んで応じ、旅を存分に楽しんだ。大沢訪問で彼を何よりも驚かせたのは、築二百年になるという依田家母屋の圧倒的な重量感であった。庄屋造りのそれは重厚そのもので、どっしりとこの地に根ざしているかのようであった。
 更に、大沢本家を中心とした依田一族の血族的結合と結束の厚さ、強さ、財力の大きさにも圧倒させられた。
 彼は三日ほどの滞在の間に勉三を育てたバックグラウンドの何たるかを知り、勉三への信頼を一層深めた。
 が、勉三が願った勝と兄佐二平との対面は叶わなかった。当時佐 二平は県会でも実業界でも多くの任務を背負っていて、大沢を留守にすることが多かった。周囲に押され、あまり好きでもなかった県議という政治向きの公務にも就き、県内各地を飛び歩いていた。
 こうした兄の多忙さは勉三にとっても予想外のことであった。特に勉三が驚いたのは、邸内の一角に新しく建てられたばかりだという大きな蚕室の存在であった。この三階建ての大蚕室の威容は、兄佐二平のこの事業に懸ける決意と情熱が並々ならぬものであることを隈なく物語っていた。
 松崎村清水にも既に二十五人繰(ぐ)り機械設備を据えた大きな製糸工場が建っていた。上州富岡で製糸技術を習得して来た妹ミサや従妹のリクら六人の子女が先生となって村の娘達にその技術を教えていて、本格的な操業開始の準備が進んでいた。さらに来年には依田邸内の大蚕室の南側に四十人繰の製糸工場を建設することが決まっていた。
 勉三が佐二平と顔を合わせることができたのは、勝が東京へ引き上げてから数日後のことである。
 「なんと、政府元勲を思わせる顔付きではないか」
 母屋の囲炉裏の奥にどっかり座った兄の風貌は以前目にしていたそれとはすっかり変わり、威厳に満ちていた。きちんと梳かれた洋髪、手入れの行き届いた髭、慈愛と寛容に満ちた眼差し、鷹揚を示す口元、三十歳とは思えないほどの落ち着きと風格に圧倒される思いであった。
 実際佐二平は既にこの頃、松崎一帯のというより南伊豆一帯の政界・産業界の重鎮となっていた。それは決して彼自らが望んだ地位ではなかった。むしろ彼は政治向きに関しては出来る限り距離を置きたいとさえ思っていた。しかし地域の村人・有力者が放っておかなかった。佐二平もまた「郷土の為に、世の為に人の為に誠心誠意その一身を捧げる」という三余精神の申し子であった。三余先生の教えを守らねばならない︱その思いが彼にそれらの地位や任務を引き受けさせていた。
 勉三が帰郷した明治九年の秋は、とりわけ忙しい盛りであった。
 四月に足柄(あしがら)県は静岡県に合併され、足柄県の議員を務めていた佐二平は静岡県会議員になり、県令に見込まれて副議長職に就いていた。
 さらに新政府が、「土地私有の承認、地券発行・土地売買の自由」「土地所有者に対する地価課税、税率一律三分の金納」を骨子とする地租改正を「明治九年末までに完了させよ」と布令した為、至る所で騒乱・一揆が起こっていた。伊豆でも例に漏れず大騒乱が起こり、佐二平はその収拾に追われていた。
 伊豆では「三分」という税率もさることながら、大蔵当局の「伊豆古来の総石高十八万石を地租算定の基準とすべし」との訓令が大問題となっていた。
 伊豆地域人民の代表として地租改正に関する事業調査監督の任を負っていた佐二平はきちんとした調査を行い、「伊豆の国の石高は天領・藩領・旗本領を合わせても十万石に過ぎない」ことを明らかにした。その上で、「このままでは膨大な地租の負担過重が生じる。地主・自作人だけでなく小作人もまた重税に苦しむことになる」と、伊豆四郡全土に檄(げき)を発し、一致結束を呼びかけ、抗議運動の先頭に立っていた。
 佐二平は何度も上京し、政府に地租基準額の不当を訴え、算定の再改定を要求して交渉を重ねた。その結果、何とか算定石高は十三万石に減じられることになった。また全国的な反対運動の高まりもあり、税率も二分半に減じられた。
 ようやくすべてが収まり、昨夜、勉三が待っている大沢村に帰って来たばかりであった。大仕事を終え、故郷の身内に囲まれ、やっと一息つくことができた佐二平は、いかにも美味そうに盃を口に運んだ。
 「それにしても、近頃は外の仕事が忙しく、すっかり家を留守にしてしまい、家中のことは妻と伯父さんに任せきりになってしまった。特に伯父さんには村の用掛りや戸長の仕事まで引き受けてもらった上に、蚕糸会社の方も面倒を見てもらい、すっかり世話をかけることになってしまいましたな」
 側近中の側近として、大沢本家の頭領たる佐二平を支えていた母方の伯父奈倉喜平は佐二平より十歳ばかり年上で、彼の良き相談相手であった。
 「なーに、これしきのこと。とは言え、いよいよ製糸工場が廻りだしたらわしの手に余ることは確かだ。何か手を打たねばなるまい」
 そう言いながら、伯父はそっと勉三の方に目をくれた。
佐二平は伯父が言わんとすることに気付きながらも、未だその行く末の見えていない弟にこう言いきかせた。
 「勉三はまず体をしっかりと休ませ、体調を整え、その上でまた自分の行路を決めて進んでいけばよい。まだ先は長い。慌てることはあるまい」
 そして話題を変えた。
 「ところで東京から友人を案内して来たそうだが、どういう人物かね」
 佐二平は勉三が勝の人となりについて熱心に語るのを聴きなが ら、弟が何か大きな目標に向かって突き進もうとしている気配を察し、「うん、うん」と満足げに頷いた。
 勉三には、北海道移住開拓計画について、今ここで兄に話そうという気はなかった。佐二平と依田家は、今大事業に取り組まんとしている真っ最中である。他の事業が耳に入る余地はない。今はその時ではなかった。

  (3)

 県議会が開かれるというので佐二平が再び村を出て行った日、勉三は熊堂山の頂に向かった。何か考え事をするとなると、やはりここが恰好の場所であった。
 「こんなにも小さく、狭かったのか」
 あの頃と同じ風景が広がっている。が、山頂から久しぶりに見下ろす故郷の風景は彼の目に驚くほど小さく、狭く映っていた。それは、彼が東京という大都会に住み、関東平野という広大な平野を目にしてきたということもあろう。がそれ以上に、彼の視野が広がり、明治日本という新しい国家の全体像が見えるようになり、北海道開拓という大目標が脳裏に刻まれていたからであった。
 彼が今生きている世界は、以前と比べものにならない程に大きく広くなっていたのだ。
 ―狭い田んぼ、山裾に開かれた段々畑と、我が家のような地主ならまだしも、小作や小農は小さな耕作地に縛り付けられ、細々と生きていく外ない。日本の多くの農村風景は皆こうしたものだろう。広大な原野が広がる北海道ならば、全く新しい農村風景を作り出せるに違いない。なんとしても開拓をやり遂げたいものだ。
 「ところで問題はこの話をいつどうやって兄に切り出すか、だ」
 昔から勉三にとって長兄の佐二平は、あまりにも大きな存在であった。勉三との間には、七つもの歳の違いがあった。体格に雲泥の差があっただけでなく、知力にもかなりの差があった。兄弟間の対抗心があったわけではなく、比較するなどという気持ちは微塵もなかった。比較を超えたもっと大きな存在、言ってみれば「保護者」のような存在であった。かと言って「親代わり」というのでもない。確かに父母が相次いで亡くなり、二十歳にして兄は残された弟妹(ていまい)八人の親代わりになった。だが勉三にとっては、それ以前からこの兄は頼もしいが幾分近寄り難い〝大人(おとな)〟であり、かなり重たい存在であった。
 ―兄は賛成してくれるであろうか?
 そんなことを考えながら、ふと眼下の那賀川に目をやると、一艘の舟が炭俵らしい荷物を山積みにしてゆっくりと下って行くのが見えた。
 勉三は突然、兄にまつわる幼い頃の出来事を懐かしく思い出した。勉三はこの年上の長兄との間に、終生忘れることのできないある強烈な思い出を持っていた。

 勉三が五歳になったばかりの夏のある日のこと―
 雨上がり後のお昼時であった。那賀川は川幅一杯に水が溢れ、うねるように波打っていた。家の前を流れる那賀川は昔から舟運に使われていた。四間半もある川舟に木材や薪や炭を載せて松崎の港まで運び、そこから江戸表に送り出す。普段は五、六十俵の炭しか積めないが、雨上がりには百俵近くは積み込む。港口まで一里半ほどの旅程である。いなせな船頭が川を下る舟の舳(へ)先(さき)に立ち、長い竿と船をみごとに操った。道行く人、野良の百姓衆はその鮮やかな竿(さお)捌(さば)きにしばし見惚れたものであった。
 依田家でもかなり前から家の前に舟の発着場を設け、船頭・舟子を雇い、薪や木炭の輸送を始めていた。依田家はそれ程広い田畑を持っていたわけではないが、山地・山林だけはかなり持っていた。木材・木炭の収入はかなりのもので依田家が財を成すのを大いに助けていた。
 五歳になったばかりの勉三は昼飯に出た舟子の留守を伺(うかが)い、彼らが舟に乗り込む時にするように船着場の板敷の上を勢いよく走り、繋いであった小舟にポンと飛び乗った。その拍子にどういうわけか、杭に引っ掛けてあった艫(とも)綱(づな)が外れ、勉三の乗った小舟はあっという間に流れの中に引き込まれてしまった。
 あいにくの昼時、この大事に気づく者は誰一人いなかった。勉三は驚きと恐怖のあまり声を失い、小舟の真ん中に這いつくばったままであった。随分遠くまで流されたように思えたが、実際には三十間ほど流されただけである。
 近づく橋(はし)翳(かげ)にふと顔を上げた彼の目に橋の上を通りかかる人影が飛び込んで来た。しかし、助けを呼ぶにも声が出ない。ただ必死で泣き叫んだが、その泣き声すら擦れ、声にならなかった。
 と、その時、人影が橋の上から跳ねるように水中に身を躍らせた。素早く舳先近くに達すると舟べりを摑み、見事な泳ぎで小舟を川岸へと導いた。
 「もう大丈夫だ。心配することはない」
 落ち着いた声でそう呼びかけた人影は常日頃頼りにしていた兄清二郎その人であった。
 勉三は思わず兄の首にかじりついた。そしてこの時になって初めて着物の前が生温かく濡れていることに気づいた。
兄清二郎はこの件について一度たりとも人に語ることがなかった。以来、この日の出来事は勉三の心の奥底に深く刻み込まれ、兄への信頼、尊敬は絶対的なものとなった。その気持ちは二十三歳の大人になった現在でも全く変わっていない。
 
 今も、眼下の那賀川はあの頃と変わることなく、狭い平地をクネクネと走り、荷物を載せた舟が上り下りしている。いずれこの舟には繭や生糸が積み込まれ、松崎港から横浜の港に送られ、欧米各国に輸出されて行くのであろう。
 「やはり兄さんは凄い人だ。村人が皆頼りにするのも当然だ」
勉三はあらためて兄佐二平の存在の重さを痛感した。蝦夷地開拓事業については、その兄に何としても判って貰わねばならない。
初めはすぐに兄佐二平に計画を打ち明け、その上で一度北海道に渡り、現地事情を見に行くつもりだった。しかし佐二平と大沢家の現状を知った今はそう容易(たやす)く言い出せなくなっていた。
 ―兄は明らかに誰かの、出来ることならこの勉三の手助けを願っている。養蚕・製糸の事業をこれから本格的に軌道に乗せ、松崎一帯の大産業に発展させようとしているのだ。かつて三余塾で、伊助さんたちと共に「国と郷里の為に」という大いなる夢を抱いて蚕業に取り組んだこの勉三の助けを求めていないはずがない。にもかかわらず兄は、「ゆっくり休め。そしてあくまでも自分の道を進め」と言ってくれているのだ。
 秋を迎えた伊豆の空はあくまで高く、大空はどこまでも澄み渡っていた。天を仰ぐ勉三の頭上で、あの頃よりも一回り大きくなった大器晩成のタブノキが、サヤサヤと風に鳴っていた。
「大器晩成すだ。慌てることはない。なすべきことをなし、着実に進むことだ」
 勉三にはそんなふうに聞こえた。
 「今は、兄の事業の手助けをしよう。そうすべきだ」
 勉三はそう心に誓った。

 勉三が熊堂山山頂で考えを廻らせた末に辿り着いた結論は、次のようなものだった。
 ―北海道開拓計画において最も重要になるのは資金問題である。兄や一族の理解と協力がなければ到底準備できるものではない。依田家の財政基盤を固める上で今回の養蚕・製糸の事業は極めて重要な意味を持っている。これを成功させることは開拓事業成功の第一歩となるであろう。
 またケプロンレポートが日本語に翻訳されて世に出てくるまで後二年もある。レポートにしっかり目を通した上で現地を訪れる方がより実りが深いものになるであろう。それにもう少し農業の知識を身につけ、経験を積んでおいた方が良さそうだ。しばらくの間兄の片腕になって働き、その間に北海道開拓の計画を練り上げ、適当な時期が来たら、その時にこそ兄に打ち明けよう、と。

 勉三は熊堂山を下り、土屋に立ち寄り、仏壇の前に座って亡き師に長い報告を行なった。そして、あらためて先生の遺言を守り、北海道開拓計画の実行を誓った。
 勉三の後ろで、ミヨがそっと目頭を押さえている。その髪にはちらほら白いものが混じっていた。
 「貴方、勉三さんは貴方が託した夢に向かって逞しく着実に進んで行っているようですよ。ご心配なさらずに」
 ミヨは、東京を引き上げて故郷に帰って来た勉三が病気気味と聞き、ずいぶん心を痛めていた。が、勉三を間近に見て心底ホッとしていた。彼女は、勉三の目の奥に強く光る輝きを認め、深い安堵を覚えていた。
 「随分立派になって……。きっと主人も喜んでいることでしょう。私は貴方をずっと見守っていますからね」
 ミヨはそれ以上のことは何も言わなかった。
 その夜、勉三は三余土屋家の養子となって跡を継いでいた準次と酒を酌み交わし、農事について時を忘れて語り合ったことである。
 今や立派な百姓になった準次は、彼の手がける田作り・畑作り・養蚕について熱心に尋ねる勉三の真意を測りかねたが、文明開化の首府東京で大学生活を送ってきた勉三が、片田舎で農事に忙殺されていた自分の仕事・職分に真剣な興味を寄せてくれたことが、ひどく嬉しかった。
 こうして勉三の新しい生活が︱伊豆で製糸事業や各種興業を押し進める兄佐二平の片腕となって働く新しい生活が始まった。

  (4)

 「ゴォー、ゴォー」
 西洋式糸(いと)繰(くり)り機が耳を聾するばかりの回転音を響かせている。
 依田邸内に建設された最新式の糸繰り工場が動き始めたのは明治十年夏のことである。新式製糸工場に巨額の資本が投じられ、既に周辺農家も桑を植え、養蚕に転換を図っていた。郷土挙げての事業である。失敗する訳にはいかなかった。
 佐二平は新たに雇い入れた工場支配人と共に経営の先頭に立っていた。
 勉三に与えられた仕事は上州・常陸・信州・甲州一帯を訪れ、伊豆に適した養蚕の技術や飼育法、蚕種・桑樹種を学び、研究し、伊豆種の改良を進めることであった。
ところで、この伊豆の農山村で、本格的に養蚕と製糸業を興すよう最初に呼びかけたのは、近悳らを佐二平に紹介したあの足柄県 令柏木忠俊である。
 明治三年十月、新政府はフランスから技術者を招き、群馬に最新の設備を誇る富岡製糸場を建て、全国に生糸生産奨励を呼びかけた。これを受けた県令柏木は、当時伊豆南部の山奥で細々と自家消費用に行われていた養蚕・糸織りに目を付け、農家の副業として養蚕・製糸に取り組むよう訴えたのである。桑園の開拓にも援助を与え、群馬・福島からの蚕種導入を斡旋することも約束していた。しかし多くの農民は半信半疑で、なかなかこれに手を出そうとはしなかった。そんな中、一人佐二平だけがこの呼びかけに応え、「松崎や南伊豆を蚕糸の主要生産地にしよう」との決意を固めた。彼は三余先生の教えや伊助との約束を決して忘れてはいなかった。
 ―もしここが蚕糸の生産地になれば農家に現金収入が入り、同時に輸出によって国庫も潤うだろう。勿論失敗もあり得る。多くの私財を失うかも知れない。しかし「至誠をもって事に当たらば何ぞ成らざるを憂えんや」だ。三余先生が仰(おっしゃ)った通り、仮に失敗したとしても至誠を尽くして行なったことであれば何ら悔いることはない。
 佐二平のこの決断が伊豆松崎の養蚕・製糸業を興したのである。

 明治日本にとって、海外輸出貿易によって外貨を獲得することは至上命令であった。その最大の手段・輸出品こそ外国人に珍重された日本の良質な生糸である。第二次大戦後の日本の外貨獲得の中心も繊維であったが、明治初期に生糸が外貨獲得に占めていた比重は、戦後の繊維のそれとは比べられないほど大きいものがあった。まだ「遅れた東洋の一小国」でしかなかった日本がいち早く世界の先進国欧米に追い付く為には、あらゆる産業分野で欧米から新しい機械を購入し、専門家や教授方を雇い、技術を学び取らねばならず、いくら外貨があっても足りないのである。もし国内で外貨を稼ぐ輸出品が作れなければ、外国からの借財は増える一方となり、独立国家としての存立の基盤さえ危うくなりかねない。
 佐二平のこの挑戦は明治二十年になってようやく花開いた。伊豆・松崎製糸は富岡(群馬)・室山(三重)と並ぶ「日本三大製糸」の一つに数えられ、南伊豆の農家六千戸が蚕業に関わり、三千貫の繭を生産するに至った。しかもこの地で産出される繭は早場繭として相場形成に力を発揮した。品質の面でも米国・英国・伊国の博覧会で金牌・銀牌を獲得し、国際的にも高い評価を受けたのである。

 佐二平が故郷の工女や農民にいかに愛されていたか、松崎にはそのエピソードが幾つも残っている。
 工女の糸取り歌の一節には「大沢五十軒依田さんで光る依田さんなければ真の闇」と唄われ、佐二平が開いた大沢からバサラ峠を経て下田に至る街道は「嬉々(きき)街道」と呼ばれていた。後に女工哀史とうたわれる「機織(はたおり)工女(こうじょ)」となった娘たちに会いに来た親たちは、娘が工場で喜んで働く姿を見て大喜びであった。その上、帰りには土産品まで渡され、皆嬉々として帰りの街道を下って行った。これを見て、村人がこの街道を「嬉々街道」と名付けたというのである。
 また質素第一の佐二平は工女と同じ食堂で同じものを食べ、工女の訴えに耳を傾け、その待遇改善にも心を砕いた。さらに講演会などもよく開き、近くの寺の禅師や教会の牧師や学者の講話を聞かせ、時には自ら時局を語って聞かせた。後には、あのワッデル師を東京から招き、キリスト教や西洋の文化について聴かせてもいる。
 
 勉三は佐二平の最も良き理解者であり、助手であった。勉三は佐二平の始めた事業を成功させるために骨身を惜しまず懸命に働いた。そしてその傍ら、将来に向けた準備を怠らなかった。蚕業調査研究の為に地方に赴く時は、そんな勉三にとって、絶好の機会であった。各地の百姓衆と交流し、農作農事について意見を交わし、時には実地に教えを乞い、知識を蓄えるチャンスだったからである。
 掛川の友人からは、相馬藩士で二宮尊(そん)徳(とく)の弟子・助手であった富田高慶(たかよし)が著した『報徳記』の写本を借り受け、熱心に学んだ。荒廃した農村の復興を導いた二宮仕法には財政指導論とも言うべき側面と、開拓開墾事業指導論とも言うべき側面がある。勉三は後者の、中でも特にその農業哲学に関する言及を好んで読み返した。
 しかし、後に触れるが、彼が本格的に尊徳の教えを学び、実践するのは十勝に入殖した後のことである。

  (5)

 「ああ、よく来てくれた。私のような古物は洋々たる前途を目指して歩んでいる君のような青年に会うと心が奮いたてられ、元気が湧いてくるのだよ」
 保科近悳(ちかのり)は涙を流さんばかりに歓喜して勉三を迎え入れた。三年ぶりの再会であった。既に五十歳になろうとしていた彼の鬢(びん)はすっかり薄くなり、顎(あご)鬚(ひげ)にも白いものが混じり始めていた。
 明治十一年夏、上州への出張帰りに勉三が横浜の叔父鈴木真一・美遠子夫妻の家を訪ねると、宮司の職を失っていた近悳が偶々ここに身を寄せていた。
 当時の近悳は政府方に「西南戦争において西郷隆盛の謀反に与(くみ)せし疑いあり」とされ、都々古別神社宮司の職を解任され、不遇をかこっていたのである。
 確かに近悳は西郷隆盛と連絡交流を持っていた。明治三年冬の雲井事件で弟陽次郎が捕縛された際、当時鹿児島にいた隆盛に、近悳は陽次郎と会津藩士の助命嘆願書を送っている。間を取り持ったのは海舟である。同じ西郷姓の誼(よしみ)もあったのか、
 隆盛は「お申し遣(や)りの件は都合よく相運んでいる故ご安堵なされ」と、丁重な返事を寄せ、近悳を感激させた。
 結局陽次郎は刑死を免れはしたが十年の刑に処せられ、函館の獄に送られ、三年後に病死した。しかし、近悳は「賊軍会津藩士」に対して親切かつ丁重に対応してくれた隆盛に深い感謝と尊敬を抱かずにおれなかった。それ故に、隆盛が私学校の若者士族を率いて新政府に反乱を起こしたと聞いた時、「仇敵長州閥政府打倒の好機」と胸を躍らせたことは確かだった。
 とは言え、「余生は主君容保(かたもり)公の守護に捧げる」と決意していた身である。その主君の容保が、新政府の「旧会津藩士は今こそ天子様を奉じる政府軍に味方し、この戦争に出陣して大功を上げよ」との号令に同意している以上、それに逆らって迄出撃することはあり得なかった。
 ただこの頃、福島に来て神職見習いをしながら近悳から会津藩伝来の秘奥たる「御式内(おしきない)」(大東流合気柔術)を伝授してもらおうとしていた武田惣角(そうかく)が、西郷の意気に感じて鹿児島に下っていた。結局政府軍に会津藩士が多数参入していることを知り、やむなく引き下がらざるを得なかったのであるが、この惣角の西下が近悳嫌疑の因となったのであろう。
 嫌疑を受けた近悳は潔く宮司の職を辞し東京に戻り、神田の医科大病院に入院していた息子吉十郎有鄰(ゆうりん)の介護に当たっていた。
 有鄰は明治三年冬に函館を離れ、当時深川に住居していた近悳の元に身を寄せ、従兄弟の井深梶之助(かじすけ)(後の明治学院総理)と交流を深めながら英学に励んでいた。明治四年に上京して来たかつての養父沢辺琢磨(たくま)も援助を惜しまなかった。が、都会暮らしが合わなかったのか、二十歳の時、胸の病に冒されて、今や命が危ぶまれる程重い病状にあった。
 師近悳は職を失ったばかりか、さらに継嗣をも失わんとしていた。勉三の目に肩を落とした小柄な古武士近悳が一層小さく見えた。自分の心の奥にしまってあった密かな渡北計画を、この近悳にだけはそれとなく伝えておこう、勉三にはそう思われた。
 「先生、私は先生のお話に触発され、北海道原野の開拓に挑む決意を固め、密かにその準備を進めているところです。いずれ全ての計画を公にするつもりでおりますが、渡北する時が来ましたらその時はどうかまたお力添えください」
 近悳の顔が一瞬輝き、頬にさっと赤みがさした。
 「そうか。そんなことを…。勉三君ならきっとやり遂げることができるだろう。その時が来たら必ず一報を呉れたまえ。北方には知り合いも居る故、何か役に立つことがあるやも知れぬからのう」
 その夜、感激した近悳は筆を執ると一気に「館林幽囚(ゆうしゅう)之詩」を書にし、勉三に贈った。
 この詩は箱館五稜郭戦に敗れて館林藩お預けになった明治二年九月、死を覚悟した頼母近悳が、箱館の沢辺琢磨に預けて来た愛息吉十郎有鄰を想って詠ったものだ。
 その長詩の最後はこう結ばれている。

 請(こ)う看(み)よ人生は燈火の如きを
 百に満たざるの齢(よわい)半ばまさに傾かんとす
 ただ願わくば豚犬(とんけん)の少し事を成(な)さんことを
 君に託す他日成るやならざるや

 これを詠んだ日から既に九年が経とうとしている。その昔、北に置いて来た「豚犬」―即ち愛息吉十郎―も、今は病の床に伏し、明日をも知れぬ境遇にある。
 ―息子に託した夢をこれから北に向かうという勉三に託そう。
 それが書を贈る今の近悳の正直な気持ちであった。
 結局息子吉十郎有鄰は、この翌年の明治十二年八月、父の必死の介護も空しく神田医科大病院で息を引き取る。二十二歳の若さであった。
 期待の継嗣を失った近悳の落胆は計り知れないものがあった。吉十郎は会津戦争で一家自刃という非業の最期を遂げた保科一族の頼みの嫡子であった。生き残って新しい世に大きく羽ばたき、功を遂げ名を上げて欲しかった。それが近悳の唯一の願いであったのだ。
 明治十三年二月、隆盛に与したとの疑いの晴れた近悳は主君容保に従って日光に赴き、東照宮の禰宜(ねぎ)に就く。容保を支えるという念願がようやく叶ったのである。
 彼は日光からしばしば勉三に手紙を寄せ、勉三を励ました。最後の頼みの綱であった息子を失った父親にとって己の夢を継いでくれる勉三はわが子同然であり、心の支えであったに違いない。



【第6回目掲載 2023年8月】


    二部 邂逅篇

 

   第五章 ワッデル塾

 

  (1)

明治九年の正月明け勉三は慶應義塾退学の準備を始めた。

「退学届」の「退学理由記入欄」には「語学修業の為」と記した。語学とはもちろん英語のことである。

義塾の事務員はそれを見て、呆れてモノも言えないとばかりに勉三の顔をまじまじと覗き込んだ。当然と言えば当然であった。義塾は英語・英学、洋学のメッカであり、世間では「英語は義塾」が通り相場であった。その義塾を辞める理由が「語学(英語)修業のために」というのである。確かに「非常識にも程がある」と見られても仕方ない。

しかし、明確な使命に目覚めた勉三にとって、もはや英語の語学力を身につけることだけが必要であった。法学・化学・数学などの専門を学びながら英語を習得するという義塾流語学修業は不適当であり、無駄が多かった。

勉三は兄佐二平にも、義塾中退の理由を「英語習得に限って学習し、これを完全にマスターしたい故、新しい英語塾に移りたい」としか伝えなかった。兄もまた「何か心に期するものがあるのだろう」と、この常識からは外れた弟の決断を尊重した。一つの目標に向かって、無駄なくまっしぐらに突き進んで行く弟の性格をよく理解していたからである。

結局、勉三は明治九年一月末に慶應義塾を中途退学する。勉三の義塾在学は実質僅か一年と数ヶ月で終わった。

勉三が「語学修業の為に」と移った先は英国人牧師が経営する英語専門塾「ワッデル塾」で、既に義塾を退学する前から通学を始めていた。決めたら即行動、それが勉三流である。

英学ワッデル塾は芝増上寺裏の西久保葺手(ぶきて)町(現在の虎ノ門五丁目付近)に在った。義塾のある三田とは目と鼻の先である。ワッデルの塾舎は大きな日本風の平屋で、畳敷きのだだっ広い一部屋が礼拝堂兼教室になっていた。

ワッデル塾の先生アイルランド人ジョン・ブル・ヒュー・ワッデルは三十四、五歳の働き盛りの牧師であった。日本に渡って来てまだ一年半しか経っていなかったが、牧師にありがちな堅苦しい謹厳家とは異なり、実に大らかで、日本語をすぐにマスターし、日本人の習慣や宗教観をよく理解していた。何よりも下町庶民の伝道に熱心で、下町言葉を巧みに操り、オカミサン連中の集う井戸端会議にも顔を出して「主の道」を語るという変わり者であった。

 ワッデルは、勉三の「耶蘇(やそ)教にそれ程関心はないが、外国に渡り、外国の農業事情を学びたいので、ぜひ英語をマスターしたい」という極めて率直な申し出を笑って聞き入れた。実際その後も彼にバイブル教室や教会行事への参加を強制することがなかった。

勉三は、このワッデル塾と明治のキリスト教界周辺に身を置くことによって、生涯の友・同志となる二人の青年と運命的な邂逅を果たすことになる。

  

(2)

明治九(一八七六)年正月、松の内が過ぎて家々の門松が外され出した頃

 ワッデル塾のある生徒が、恐ろしく汚い身なりの痩せぎすの青年を塾に連れて来た。冬用の羽織はぼろぼろで、所々綿がはみ出し、襟元は(あか)で黒光りしていた。髭面で、断髪の頭は櫛が通りそうもないほどぼさぼさである。しかし本人はいささかも臆するところがなく、堂々たる押し出しで、いかにも豪放(ごうほう)磊落(らいらく)といった風情であった。ただその目の涼やかさがこの男の心根の美しさをよく物語っていた。

ワッデル先生は笑って応対した。

「ヒドク困ッタ状況ニアルコト、確カナヨウデスネ」

「はっはっは。まことにその通りで。このようなむさ苦しい仕度で、面目ない次第です。今わしは一銭も持っておらぬだけでなく、六十円もの大借金を抱え、その上今夜寝るところもなく、働くところもない有様でして…」

男の名は渡邉(わたなべ)(まさる)。勉三より一つ歳下の二十二歳。尾張藩槍術指南役の家に生まれ、その祖先は源頼光四天王の筆頭剛勇で知られた渡邉(つな)であるという。大江山の酒呑童子(しゅてんどうじ)退治や、京都の一条戻り橋において羅生門の鬼の腕を名刀「(ひげ)切りの太刀」で切り落としたという昔話に出て来る人物だ。勝はその第三十五代目に当たるという。元藩校の名古屋洋学校に学び、明治七年に上京、試験を受けて工部省設置の工部大学の汐留修技科電信技術生となった。卒業後は工部省に七年の奉公勤めが課せられた官費給費生で、学生には月給四円が支給されていた。

彼は英語語学力の不足を補うために英語塾に通っていたのだが、帰るのが面倒になるとそこに泊り込んでしまい、寮に帰らないことが多々あった。これを規則違反と教員に咎められた。しかもその上、休暇制度のあり方を巡って当局と大喧嘩を繰り広げてしまった。結局、退寮を余儀なくされただけでなく、ついには辞職・退学せざるを得なくなったのである。しかも「中退したから」と寮費・給費六十円の返還請求が回ってきた。更に給費がなくなったことを知った英語塾からも追い出されてしまった。進退極まった彼は、友人に伴われ、ワッデル塾に転がり込んで来たという訳である。

結局行き先のなかった勝は、その日からワッデル塾に寄宿することになり、翌日から先生の助手として英語教室の手伝いをすることになった。

 ―下町宣教師と言われるだけあって、ワッデル先生は本当に人情に篤い人だ。それにしてもおかしな男だが、憎めない人物だ。

勉三はこの薄汚い若者に何か惹かれるものを感じていた。

翌朝、義塾に向かう途中、英語塾を訪れた勉三は庭を勢いよく掃いていた青年から突然、大声で、「おはようございます」と挨拶された。

見慣れぬ顔であった。こざっぱりとした綿入れ羽織、真新しい袴と帯、綺麗に梳かれた髪と、(つや)やかに磨かれた顔……。

「はて、誰か?」とあらためて眺めると、それは昨日の薄汚い青年であった。勉三の驚いて声も出ない様子が余程おかしかったのか、彼は大口を開けて笑った。

「わしですよ、わし。それ、昨日の乞食学生の渡邉勝ですよ。はっはっは」

勉三はたちまち、全く飾り気のないこの男に魅了されてしまった。この渡邉勝という得難い友人を得たことが、勉三の義塾退学の時を早めたとも言える。

人と人との出会いは不思議なものである。人は一生の間に、何万何十万という人と出会っているはずである。しかしその中のごく僅かな人との間にだけ強い絆が生まれ、篤い友情が芽生えていく。そこには何らの強制もなく、ただ自由で自然な人間と人間との結びつきのみがある。お互いの心の底に存在する「あるもの」が強く惹き付け合い、一生を左右していくのであろう。

 お互いの心の底の「あるもの」それは同一のものであったり、お互いに補い合うものであったりし、そこから極めて個性的であると同時に必然的な人間と人間の結合友情が生まれていくのである。

義塾を正式に退()めた日の昼時、勉三は勝をいつも通っている飯屋に誘った。老人が一人で商っている気の置けない小さな飯屋で、食事も出し酒も飲ませてくれた。

「ところで、渡邉君、例の大借金とやらはどうしました?」

勉三が聞くと、勢いよく盃を(あお)っていた勝は、赤い顔をさらに赤くし、

「ワッデル先生は実に偉い人だ。俺が今日こうしてここにおられるのは先生のお陰だ。俺は生涯先生の弟子になることに決めたぞ」

と、一語一語に力を込めて言った。

彼は「いよいよとなったら屯田兵にでもなるつもりだった」と語り、「先生のお蔭でそんなことにならずに済み、本当に救われた」と、繰り返し感謝の言葉を口にした。彼の話によると、ワッデル先生は勝に宿舎を与えただけでなかった。彼の英語力を買って英学初心者に対する文法教授の職も与え、さらに僅かであったが手当を出してくれ、借金返済にも便宜を図ってくれたというのである。

熱血漢の勝は、聖書を読んだことがあったわけではないが、こうしたワッデル先生の人柄に惚れ込み、既にキリスト教の信者になったつもりでいた。

キリスト教信者というより、むしろワッデル教の信者と言った方が正鵠を射ている。


 第六章 故郷伊豆へ帰る

 

  (1)

ワッデル塾に入門したその年明治九年の夏あたりから勉三は体調不良に陥った。

医者の診立てでは脚気の気味があり、なおかつ胃弱だという。胃弱は持病のようなもので、それほど深刻というわけではなかった。しかし、この病気を切っ掛けに考え込むことが多くなった。

 学者になるわけでもなし、ここまで無理して英語修得に打ち込むだけの価値が果たしてあるのか?

そんな疑問が芽生えていた。

 いずれケプロンレポートは翻訳書が出る。語学にこだわることもあるまい。それに必ずしも米国にまで出かけて行く必要もないのではないか。開拓の現場は日本であり、蝦夷地なのだ。それにまず何よりも兄をはじめ依田一族の理解と協力を得、開拓団を支えるしっかりとした態勢を作ることの方が大事だ。それが出来上がらねば大がかりな開拓事業を始めることなど到底できまい。

勉三の脳裏には写真で見たアメリカ西部の広大な牧場風景が浮かんでいた。そしてそれはいつしか未だ見たことのない「北海道風景」に変わっていった。果てしなく広がる北の草原に無数の馬や牛が群れている……。それは、田舎の人が聞いたら誰しも「夢だ、妄想だ」と一笑に付すような途方もなく広い牧畜場であった。

 大きな開拓団を組まねばなるまい。膨大な費用・資金が必要になる。一族の、特に長兄の理解を得ることが何よりも必要だ。やはり故郷に帰るべきだ。

勉三が下した結論であった。

 

  (2)

明治九年九月、勉三は丸二年ほどの東京遊学に区切りをつけ、ワッデル塾も退め、故郷大沢村に帰って来た。

彼はこの帰省の旅に勝を誘い、箱根・堂ヶ島を巡った。もちろん費用は勉三持ちである。勉三は既に心に決めていた。いずれは彼に北海道開拓の話をし、同志となって共に開拓の汗を流してくれるよう頼みたいものだ、と。

 北海道開拓の尖兵屯田兵にでもなろうとした男である。北の開拓にも興味を持っているようだ。信仰者の彼には大事業を興すに必要な誠の心もある。それに何よりも熱血漢で胆力・気力も持っている。また長男ではあっても、既に家督は弟に譲っているとのことだ。自分と同じく至極身軽な身分だ。しっかりした準備と計画があればきっと同志になってくれるに違いない。

勉三はそう思っていた。だから、彼に依田家一族とその故里である大沢・松崎を見ておいてもらいたかったのである。そしてこの機会に彼を兄佐二平にも引き合わせておきたかったのだ。

勝は勉三の誘いに喜んで応じ、旅を存分に楽しんだ。大沢訪問で彼を何よりも驚かせたのは、築二百年になるという依田家母屋の圧倒的な重量感であった。庄屋造りのそれは重厚そのもので、どっしりとこの地に根ざしているかのようであった。

更に、大沢本家を中心とした依田一族の血族的結合と結束の厚さ、強さ、財力の大きさにも圧倒させられた。

彼は三日ほどの滞在の間に勉三を育てたバックグラウンドの何たるかを知り、勉三への信頼を一層深めた。

が、勉三が願った勝と兄佐二平との対面は叶わなかった。当時佐二平は県会でも実業界でも多くの任務を背負っていて、大沢を留守にすることが多かった。周囲に押され、あまり好きでもなかった県議という政治向きの公務にも就き、県内各地を飛び歩いていた。

こうした兄の多忙さは勉三にとっても予想外のことであった。特に勉三が驚いたのは、邸内の一角に新しく建てられたばかりだという大きな蚕室の存在であった。この三階建ての大蚕室の威容は、兄佐二平のこの事業に懸ける決意と情熱が並々ならぬものであることを隈なく物語っていた。

松崎村清水にも既に二十五人()り機械設備を据えた大きな製糸工場が建っていた。上州富岡で製糸技術を習得して来た妹ミサや従妹のリクら六人の子女が先生となって村の娘達にその技術を教えていて、本格的な操業開始の準備が進んでいた。さらに来年には依田邸内の大蚕室の南側に四十人繰の製糸工場を建設することが決まっていた。

勉三が佐二平と顔を合わせることができたのは、勝が東京へ引き上げてから数日後のことである。

「なんと、政府元勲を思わせる顔付きではないか」

母屋の囲炉裏の奥にどっかり座った兄の風貌は以前目にしていたそれとはすっかり変わり、威厳に満ちていた。きちんと梳かれた洋髪、手入れの行き届いた髭、慈愛と寛容に満ちた眼差し、鷹揚を示す口元、三十歳とは思えないほどの落ち着きと風格に圧倒される思いであった。

実際佐二平は既にこの頃、松崎一帯のというより南伊豆一帯の政界・産業界の重鎮となっていた。それは決して彼自らが望んだ地位ではなかった。むしろ彼は政治向きに関しては出来る限り距離を置きたいとさえ思っていた。しかし地域の村人・有力者が放っておかなかった。佐二平もまた「郷土の為に、世の為に人の為に誠心誠意その一身を捧げる」という三余精神の申し子であった。三余先生の教えを守らねばならないその思いが彼にそれらの地位や任務を引き受けさせていた。

 勉三が帰郷した明治九年の秋は、とりわけ忙しい盛りであった。

四月に足柄(あしがら)県は静岡県に合併され、足柄県の議員を務めていた佐二平は静岡県会議員になり、県令に見込まれて副議長職に就いていた。

さらに新政府が、「土地私有の承認、地券発行・土地売買の自由」「土地所有者に対する地価課税、税率一律三分の金納」を骨子とする地租改正を「明治九年末までに完了させよ」と布令した為、至る所で騒乱・一揆が起こっていた。伊豆でも例に漏れず大騒乱が起こり、佐二平はその収拾に追われていた。

伊豆では「三分」という税率もさることながら、大蔵当局の「伊豆古来の総石高十八万石を地租算定の基準とすべし」との訓令が大問題となっていた。

伊豆地域人民の代表として地租改正に関する事業調査監督の任を負っていた佐二平はきちんとした調査を行い、「伊豆の国の石高は天領・藩領・旗本領を合わせても十万石に過ぎない」ことを明らかにした。その上で、「このままでは膨大な地租の負担過重が生じる。地主・自作人だけでなく小作人もまた重税に苦しむことになる」と、伊豆四郡全土に(げき)を発し、一致結束を呼びかけ、抗議運動の先頭に立っていた。

佐二平は何度も上京し、政府に地租基準額の不当を訴え、算定の再改定を要求して交渉を重ねた。その結果、何とか算定石高は十三万石に減じられることになった。また全国的な反対運動の高まりもあり、税率も二分半に減じられた。

ようやくすべてが収まり、昨夜、勉三が待っている大沢村に帰って来たばかりであった。大仕事を終え、故郷の身内に囲まれ、やっと一息つくことができた佐二平は、いかにも美味そうに盃を口に運んだ。

「それにしても、近頃は外の仕事が忙しく、すっかり家を留守にしてしまい、家中のことは妻と伯父さんに任せきりになってしまった。特に伯父さんには村の用掛りや戸長の仕事まで引き受けてもらった上に、蚕糸会社の方も面倒を見てもらい、すっかり世話をかけることになってしまいましたな」

側近中の側近として、大沢本家の頭領たる佐二平を支えていた母方の伯父奈倉喜平は佐二平より十歳ばかり年上で、彼の良き相談相手であった。

「なーに、これしきのこと。とは言え、いよいよ製糸工場が廻りだしたらわしの手に余ることは確かだ。何か手を打たねばなるまい」

そう言いながら、伯父はそっと勉三の方に目をくれた。

佐二平は伯父が言わんとすることに気付きながらも、未だその行く末の見えていない弟にこう言いきかせた。

「勉三はまず体をしっかりと休ませ、体調を整え、その上でまた自分の行路を決めて進んでいけばよい。まだ先は長い。慌てることはあるまい」

そして話題を変えた。

「ところで東京から友人を案内して来たそうだが、どういう人物かね」

佐二平は勉三が勝の人となりについて熱心に語るのを聴きながら、弟が何か大きな目標に向かって突き進もうとしている気配を察し、「うん、うん」と満足げに頷いた。

勉三には、北海道移住開拓計画について、今ここで兄に話そうという気はなかった。佐二平と依田家は、今大事業に取り組まんとしている真っ最中である。他の事業が耳に入る余地はない。今はその時ではなかった。

 

  (3)

県議会が開かれるというので佐二平が再び村を出て行った日、勉三は熊堂山の頂に向かった。何か考え事をするとなると、やはりここが恰好の場所であった。

「こんなにも小さく、狭かったのか」

あの頃と同じ風景が広がっている。が、山頂から久しぶりに見下ろす故郷の風景は彼の目に驚くほど小さく、狭く映っていた。それは、彼が東京という大都会に住み、関東平野という広大な平野を目にしてきたということもあろう。がそれ以上に、彼の視野が広がり、明治日本という新しい国家の全体像が見えるようになり、北海道開拓という大目標が脳裏に刻まれていたからであった。

彼が今生きている世界は、以前と比べものにならない程に大きく広くなっていたのだ。

 狭い田んぼ、山裾に開かれた段々畑と、我が家のような地主ならまだしも、小作や小農は小さな耕作地に縛り付けられ、細々と生きていく外ない。日本の多くの農村風景は皆こうしたものだろう。広大な原野が広がる北海道ならば、全く新しい農村風景を作り出せるに違いない。なんとしても開拓をやり遂げたいものだ。

「ところで問題はこの話をいつどうやって兄に切り出すか、だ」

昔から勉三にとって長兄の佐二平は、あまりにも大きな存在であった。勉三との間には、七つもの歳の違いがあった。体格に雲泥の差があっただけでなく、知力にもかなりの差があった。兄弟間の対抗心があったわけではなく、比較するなどという気持ちは微塵もなかった。比較を超えたもっと大きな存在、言ってみれば「保護者」のような存在であった。かと言って「親代わり」というのでもない。確かに父母が相次いで亡くなり、二十歳にして兄は残された弟妹(ていまい)八人の親代わりになった。だが勉三にとっては、それ以前からこの兄は頼もしいが幾分近寄り難い〝大人(おとな)〟であり、かなり重たい存在であった。

 兄は賛成してくれるであろうか?

そんなことを考えながら、ふと眼下の那賀川に目をやると、一艘の舟が炭俵らしい荷物を山積みにしてゆっくりと下って行くのが見えた。

勉三は突然、兄にまつわる幼い頃の出来事を懐かしく思い出した。勉三はこの年上の長兄との間に、終生忘れることのできないある強烈な思い出を持っていた。

 

勉三が五歳になったばかりの夏のある日のこと

雨上がり後のお昼時であった。那賀川は川幅一杯に水が溢れ、うねるように波打っていた。家の前を流れる那賀川は昔から舟運に使われていた。四間半もある川舟に木材や薪や炭を載せて松崎の港まで運び、そこから江戸表に送り出す。普段は五、六十俵の炭しか積めないが、雨上がりには百俵近くは積み込む。港口まで一里半ほどの旅程である。いなせな船頭が川を下る舟の()(さき)に立ち、長い竿と船をみごとに操った。道行く人、野良の百姓衆はその鮮やかな竿(さお)(さば)きにしばし見惚れたものであった。

依田家でもかなり前から家の前に舟の発着場を設け、船頭・舟子を雇い、薪や木炭の輸送を始めていた。依田家はそれ程広い田畑を持っていたわけではないが、山地・山林だけはかなり持っていた。木材・木炭の収入はかなりのもので依田家が財を成すのを大いに助けていた。

五歳になったばかりの勉三は昼飯に出た舟子の留守を(うかが)い、彼らが舟に乗り込む時にするように船着場の板敷の上を勢いよく走り、繋いであった小舟にポンと飛び乗った。その拍子にどういうわけか、杭に引っ掛けてあった(とも)(づな)が外れ、勉三の乗った小舟はあっという間に流れの中に引き込まれてしまった。

あいにくの昼時、この大事に気づく者は誰一人いなかった。勉三は驚きと恐怖のあまり声を失い、小舟の真ん中に這いつくばったままであった。随分遠くまで流されたように思えたが、実際には三十間ほど流されただけである。

近づく(はし)(かげ)にふと顔を上げた彼の目に橋の上を通りかかる人影が飛び込んで来た。しかし、助けを呼ぶにも声が出ない。ただ必死で泣き叫んだが、その泣き声すら擦れ、声にならなかった。

と、その時、人影が橋の上から跳ねるように水中に身を躍らせた。素早く舳先近くに達すると舟べりをみ、見事な泳ぎで小舟を川岸へと導いた。

「もう大丈夫だ。心配することはない」

落ち着いた声でそう呼びかけた人影は常日頃頼りにしていた兄清二郎その人であった。

勉三は思わず兄の首にかじりついた。そしてこの時になって初めて着物の前が生温かく濡れていることに気づいた。

兄清二郎はこの件について一度たりとも人に語ることがなかった。以来、この日の出来事は勉三の心の奥底に深く刻み込まれ、兄への信頼、尊敬は絶対的なものとなった。その気持ちは二十三歳の大人になった現在でも全く変わっていない。

 

今も、眼下の那賀川はあの頃と変わることなく、狭い平地をクネクネと走り、荷物を載せた舟が上り下りしている。いずれこの舟には繭や生糸が積み込まれ、松崎港から横浜の港に送られ、欧米各国に輸出されて行くのであろう。

「やはり兄さんは凄い人だ。村人が皆頼りにするのも当然だ」

勉三はあらためて兄佐二平の存在の重さを痛感した。蝦夷地開拓事業については、その兄に何としても判って貰わねばならない。

初めはすぐに兄佐二平に計画を打ち明け、その上で一度北海道に渡り、現地事情を見に行くつもりだった。しかし佐二平と大沢家の現状を知った今はそう容易(たやす)く言い出せなくなっていた。

 兄は明らかに誰かの、出来ることならこの勉三の手助けを願っている。養蚕・製糸の事業をこれから本格的に軌道に乗せ、松崎一帯の大産業に発展させようとしているのだ。かつて三余塾で、伊助さんたちと共に「国と郷里の為に」という大いなる夢を抱いて蚕業に取り組んだこの勉三の助けを求めていないはずがない。にもかかわらず兄は、「ゆっくり休め。そしてあくまでも自分の道を進め」と言ってくれているのだ。

秋を迎えた伊豆の空はあくまで高く、大空はどこまでも澄み渡っていた。天を仰ぐ勉三の頭上で、あの頃よりも一回り大きくなった大器晩成のタブノキが、サヤサヤと風に鳴っていた。

「大器晩成すだ。慌てることはない。なすべきことをなし、着実に進むことだ」

勉三にはそんなふうに聞こえた。

「今は、兄の事業の手助けをしよう。そうすべきだ」

勉三はそう心に誓った。

 

勉三が熊堂山山頂で考えを廻らせた末に辿り着いた結論は、次のようなものだった。

 ―北海道開拓計画において最も重要になるのは資金問題である。兄や一族の理解と協力がなければ到底準備できるものではない。依田家の財政基盤を固める上で今回の養蚕・製糸の事業は極めて重要な意味を持っている。これを成功させることは開拓事業成功の第一歩となるであろう。

 またケプロンレポートが日本語に翻訳されて世に出てくるまで後二年もある。レポートにしっかり目を通した上で現地を訪れる方がより実りが深いものになるであろう。それにもう少し農業の知識を身につけ、経験を積んでおいた方が良さそうだ。しばらくの間兄の片腕になって働き、その間に北海道開拓の計画を練り上げ、適当な時期が来たら、その時にこそ兄に打ち明けよう、と。

 

勉三は熊堂山を下り、土屋に立ち寄り、仏壇の前に座って亡き師に長い報告を行なった。そして、あらためて先生の遺言を守り、北海道開拓計画の実行を誓った。

勉三の後ろで、ミヨがそっと目頭を押さえている。その髪にはちらほら白いものが混じっていた。

「貴方、勉三さんは貴方が託した夢に向かって逞しく着実に進んで行っているようですよ。ご心配なさらずに」

ミヨは、東京を引き上げて故郷に帰って来た勉三が病気気味と聞き、ずいぶん心を痛めていた。が、勉三を間近に見て心底ホッとしていた。彼女は、勉三の目の奥に強く光る輝きを認め、深い安堵を覚えていた。

「随分立派になって……。きっと主人も喜んでいることでしょう。私は貴方をずっと見守っていますからね」

ミヨはそれ以上のことは何も言わなかった。

その夜、勉三は三余土屋家の養子となって跡を継いでいた準次と酒を酌み交わし、農事について時を忘れて語り合ったことである。

今や立派な百姓になった準次は、彼の手がける田作り・畑作り・養蚕について熱心に尋ねる勉三の真意を測りかねたが、文明開化の首府東京で大学生活を送ってきた勉三が、片田舎で農事に忙殺されていた自分の仕事・職分に真剣な興味を寄せてくれたことが、ひどく嬉しかった。

こうして勉三の新しい生活が伊豆で製糸事業や各種興業を押し進める兄佐二平の片腕となって働く新しい生活が始まった。

 

  (4)

「ゴォー、ゴォー」

西洋式(いと)(くり)り機が耳を聾するばかりの回転音を響かせている。

依田邸内に建設された最新式の糸繰り工場が動き始めたのは明治十年夏のことである。新式製糸工場に巨額の資本が投じられ、既に周辺農家も桑を植え、養蚕に転換を図っていた。郷土挙げての事業である。失敗する訳にはいかなかった。

佐二平は新たに雇い入れた工場支配人と共に経営の先頭に立っていた。

勉三に与えられた仕事は上州・常陸・信州・甲州一帯を訪れ、伊豆に適した養蚕の技術や飼育法、蚕種・桑樹種を学び、研究し、伊豆種の改良を進めることであった。

ところで、この伊豆の農山村で、本格的に養蚕と製糸業を興すよう最初に呼びかけたのは、近悳らを佐二平に紹介したあの足柄県令柏木忠俊である。

明治三年十月、新政府はフランスから技術者を招き、群馬に最新の設備を誇る富岡製糸場を建て、全国に生糸生産奨励を呼びかけた。これを受けた県令柏木は、当時伊豆南部の山奥で細々と自家消費用に行われていた養蚕・糸織りに目を付け、農家の副業として養蚕・製糸に取り組むよう訴えたのである。桑園の開拓にも援助を与え、群馬・福島からの蚕種導入を斡旋することも約束していた。しかし多くの農民は半信半疑で、なかなかこれに手を出そうとはしなかった。そんな中、一人佐二平だけがこの呼びかけに応え、「松崎や南伊豆を蚕糸の主要生産地にしよう」との決意を固めた。彼は三余先生の教えや伊助との約束を決して忘れてはいなかった。

 もしここが蚕糸の生産地になれば農家に現金収入が入り、同時に輸出によって国庫も潤うだろう。勿論失敗もあり得る。多くの私財を失うかも知れない。しかし「至誠をもって事に当たらば何ぞ成らざるを憂えんや」だ。三余先生が(おっしゃ)った通り、仮に失敗したとしても至誠を尽くして行なったことであれば何ら悔いることはない。

佐二平のこの決断が伊豆松崎の養蚕・製糸業を興したのである。

 

明治日本にとって、海外輸出貿易によって外貨を獲得することは至上命令であった。その最大の手段・輸出品こそ外国人に珍重された日本の良質な生糸である。第二次大戦後の日本の外貨獲得の中心も繊維であったが、明治初期に生糸が外貨獲得に占めていた比重は、戦後の繊維のそれとは比べられないほど大きいものがあった。まだ「遅れた東洋の一小国」でしかなかった日本がいち早く世界の先進国欧米に追い付く為には、あらゆる産業分野で欧米から新しい機械を購入し、専門家や教授方を雇い、技術を学び取らねばならず、いくら外貨があっても足りないのである。もし国内で外貨を稼ぐ輸出品が作れなければ、外国からの借財は増える一方となり、独立国家としての存立の基盤さえ危うくなりかねない。

佐二平のこの挑戦は明治二十年になってようやく花開いた。伊豆・松崎製糸は富岡(群馬)・室山(三重)と並ぶ「日本三大製糸」の一つに数えられ、南伊豆の農家六千戸が蚕業に関わり、三千貫の繭を生産するに至った。しかもこの地で産出される繭は早場繭として相場形成に力を発揮した。品質の面でも米国・英国・伊国の博覧会で金牌・銀牌を獲得し、国際的にも高い評価を受けたのである。

 

佐二平が故郷の工女や農民にいかに愛されていたか、松崎にはそのエピソードが幾つも残っている。

工女の糸取り歌の一節には「大沢五十軒依田さんで光る依田さんなければ真の闇」と唄われ、佐二平が開いた大沢からバサラ峠を経て下田に至る街道は「嬉々(きき)街道」と呼ばれていた。後に女工哀史とうたわれる「機織(はたおり)工女(こうじょ)」となった娘たちに会いに来た親たちは、娘が工場で喜んで働く姿を見て大喜びであった。その上、帰りには土産品まで渡され、皆嬉々として帰りの街道を下って行った。これを見て、村人がこの街道を「嬉々街道」と名付けたというのである。

また質素第一の佐二平は工女と同じ食堂で同じものを食べ、工女の訴えに耳を傾け、その待遇改善にも心を砕いた。さらに講演会などもよく開き、近くの寺の禅師や教会の牧師や学者の講話を聞かせ、時には自ら時局を語って聞かせた。後には、あのワッデル師を東京から招き、キリスト教や西洋の文化について聴かせてもいる。

 

勉三は佐二平の最も良き理解者であり、助手であった。勉三は佐二平の始めた事業を成功させるために骨身を惜しまず懸命に働いた。そしてその傍ら、将来に向けた準備を怠らなかった。蚕業調査研究の為に地方に赴く時は、そんな勉三にとって、絶好の機会であった。各地の百姓衆と交流し、農作農事について意見を交わし、時には実地に教えを乞い、知識を蓄えるチャンスだったからである。

掛川の友人からは、相馬藩士で二宮(そん)(とく)の弟子・助手であった富田高慶(たかよし)が著した『報徳記』の写本を借り受け、熱心に学んだ。荒廃した農村の復興を導いた二宮仕法には財政指導論とも言うべき側面と、開拓開墾事業指導論とも言うべき側面がある。勉三は後者の、中でも特にその農業哲学に関する言及を好んで読み返した。

しかし、後に触れるが、彼が本格的に尊徳の教えを学び、実践するのは十勝に入殖した後のことである。

 

  (5)

「ああ、よく来てくれた。私のような古物は洋々たる前途を目指して歩んでいる君のような青年に会うと心が奮いたてられ、元気が湧いてくるのだよ」

保科近悳(ちかのり)は涙を流さんばかりに歓喜して勉三を迎え入れた。三年ぶりの再会であった。既に五十歳になろうとしていた彼の(びん)はすっかり薄くなり、(あご)(ひげ)にも白いものが混じり始めていた。

明治十一年夏、上州への出張帰りに勉三が横浜の叔父鈴木真一・美遠子夫妻の家を訪ねると、宮司の職を失っていた近悳が偶々ここに身を寄せていた。

当時の近悳は政府方に「西南戦争において西郷隆盛の謀反に(くみ)せし疑いあり」とされ、都々古別神社宮司の職を解任され、不遇をかこっていたのである。

確かに近悳は西郷隆盛と連絡交流を持っていた。明治三年冬の雲井事件で弟陽次郎が捕縛された際、当時鹿児島にいた隆盛に、近悳は陽次郎と会津藩士の助命嘆願書を送っている。間を取り持ったのは海舟である。同じ西郷姓の(よしみ)もあったのか、

 隆盛は「お申し()りの件は都合よく相運んでいる故ご安堵なされ」と、丁重な返事を寄せ、近悳を感激させた。

結局陽次郎は刑死を免れはしたが十年の刑に処せられ、函館の獄に送られ、三年後に病死した。しかし、近悳は「賊軍会津藩士」に対して親切かつ丁重に対応してくれた隆盛に深い感謝と尊敬を抱かずにおれなかった。それ故に、隆盛が私学校の若者士族を率いて新政府に反乱を起こしたと聞いた時、「仇敵長州閥政府打倒の好機」と胸を躍らせたことは確かだった。

とは言え、「余生は主君容保(かたもり)公の守護に捧げる」と決意していた身である。その主君の容保が、新政府の「旧会津藩士は今こそ天子様を奉じる政府軍に味方し、この戦争に出陣して大功を上げよ」との号令に同意している以上、それに逆らって迄出撃することはあり得なかった。

ただこの頃、福島に来て神職見習いをしながら近悳から会津藩伝来の秘奥たる「()(しき)(ない)」(大東流合気柔術)を伝授してもらおうとしていた武田(そう)(かく)が、西郷の意気に感じて鹿児島に下っていた。結局政府軍に会津藩士が多数参入していることを知り、やむなく引き下がらざるを得なかったのであるが、この惣角の西下が近悳嫌疑の因となったのであろう。

嫌疑を受けた近悳は潔く宮司の職を辞し東京に戻り、神田の医科大病院に入院していた息子吉十郎有鄰(ゆうりん)の介護に当たっていた。

有鄰は明治三年冬に函館を離れ、当時深川に住居していた近悳の元に身を寄せ、従兄弟の井深(かじ)()(すけ)(後の明治学院総理)と交流を深めながら英学に励んでいた。明治四年に上京して来たかつての養父沢辺琢磨(たくま)も援助を惜しまなかった。が、都会暮らしが合わなかったのか、二十歳の時、胸の病に冒されて、今や命が危ぶまれる程重い病状にあった。

師近悳は職を失ったばかりか、さらに継嗣をも失わんとしていた。勉三の目に肩を落とした小柄な古武士近悳が一層小さく見えた。自分の心の奥にしまってあった密かな渡北計画を、この近悳にだけはそれとなく伝えておこう勉三にはそう思われた。

「先生、私は先生のお話に触発され、北海道原野の開拓に挑む決意を固め、密かにその準備を進めているところです。いずれ全ての計画を公にするつもりでおりますが、渡北する時が来ましたらその時はどうかまたお力添えください」

近悳の顔が一瞬輝き、頬にさっと赤みがさした。

「そうか。そんなことを…。勉三君ならきっとやり遂げることができるだろう。その時が来たら必ず一報を呉れたまえ。北方には知り合いも居る故、何か役に立つことがあるやも知れぬからのう」

その夜、感激した近悳は筆を執ると一気に「館林幽囚(ゆうしゅう)之詩」を書にし、勉三に贈った。

この詩は箱館五稜郭戦に敗れて館林藩お預けになった明治二年九月、死を覚悟した頼母近悳が、箱館の沢辺琢磨に預けて来た愛息吉十郎有鄰を想って詠ったものだ。

その長詩の最後はこう結ばれている。

 

 ()()よ人生は燈火の如きを

 百に満たざるの(よわい)半ばまさに傾かんとす

 ただ願わくば(とん)(けん)の少し事を()さんことを

 君に託す他日成るやならざるや

 

これを詠んだ日から既に九年が経とうとしている。その昔、北に置いて来た「豚犬」即ち愛息吉十郎も、今は病の床に伏し、明日をも知れぬ境遇にある。

 息子に託した夢をこれから北に向かうという勉三に託そう。

それが書を贈る今の近悳の正直な気持ちであった。

結局息子吉十郎有鄰は、この翌年の明治十二年八月、父の必死の介護も空しく神田医科大病院で息を引き取る。二十二歳の若さであった。

期待の継嗣を失った近悳の落胆は計り知れないものがあった。吉十郎は会津戦争で一家自刃という非業の最期を遂げた保科一族の頼みの嫡子であった。生き残って新しい世に大きく羽ばたき、功を遂げ名を上げて欲しかった。それが近悳の唯一の願いであったのだ。

明治十三年二月、隆盛に与したとの疑いの晴れた近悳は主君容保に従って日光に赴き、東照宮の禰宜(ねぎ)に就く。容保を支えるという念願がようやく叶ったのである。

彼は日光からしばしば勉三に手紙を寄せ、勉三を励ました。最後の頼みの綱であった息子を失った父親にとって己の夢を継いでくれる勉三はわが子同然であり、心の支えであったに違いない。



【第5回目掲載 2023年7月】 



 第四章 義塾とケプロン報文

 

  (1)

明治七年八月、勉三は念願の慶應義塾に入学を果たした。それから既に半年余が経っている。

「ここで自分の果たすべき使命を(つか)むことができるのか

勉三は義塾での勉学に少し戸惑いを感じるようになっていた。

義塾はあの芝新銭座から三田(みた)に移り、「コーポレーション(共同結社あるいは現代の公益法人)慶應義塾」となっていて、今や英語・洋学のメッカとして隆盛を極めていた。

明治四年の三田移転当時、大学十六校のうち百名を超えるものは僅か四校に過ぎず、その四校のうち他は学生数が百五十に満たないのに、義塾だけは三百二十余名を数えていた。今はその頃より学生数が増えている。さらに、勉三が入学した年には年少者の入学急増に応ずるべく、幼稚舎の設立準備が始まっていた。

『西洋事情』と『学問のすすめ』等々の出版によって「社頭(しゃとう)福沢諭吉」の名前はますます有名になり、新政府内にも多大な影響を及ぼすようになっていた。例えば「文部省は竹橋に在るが、文部卿(文部大臣)は三田に在る」というのが当時の専らの世評であった。

勉三の目にも、義塾の学生が皆昂然たる気分を漲らせて銀座界隈を闊歩する姿が、否応なく飛び込んで来た。

勉三はこの頃、「自分の田舎者風はかなりのもののようだ」「自分の生き方は古臭く、時代遅れなのか?」と考え込むことがしばしばあった。

 福沢先生は明治四年の「廃藩置県」の断行を随分高く評価されておられたが、それと「地租改正」とで「封建門閥制度の撤廃」はさらに一歩深まり、世の中が急に変わり始めたことは確かだ。全国津々浦々に「新しい時代」が到来し、当然人の気分も変わって来たようだ。この前上京して来た時には、「明治を反対から読めば〝(おさ)まる(めい)〟」との戯れ句が流行(はや)っていたのに、「散切り頭を叩いて見れば文明開化の音がする」というのが今時の流行り文句だ。自分だって、今やこうして散切り頭で自由を謳歌しているのだが…。

「しかし、これで良いのか?」

勉三のこの疑問は決して故のないものではなかった。

その頃よく世間で聞かれる言葉があった。「立身出世」という言葉である。この義塾にも、「国の為は()ることながら、己が家族と家郷の為に身を立て名をあげん」との野心を抱く青年たちが全国各地から続々と集まって来ていた。「国の為」と口にすることがあっても、実はそれが「私と一家の為」であることが多く、彼らの間に「成績順番」を争う激烈な「私的競争」が生まれつつあった。

塾生が年三回もらう「勤惰(きんだ)表」には全塾生の出欠席数と成績席順が公表されており、誰もがその中身を見ることができた。もちろんこの時代の成績争いは今日のような陰湿なものではなく、もっと大らかなものではあった。がとにかく、有能の青年はこぞって立身出世のために学業成績競争に(しのぎ)をけずり始めていたのである。それは互いに切磋琢磨して学の深浅を競い合った三余塾のふうとは明らかに違っていた。

叔父真一がかつて語った言葉が思い起こされた。「日本人は文明開化には光の部分もあれば影の部分もあるのだということを、よく知っておかねばならないのだ」という言葉を。

そんなある日、勉三は寄宿先を共にしていた信州松本藩士の家に生まれた友人長野三郎と語り合う機会があった。勉三より三歳ほど年下の彼は義塾で英学を学び、将来は通辞(通訳)になりたいという夢を持っていた。

話題が社頭福沢の『学問のすすめ』に触れた時のことである。

「依田さんは先生のこの著作について、どのような感想をお持ちですか?」

と、少し笑いながら尋ねて来た。

「私が一番好きな文言はやはり、次の一文ですね」

勉三はそう言って、冒頭の一文を暗誦して見せた。

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと言えり。されば天より人を生ずるには万人は万人皆同じ位にして、生まれながら貴賎上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの物を(たすけ)り、()って衣食住の用を達し、自由自在互いに人の妨げをなさずして各安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり」

長野は、「やはり」とばかりに深く頷き、「いかにも依田さんらしい」と、笑った。

「それではあまりにも田舎風と言うか……いえ、素朴というか、とにかく今風ではありませんね。僕が一番好きな所は、依田さんが暗誦された一文の後に続く次の文言です」

そう言うと、彼は勉三に(なら)って『学問のすすめ』の一節を暗誦して見せた。

「されども今広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるは何ぞや。その次第(はなは)だ明なり。実語教に、人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なりとあり。されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとに(より)て出来るものなり。…人は生まれながらにして貴賎貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事を良く知る者は貴人となり、富人となり、無学なる者は貧人となり、下人となるなり」

彼は「どうです」と言わんばかりの顔を、苦笑いする勉三に向けた。

その日、長野が勉三に力説したのはこういうことだった。

「確かに、明治の御世は徳川様のような時代ではなくなり、もはや門閥一辺倒の時代ではなくなりました。自分のような身分の低い士族の息子でも、こうして大学で昔の家老・奉行の子弟達と成績を争うことが出来る。自由平等とはこのことです。一方で、今や学業の成績次第で立身出世に大きな差が生まれようとしています。しかし、これは文明開化の世においては当然のことであり、むしろ喜ぶべきことです。自分のような維新に功のない藩の出身者には薩長閥に関わる縁故や引きがあるわけでなし、実力、つまりは学歴と学問を武器にして世を渡り、立身出世を図っていく他に道がないのです」

勉三は敢えて反論はしなかった。別に非難すべきことでもない。社頭福沢の、慶應義塾の、というより今日の世の中全体の求めるところでもあったからだ。

しかし、一人になった勉三は心中冷たい隙間風が吹くような、言いようのない侘しさを覚えていた。

「三余先生も学問の大切さを説かれた。しかし、それは決して立身出世のため、己の利のためではないと厳しく諭された。国のため、人民と世の中のために、それが学問をする本当の道だ、と。それが古いと言うのか?そんなことはない。断じてない!」

勉三は、三余先生に対する自分の強い敬慕の気持ちを改めて噛み締めていた。

そしてふと、伊豆の故里で三余先生の教えを守り、郷土の発展のために私財を投じて養蚕業の育成に取り組んでいる兄のことを懐かしく思い出した。佐二平は、三余先生が伊助たちに託した夢を自ら引き受け、黙々とその実現に向けて奮闘していた。

 聞くところによると、兄は近々松崎村に製糸工場を建設し、試験的に操業を開始しようとしているらしい。その操業に向けて、妹のミチや塗り屋の従妹リクなど村の五人の娘が遠い上州群馬にある官営富岡製糸工場に行き、二ヶ年勤めて糸繰りの技術を習得し、今では工女に応募してきた村の娘達に一所懸命それを教えているという。妹やリクや村の娘たちも、皆郷土の為に必死に尽くしているのだ。何と健気なことであろうか。いったい田舎者のどこが古く、田舎風のどこが悪いと言うのだ!

「自分は三余先生の徒だ」、勉三は改めてそう思った。

勉三が「これで良いのだろうか?」と自分の義塾生活に疑問を抱くに至ったにはもう一つ別の理由もあった。

勉三の脳裏には常に農としての生き方があり、農と郷土に根ざした実業への志向があった。勉三にとっての実業とは農業のことであり、農業に基礎を置いた実業のことであった。それ以外のものではあり得なかった。その意味において、勉三が求めていた実学としての洋学と義塾のそれとは明らかに食い違いがあった。

福沢の義塾も実業と実学を重んじていた。が、その目指したものはあくまでも「欧米的実業」であった。それ故に、数理教育、即ち数学・物理・化学に力点がおかれ、その方針はまた歴史・経済・倫理・法律にも及んだ。更に明治六年からは医学所が設けられ、医学教育にも力が注がれた。そして、これら全ての学課に英文原書指導が持ち込まれ、専門課程学習のなかで英語修得がなされるようになっていた。全ては西洋的文明社会に追いつくことがその目的であった。勉三は英語修得を最大の目的としていたが、農学とは違う学課の原書からそれを学ばねばならないというのは実に不本意なことであった。

更に、福沢は実学の他に修身教育に力を入れたが、この点でも勉三は戸惑いを感じないわけにはいかなかった。義塾の修身教育はもちろん西洋流のそれであって、儒学のそれではない。

「東洋の儒教主義と西洋の文明主義と比較して見るに、東洋になきものは有形において数理学と、無形において独立心と、この二点である」というのが福沢の主張で、西洋流の文明主義を若者に信じせしめるためには「(ふる)(くさ)れた漢説」を「後進少年生の脳中」から叩き出さねばならないとし、口を極めて儒学・漢学を非難攻撃したのである。

 勉三が入学した翌年の明治八年は演説館が完成した年で、これより本格的な演説会がもたれるようになった。福沢は演説会・講演会・懇談会などあらゆる機会を捉えて学生に日本文明の遅れを指摘し、儒学・漢学の(へい)を説き、独立心と独立精神涵養の重要性を繰り返し説いた。

これもまた儒学者たる三余先生を師と仰いで来た勉三にとって、ひどく不本意なことではあった。

福沢には確かに儒学・漢学の弊害を説くべき理由があった。江戸封建社会の下級武士の子弟として育った彼にとって、実力もなく人格的にも低劣な上役に対して、父親や自分が必要以上に頭を低くして暮らさねばならないことが、何よりも屈辱で、憤懣に耐えないことであったのだ。生まれつきの地位や身分だけで全ての上下関係が決するという「門閥身分制度こそ親の仇」というのは彼自身の屈辱の体験から出た言葉だ。彼の言う「一身の独立」とはまさにこうした非合理的で封建的な縛りからの「自由」、身分違えからの「平等」を指していた。

そんな福沢にとって「身分秩序」を重んじる儒学・漢学こそ「門閥身分制度」を守護する元凶としか思えなかったのは当然である。それ故の「儒学・漢学は親の仇」であったのだ。しかも福沢は儒学・漢学にも深く通じていた。それだけにその批判の言葉は要を得た容赦のないもので、いささか勉三を苦しめた。

三余先生が勉三たちに教えた儒学は、福沢が批判の刃を振るった儒学とは、少し趣が違っている。三余も封建的身分秩序たる「士農の差別」に怒り、「万民平等」を求めた。しかし三余は儒学・漢学に潜んでいる「人の上に立つ者、あるいは頭領として学ぶべき哲学」を掬い出し、これを勉三ら若き門下生に伝えたのだ。それは「士の道」として完成されてきたもので、「私を滅して義と正のために尽くす」という「至誠の哲学」ともいうべきものであった。三余はそれを農に生きる者も学ぶべき哲理である、としたのである。

勉三の目には、福沢と義塾の教える「一身の独立」が「一国の独立」に結びつくとしても、一面「(わたくし)(ひと)りだけの利」を求めていきかねない危うさが見えていた。

 勉三が福沢と義塾から学んだものは決して少なくはない。特に福沢が「薩長藩閥政治」を嫌い、新政府の横柄・腐敗・堕落を憎み、これを激しく非難し、独立独歩を守り、「官」と明確に距離を置き、あくまでも「民」に徹するという態度には好感が持てた。それ故に、田舎で勉三を「官」の文部省役人に推薦する動きが生まれた時も、断固としてこれを退けたのである。

こうして、勉三の義塾における学生生活は一年あまりで早くも煩悶に直面しつつあった。

そんな勉三に決定的な転機が訪れる。

 

  (2)

「運命の日」は突如やって来た。それも全く思いがけない形で。明治八年夏、ちょうど義塾に入学して一年目、それ程親しいという仲でもない友人と昼食を共にしていた時のことである。その友人が、ふと、こんな話をした。

「先日ある英文小冊子を読む機会があったのだが、その記事によると、北海道というところは地味がすこぶる肥えた土地だそうで、近頃開拓使に雇われた米国人某氏が北海道の測量をするために山野を歩き巡った際、思わずペンを投げ捨て『日本人はこんなにも豊穣(ほうじょう)肥沃(ひよく)の土地をどうして荒れるがままに任せておくのか!』と嘆いたというのだ。本当に肥沃の良土か否か、実際に調べ、証明してみる必要がありそうだ、と筆者は結んでいたがね」

「なに、それは本当のことか?それはなんという冊子だ?」

勉三は思わず弁当の箸を止め、大声で叫んでいた。

突然、全く突然、ある閃きが勉三を襲った。

「そうだ、蝦夷地、北海道だ! この豊饒肥沃の大地こそが私の生きる場所なのだ!」

天上を仰ぐ勉三の目に、三余先生のあの茫洋たる温顔と、保科近悳のあの哀愁にみちた古武士然たる顔が彷彿と浮かんだ。

「これこそ天の啓示というものだ!」

かつて勤申学舎時代に近悳に見せてもらった蝦夷地北海道の地図が、鮮やかに勉三の脳裏に浮かんできた。

勉三のあまりにも急激な変化と想像を超えた反応に驚く友人から、その小冊子が義塾の書籍庫(しょせきこ)(図書館)にあるはずと聞いた勉三は飛び上がるようにして走り出した。

友人が読んだという小冊子はすぐに見つかった。それはケプロン氏の帰国報告記のようなものを載せていた。

その日、勉三が辞書を片手に読み進めた数ページのその記事は、開拓使が明治八年の三月に出したケプロン著『レポート・アンド・オフィシャルレター・ツゥー・ザ・カイタクシ』の引用文―英原文混じりの邦訳文に他ならなかった。

北海道開拓使長官黒田清隆の招きに応じ、米国農務長官ホーレス・ケプロンと測量・地質・鉱物・道路等の専門家三人からなる調査団が日本にやって来たのは明治四年六月である。三年間滞在し、膨大な報告書『ケプロン報文』をまとめ上げ、この明治八年五月に帰国したばかりであった。その記事には勉三の胸中を鷲づかみにするような驚きの言葉が並んでいた。

ケプロン氏曰く

「本島北海道の広大たること、合衆国西部の未開地に等しく、この地は富の無限の宝庫であって、開拓するに必要とする物資全てが備わっている。このように豊饒で肥沃の原野を捨てて顧みないというのは、まさに政府の怠慢と言っても過言ではない」

勉三は唸った。

調査結果が真実ならば、まさに政府の怠慢ではないか。国にとっての大きな損失ではないか。大沢・松崎の耕地は狭く、百姓がどれだけ苦労していることか。おそらく日本各地の百姓も同じ苦労を味わっているに違いない。それに現今の食料不足と米価の値上がりぐあいはどうだ。何としてもこの北の原野の開拓をやり遂げるべきであろう。

またケプロン氏曰く

「思うに、この地に本当に信頼のおける人民を居住させようとするなら、強制によらず、人々を随意に移住させるのが一番よいであろう。自分あるいは国の為にこの地を開拓し、その土地を守る者があれば、彼らこそ国家の宝である。それ故、もし外国がこの地を侵略するならばその国にとって必ず後世の悔いとなるに違いない。わがケプロン調査隊のような探検活動は今まで先例がなく、おそらく日本国民にとって一大先駆となるであろう」

勉三は驚いた。

北の原野開拓は日本の農民・人民に新天地をもたらし、外国、おそらくはロシアが国を侵すのを阻むことになるということか。まさに開拓者は国の宝だ。やりがいのある大事業ではないか。

更にケプロン氏曰く

「ここ三ヶ年の実測と、ここの気候に関する我々の諸調査は、この島が荒れた寒い痩せ地であるといったような妄説を完全に反駁し尽くしている。…加えるにこの島には九年間の天気現象の実測記録がある。これによっても、この島の気候は世界中の同緯度である他国の北方よりも温和であることを実証している。…今地球上で人民の最も緻密な箇所に二本の横線を引けば、下線はこの島の最南緯線よりそれ程南に出ることはない。そして上線はこの島の最北端よりなお十五度北にある。他のことはさておいて、この一事をみてもその気候が世界中の同緯度に在る他の国と大きく異なっているということなど絶対にあり得ない」

勉三は目を瞠った。

北海道は未開酷寒の地だという先入感と偏見がいかに日本人の目を盲目にしているという事か。世界を知り、そして日本国を知り、決して井の中の蛙であってはならぬ、ということか。確か福沢先生はそうおっしゃられたはずだ。その通りではないか。

更にまたケプロン氏曰く

「この島は風土的にも物産的にも良好豊富であり、これに加えて合衆国移民のような豪気の人民をもってすれば、この島の開拓は決して難事とは言えない。内地温和の地に成長した人は簡単に寒地への移転を肯定できないであろうから、徐々に誘導し、その寒地で生活することは安楽であるのみでなく、清浄で美味い空気を吸い、併せて食料を変えれば、身体強壮で精神活発となり、益々寒気に耐えることができることを報せるべきである」

 勉三は深く頷いた。

 豪気の人民、すばらしい言葉だ。その昔伊豆の荒れた山野を開拓して田畑を拓いてきたわが家の「辛酸を楽しむ」の家訓と相通ずるものがあるではないか。寒冷寒地をどうして恐れようぞ。

また更にケプロン氏曰く

「道路なるものは国の血脈である。この脈絡がないと木偶(でく)の如くさっぱり動けないことになる。…私はこの道路の件こそが北海道開拓における使庁の緊要にして最も急務の事業であると考えるものである」

勉三は感嘆した。

ケプロン氏を招いてここまで北海道に関する調査活動を行なったということは、国にもそれだけの覚悟と計画があるということであろう。官民一体新しい政府だからこそそれが可能なはずだ。もし福沢先生が指弾する、政権を私するのみの無能の政治家・役人ばかりがはびこり、北海道すら開発できないのであれば、国は滅びてしまうであろう。開拓使官庁もそれ程に愚かではあるまい。

更にまたケプロン氏曰く

「内地および北地の両所に農業試験所を開き、欧米で食料に充てている諸品種を試植し、良種の馬・牛・羊・豚を輸入し、更に良巧の農具機械を購入し、その用法を日本人に教授すべきである」

勉三はここでも深く頷いた。

これだ。洋式農業から学ぶべきは広大な北海道の開拓・耕作に関する農法だ。やはり洋学は必要だ。何としても英学をものにしなければならない。

数時間後、勉三は非常な興奮を隠せないままに義塾の書籍庫を出た。辺りは既に夕暮れて西の空が赤く染まり始めていた。帰りを急ぐ烏の群れが木々に囲まれた義塾の上空を賑やかに飛行している。そんな空を仰いでいると、故郷伊豆松崎の風景が、三余塾で学んだ日々の思い出が、次々と脳裏に蘇って来た。

九年前のあの熊堂山山頂の光景がつい先日のことのように懐かしく思い出された。あの日、青い海が松崎港の向こうに遠く広がっていた。ミヨ夫人が伝えてくれた三余先生の形見の言葉が心に熱く響いていた。自らに課せられた使命とは具体的には何なのか、それを掴む日がきっとくるはずだ。そう自分に何度も言い聞かせていた。

そして、勉三は伊豆謹申学舎(きんしんがくしゃ)に学んでいた頃、叔父真一と招かれた酒宴で、近悳が北海道に強い関心を持っていて、「新政府に招かれてやって来た外国人が蝦夷地を調べている」と語ったことをふと思い出し、あらためて近悳との巡り合いの不思議さに驚きを禁じ得なかった。

「まさか保科先生からお聞きした話が今日に繋がっていようとは、何という奇遇であろうか。しかしまさに蝦夷地北海道の開拓だ。農としての自分が果たすべき使命はこれだ。祖国と人民に尽くすべき一生の仕事とはこれだ。今ようやく自分は新しい人生のスタートラインに立つことができたのだ」

そう思うと、身が震えた。

「こうなったら、何としてもケプロン報文の全文をぜひ読んで見たいものだ」

 義塾で巡り合った「ケプロン報文」こそ、勉三が長年追い求めて来た問いに対する回答であり、一生を導く道標であった。

勉三は、早速、芝増上寺の境内にあったいかめしい御殿屋敷風の北海道開拓使出張所の外事課を訪れた。無名の一介の学生に対する役所の対応は現代のそれとさほど変わらない。

 係役人のやや侮蔑的な笑いを浴びながら手にしたその分厚い『ケプロンレポート』は、専門用語の並ぶかなり難解な英文書であり、読みこなすには相当の英語力を必要とするものだった。

 三年か四年後に翻訳本が出るからそれを読めば良いではないか、というのが外事課役人の態度であった。実際問題として、当時の勉三の語学力をもってしてはそれを待つ他なかったのだ。

  

【第4回目掲載 2023年6月】 


 第三章 新旧交錯

  

  (1)

勉三が松崎港を船出し、亡き母の弟である写真師鈴木真一(しんいち)の待つ神奈川横浜の港に降り立ったのは、明治三年の春、十八歳の時のことである。今回の旅の目的は「維新後の横浜や東京の様子見」にあった。維新直後の情勢は混沌としていて、到底上京して学問に打ち込むどころの話ではなさそうであった。明治二年が終わっても、新首府・東京が落ち着いたという話はついぞ伝わって来ない。そこで佐二平は一度勉三を様子見に行かせ、その後に勉三の遊学時期について相談する、ということにしたのである。もちろん兄佐二平は早くから勉三を東京遊学に出すと決めていた。勉三もまた全てにおいて佐二平の指図に従って身の処理を図ることを当然と考えていた。

長兄佐二平は、十七歳で三余塾を()え、自邸内に大沢塾を開いた後、これを人に任せ、三年の約束で江戸表にあった大沢村地頭の旗本前田氏の役宅へ勤めに入った。

が、文久三年十月に母ブンが亡くなり、翌々年の慶應元年一月には父善右衛門も亡くなった。佐二平は急遽帰郷して家督を継ぎ、残された五人の弟と三人の妹の養育にあたらねばならなかった。

彼は、依田本家十一代目佐二平を継ぎ、松崎依田家の親戚に当たる奈倉家の娘フジを(めと)り、二十歳で名主に就き、早くも押しも押されもせぬ地元の名士となっていた。

地元における佐二平の高名は抜群のものがあった。当時の佐二平について、実弟で幼い時に土屋家に養子入りした土屋(かなめ)が祖父や先輩から聞いた話として次のような評を伝えている。

「三余塾時代の佐二平は年長塾生の中にあって勉学無比、博覧(はくらん)強記(きょうき)(多くの書物を読み、いろいろなことをよく覚えている)、広く和漢の学を修め且つ品行方正、(きょう)(けん)(慎み深くへりくだっている)をもって己を持し、明晰なる理解力と公平無私の言論は多数年長者を凌駕し、当時麒麟(きりん)()と称された」

あるいは「佐二平は生まれながらにして聡明な頭脳を持ち、社会にも広く通じて全く公平無私、そのなすところは済世救民に貫かれていた。しかも社会のため人の役に立つことであれば私財を供して惜しまず、それを人に語らず、記録に残さず、当然のこととし、恩を受けた多くの人々はその崇高さに泣いて感謝した」と。

 さらに「その風貌は男も女も惚れ惚れするような眉目秀麗で、しかも挙措動作が端正、自ずから威厳が具わっているも、一度笑えば三歳の童子も(なつ)き寄るという温情を持っていた」とも。

勉三にとって依田家の全権を握るこの長兄は絶対的権威を有する戸主であり、父に代わる保護者・養育者であった。

 が、それが為に兄に服従し、従順であったという訳ではない。彼はもっと幼い時から七歳年上のこの兄に対して、何か抗し難い畏敬の念、底深い依頼心を抱いていた。それ故、母親と父親の相次ぐ死は、少年の心に深い悲しみと寂しさを残し、しばらくは涙ながらに読経の日々を過ごさねばならなかったが、将来に対する不安のようなものをついぞ持つことはなかった。佐二平の力強い存在がその理由であった。

ところで依田家の者や松崎一帯の住人が「徳川様天下が終わろうとしている」という現実をその目で確かめたのはいつであったか。それは慶應四年二月、東征大総督有栖川宮(ありすがわのみや)を先頭に参謀西郷隆盛に率いられた官軍が江戸城を目指して三島宿を通過する際、佐二平が地方名代として呼び出され、人馬継ぎ立ての役を命じられた時であった。

 佐二平は官軍が錦の御旗を押し立て、堂々と進軍する様を目の辺りにし、「徳川様天下」が終わったことを痛感した。そして「いずれ新しい時代が来る」と確信を持って語った三余先生の顔を、今更ながら思い起こさずにはおられなかった。

三島から戻った佐二平は勉三にこんなふうに言って聞かせた。

「勉三、いよいよ三余塾門下生がその使命を果たすべき時が近づいて来たようだ。いずれ維新の混乱が収まったら江戸表に出かけて行き、洋学に取り組んでみたらどうだ」

この提言を聞いて勉三が発奮したのは言うまでもない。

 熊堂山山頂に立ったあの日以来、勉三の脳裡をずっと支配していたのは、師の「形見の言葉」であった。新しい時代、新しい時勢、新しい文明開化の世に触れて、早く自分の果たすべき使命・天分について具体的な方向性を探りたいと強く願っていた。しかし勉三はそれを兄に激しく訴え、性急に実現しようとは思わなかった。兄の意向を尊重し、兄の意向を踏まえるべきであり、まずは自らの内部で探求すべき課題である、と考えていたからである。

 その「提言」から二年が過ぎ、いよいよ今日の「東京様子見の旅」になったのである。

 勉三旅立ちの時がようやくやって来たのだ。

 

  (2)

勉三が乗った小さな帆船が(ひな)びた横須賀港を過ぎ、賑やかな横浜港に近づくと、甲板に立つ勉三の眼に、マストを林立させた十数隻もの巨大な黒船の影が飛び込んで来た。

この横浜港が開かれると同時に下田港は閉鎖され、ハリスの領事館も横浜に移っていた。既に下田への黒船の往来はなくなり、こうした光景を目にすることは出来なかった。

初めて見る実物の黒船それは西洋文明と列強諸国を象徴するかのように威風堂々、港風景を威圧していた。

黒船のマストの頂上にはそれぞれ形と色の異なる国旗が翻っている。イギリス、アメリカ、ロシア、フランス、オランダ…錦絵や浮世絵で覚えた国旗に違いなかった。

突然、乗客の一人が叫んだ。

「おい、あれは日の丸船だぞ!」

 停泊中の大きなイギリス船の陰を少し小振りの黒船が滑るように走っていく。そのマストに真新しい日の丸の旗が風にはためいている。

「いつか兄さんが見せてくれた写し絵そのままだ!三余先生が言った通りの時代が来たのだ!」

 あの時覚えたワクワクした気持ちが、再び勉三の胸中を駆け巡る。もちろん今のそれは、自分が新しい文明時代の到来に立ち会っているという感動からのものであり、未知の世界に憧れた幼い頃のそれとは明らかに異なっている。

更に船が港に近づくと山下・山手の居留地に建つ青・赤・白の色彩の美しい背の高い洋館の群れが目に飛び込んで来た。

勉三は既に欧米派遣の経験者である福沢諭吉が出版した『西洋事情』を繰り返し読んでおり、叔父の鈴木真一が撮った何枚もの『文明開化的風景写真』も目にしていた。したがってエキゾチックなこの風景もそれ程びっくり驚天する程のものではなかった。が、この日見た実物の数々は勉三に〝西洋文明の力〟というものを強く印象付けた。

「この文明の力が日本と日本の農をどのように変えていくのだろうか……」

不安と期待が交錯した。

「勉三、新しい日本国はどうかね」

叔父の真一が笑いながら声を掛けて来た。散切(ざんぎ)り頭にしゃれた洋服の上下がよく似合っている。

 この叔父は勉三の今は亡き母親ブンのすぐ下の弟であった。ブンは乳離れもしていなかった赤子を亡くしていたこともあり、病弱気味に生まれた勉三を殊更に可愛がった。その為か真一もまた子供の頃から勉三の面倒をよく見てくれた。彼は手先が器用で、からくり人形などの玩具をよく作ってくれたものだった。

 叔父真一は安政元年、十八歳の時、下田で商売を営んでいた鈴木家の婿養子に入った。ところがこの年に下田を襲った安政の大地震大津波で養家は全財産を失ってしまった。やむなく彼は他の下田商人らと共に開港直後の横浜に出て、蚕種や生糸の仲買の仕事に就いた。

 そこで叔父真一は幸運にも下田出身の写真師下岡蓮杖(しもおかれんじょう)と知り合う。蓮杖は米国領事ハリスの通辞ヒュースケンに写真術を学び、長崎の(うえ)野彦(のひこ)()や函館の田本(たもと)研三(けんぞう)と共に日本の写真術の礎を築いた男で、当時既に著名な人物であった。

ちょうど商売に行き詰まっていた真一は蓮杖に弟子入りし、写真術を身に付け、今は師蓮杖の横浜本町通りにある写真館に身を置いていた。いずれは独立して自分のスタジオを開く心積りである。今のところ彼の主な仕事は外国人相手の土産品である「日本国之風景風俗彩色写真集」の作成であった。

勉三は精力的に横浜の街中を歩き回った。横浜の港町一帯はまだ「陸蒸気(おかじょうき)」も「ガス灯」も()(せつ)されておらず、汽車路開通工事途中にあったが、珈琲・紅茶・洋菓子、洋本・洋画、仕立ての良い洋服・シャツ・ズボン、洋風馬車・自転車等々文明開化の熱気が至る所に(みなぎ)っていて、刺激に満ち溢れていた。

しばらくして叔父は出張がてら勉三を新首府・東京へと案内してくれた。勉三が目にした「東京」は未だ「江戸」の装いを変えてはおらず、横浜一帯に流れていたあの華やかな「文明開化」の風もごく一部の地域だけにようやく吹き始めたばかりであった。

 

明治維新は革命であり、戊辰(ぼしん)戦争によって徳川幕藩体制という旧い権力が破壊され、明治政府という新しい権力に交代した。討幕軍の「江戸城入城」と将軍徳川慶喜の「江戸城退去」はその象徴的出来事であった。

しかしながら、その後、新政府の新しい統領たる天皇が京の御所を離れて江戸城に居を定めたにもかかわらず、幾つかある城門の屋根は傷んだまま、周辺の道や建物も荒れ果てたまま放置されていた。

薩摩・長州・土佐・肥前の家臣、羽織袴や洋装軍服を(まと)った官軍兵士こそは、未だ戦闘の雰囲気を漲らせて路上を闊歩していたものの、大勢順応に終わった多くの藩の家臣士族・卒と呼ばれていた武士の多くはむっつりした顔つきをし、力なく肩を落として歩いていた。

未だ新しい「天皇の御世」に馴染みをもてない大半の「東京町民」は、不安げな眼差しで官軍と士族の群れを横目に見ながら、その日その日を生き抜くために必死に走り回っていた。

それだけでなく「明治の御代」は未だ決して安全安泰とも言えなかった。

例えば明治二年九月、長州の天才的軍略家・大村益次郎が、国民皆兵を主張し、士族をもって国家の常備軍とする案に反対したため、不満士族の反発を買って暗殺されるという事件が京都で起こっていた。また開明派福沢諭吉に対しても、「何者かが福沢を狙っている」との噂が流れ、諭吉も慶應義塾の学生たちも警戒心を強くしていた。士族の反乱の噂があちこちで生まれては消え、消えてはまた生まれていた。

地方でも藩政崩壊下で物価高と生活苦のどん底に追い込まれた町民・農民が「世直し」の暴動・蜂起を頻発させていた。

新政府はこうした士族の不満と農民の反乱が結びつくことを極度に恐れ、その対策に追われていた。

この頃流行った「明治逆から読めば(おさ)まる(めい)」との()れ句はこの時代の空気をよく物語っていた。

 

いずれにせよ、勉三がこの時目にした首府東京も、表面的にはどことなく落ち着かず、騒然としていて、行く末定まらぬ不安が町の至る所に渦巻いていた。

叔父真一は、勉三にこうした「古い東京」を見せた後、これとは全く異なる、当時形成途上にあった「新しい東京」を見せてくれた。その「新しい東京」は福沢の私塾などが立ち去った後の築地鉄砲洲にあった。そこは治外法権に守られた居留地で、この一帯には武家屋敷の家並みに混じって、教会堂、後に明治学院や青山学院に発展していくミッション・スクール、西洋ホテル、各国の外国公館が建ち始めていた。それらは、横浜港周辺に建てられた商館とは異なり、より本格的な洋館であり、欧米列強の並々ならぬ意志新しい政府と結合し、自らの影響下に組み入れ、あわよくばこの極東の小国を占有・支配せんとする彼らの野望をみごとに表現していた。少なくとも勉三には、そう見えた。

そんなふうに見えたのは、この居留地に隣接するように建てられていた、洋風建築に和風の()(まこ)(かべ)を張り巡らした奇妙な二階建ての海軍兵学寮が目に飛び込んで来たからでもあった。それはあたかも「西洋列強に伍して独り立たん」とする新生日本の気概を示しているように見えた。

その日、叔父が何枚かの写真を撮った後に語った言葉は、その後の勉三の心の奥にいつまでも残っていた。

「私が今撮っている写真は、単に外国人に売りつけるためだけのものではないのだ。日本はこれからどんどん変わっていく。古い日本が消え、西洋化された新しい日本がたちまち日本を覆って行くだろう。だが、そうして出来上がった日本国がどのような国になるのか、誰も判ってはいないのだ。私はその古い日本と新しい日本の姿を写真としてしっかりと記録し、後世に残しておきたいのだ」

叔父が「勉三ならいつかは判ってくれるだろう」と付け加えながら語ったことはこんなふうなことだった。

蓮杖先生や叔父たちに写真の技術を教えてくれた通辞のヒュースケンは、時々溜め息交じりに、

「私が愛しく思っているこの国にとって、西洋の文明は本当に幸福をもたらすものなのか、不安に思わざるを得ないのだ。豊かで、至る所に子供たちの愉しい笑声が響いているこの幸福な情景が、いつまで続くであろうか。それらはいずれ終わりを告げ、西洋的な物質文明と競争的工業化社会は、心身ともに疲れ果てた貧困と悲惨と不品行と不衛生にまみれた、惨めな人間を生み出すことであろう。この日本にロンドンの貧民窟や香港の黄色地獄街が生じないという保証はどこにもないのだ」

と嘆くことがあったという。

世界各国を巡り歩き、世界の情報に詳しいヒュースケンには日本の行く末がありありと見えていたのであろう。

「我々は文明開化には光の部分もあれば影の部分もあるのだということを、よく知っておかねばならないのだ」

勉三がこの叔父の忠言のもつ深い意味を理解するのは、もう少し先のことである。

 

  (3)

首府東京見学の最後の日、叔父が案内してくれた先は品川沖に近い芝新銭座(しんせんざ)にあった慶應義塾であった。勉三が今回の訪問でどうしても見ておきたかった所だ。

明治に入る五ヶ月前の慶應四年四月、福沢諭吉は築地鉄砲洲の奥平藩邸にあった自らの私塾をこの芝の新銭座に移していた。前政権の徳川幕府が築地鉄砲洲を外国人居留地に定めていて、早々に立ち退くよう迫られたためである。

福沢は維新動乱の真只中、新銭座にあった有馬藩邸を買い取り、一千両を費やして塾舎を完成させ、ここに名称も新しい「慶應義塾」を発足させた。

「英学・洋学は慶應義塾」この評判は既に全国に鳴り響いていて、伊豆松崎一帯にも伝わって来ていた。勉三は、三余塾ではついに学ぶことのできなかった英学・洋学を義塾でぜひとも身につけようと心に決めていた。何よりも三余先生と同様に「封建門閥制度は親の仇」と説く福沢に強い親近感を抱き、義塾への遊学を強く望んでいた。

 これからの日本の農業や郷土の開発にあたっては、ぜひとも西洋の農業に関する技術や知識を学ぶ必要がある。蒸気機関車や機械工業を生み出した西洋文明はきっと農業においても遥かに進んだ技術や知識を有しているに違いない。そのためにはどうしても英語・洋学を身につけねばならないのだ。

言うまでもなく佐二平も同意見だった。

 義塾は品川沖に近い大名屋敷の並ぶ閑静な一角にあった。大きく墨黒々と刻まれた「慶應義塾」の門札が堂々たる武家屋敷門に掛かっていた。広々と開かれたその門を行き交う塾生たちの意気揚々たる態度、姿形が好ましかった。羽織袴に(まげ)をつけた若者も、洋装に身を包んだ散切り頭の若者も皆一様に自信と誇りに満ちた顔つきである。

 叔父は、いかにも事情通らしく、

「義塾では、上野の(しょう)()(たい)に官軍が総攻撃をかけた日も、福沢先生は平然と講義を続け、僅か十数名に減ってしまった生徒を前に、〝慶應義塾がある限り日本は世界の文明国である〟と豪語されたそうだ」

と、巷に流れる噂話を聞かせてくれた。

門を潜るとすぐ脇に「入社受付所」なるものがあり、年配の受付係が座って居た。見ず知らずの若者に対するその応対は驚くほど丁重で、説明と案内は懇切丁寧を極めた。

勉三は入社規定を詳しく説明した「慶應義塾之記」という小冊子を受け取り、社を辞した。冒頭が「()社を立て義塾を(はじ)め」の言葉で始まるこの小冊子の表紙には『一身の独立なくして一国の独立なし』と記されていた。

*会社…「コーポレーション」の訳で、共同結社・公益法人の意。私塾ではなく公共的な教育機関であることを示す。生徒も社中、塾頭も社頭と呼ばれた。

勉三は自らの力で道を開き、独立を守り、外国に伍する国を建てんとするその気概に強い共感を抱いた。

「これこそが新しい時代の塾社だ。いつかきっとここで学びたいものだ」

勉三のこの決意は五年後に実現する。

勉三にとって、義塾が彼の天命・天職を明らかにしていく重要な舞台になろうとは、この時まだ、夢にも思っていない。

帰郷した勉三から新旧交錯する落ち着かない東京の様子を聞いた佐二平は、

「もうしばらくの間、東京遊学は見合わせることにしよう」

との結論を下した。

 

明治四年十月、新政府は廃藩置県を断行し、封建的土地制度を近代資本主義的所有制へと転換させた。これにより、佐二平は「新地主」となったが、一方ではまた廃藩置県の結果、世の中に失業士族が溢れ、不満士族の不穏な噂話が聞こえ始めた。

そんな中、佐二平は同郷の仲間と共に江奈村の旧陣屋跡に新しい学塾郷学謹申学舎(きんしんがくしゃ)を創設した。この学舎は漢学と英語を教える、地方にあっては画期的で先進的な学塾であった。

佐二平は近隣の青年のために、何よりも郷土のために私財を(なげう)って三余先生が成し遂げることのできなかった外国語・洋学をも教える新しい学塾を発足させたかったのである。この時佐二平はまだ二十三歳の若さであった。

勉三はこの謹申学舎で、ある人物と出会い、「蝦夷地」改め「北海道」となった北の大地と初めて接することになる。

 

  (4)

その謹申学舎発足半年前のこと

明治四年九月初め、大沢村の佐二平の元を、背丈は低く小柄だがいかにも古武士然とした一人の壮年の男が訪れた。

()(しな)(ちか)(のり)と申す者です。足柄県令の柏木(ただ)(とし)様にご紹介頂き、本日お伺い致した次第です」

「お待ちしておりました。私が依田佐二平です。お話は柏木様からよく伺っております。漢学をご教授下さる方をご紹介下さるようお願いしましたのは私の方でございます。不便な田舎のこと、行き届かぬ点も多々ございましょうが、なにぶんよろしくお願い致します」

佐二平のこの挨拶にすっかり恐縮したように、保科近悳は、

「お気遣い、かたじけなく存じます」

と丁寧に頭を下げた。

そして幾分遠慮深げに、「私のことは、柏木様の方から……」と尋ねた。

「はい。万事承知しております。ご心配はご無用に願います。こちらには会津から大島篤忠(あつただ)先生や他の方々にも来て頂いております故、どうか故郷にでも住まわれるおつもりで気楽にお過ごし下さい」

佐二平のこの言葉に、彼の顔はホッと緩んだ。

つい二ヶ月ほど前、近隣十八ヶ村の総戸長の役に就いた佐二平が用事で伊豆韮山(にらやま)の屋敷に居る柏木県令を訪れた際、県令から「また一人、預かってもらえまいか」との話があった。その「また一人」というのがこの元会津藩士保科近悳のことであった。保科近悳というのは維新後に名乗った姓名であり、会津時代は西郷頼母(さいごうたのも)(ちか)(のり)が正式である。

西郷家は三代将軍家光の弟で会津藩祖となった保科正之(まさゆき)の分流であり、会津きっての名門家老の家である。藩主と同じ保科を名乗ることを遠慮し、女方の西郷の姓を名乗って来たのであるが、維新後そうした遠慮も不要になり、また思うところもあってか、近悳は元の保科姓を名乗るようになっていた。

「保科様、こちらは私の弟の勉三という者で、まだ十八歳の若造でございます。いずれご教授頂くことになるかと思いますが、なにぶんよろしくお願い致します」

佐二平の横にかしこまっていた勉三はハッと我に返り、慌てて頭を下げた。

「どうかよろしくお願い致します」

勉三は先ほどからこの小柄な独特の雰囲気を持った壮年の男、初対面の保科近悳の風貌に魅了されていた。広い額とやや窪んだ鋭い大きな目、一文字に結ばれた口。いかにも戦場を飛び歩き、戦火を潜り抜けて来た武士の顔であった。だが時にふと苦渋と悲哀の表情を(おもて)(かげ)らせることがあった。それは勉三が今まで決して見ることのなかった顔であった。もちろんこの時、勉三は彼が元会津藩士であったということ以外に何も知らない。

「ほほぉ、十八歳にお成りですか……。私の方こそ、よろしく願います」

どこか遠いところを見るかのような、あるいは誰か懐かしい人を思い起こしているかのような、そんな眼で勉三を見詰めた。

この元会津藩士保科近悳こと西郷頼母―彼こそが、勉三と蝦夷地改め北海道となった北の大地との最初の結びつきをもたらした人物である。

いったいいかなる運命の(いたずら)があってこの伊豆奥の僻村にこの元会津藩士がやって来ることになったのか。

伊豆韮山にいた足柄県令柏木忠俊俗名総藏(そうぞう)に「また一人、預かってもらえまいか」と頼み込んで来たのは勝海舟であった。

 海舟と総蔵同じ年頃の二人が出会ったのは、安政二年夏、三十六歳の海舟が長崎海軍伝習生徒監の役についた頃である。総蔵は、反射炉築造、鉄砲砲術指南、海防策建議、お台場建設などを行なった開明派幕臣として名高い伊豆韮山代官江川(たん)(あん)英龍(ひでたつ))の江戸詰めの手代、さしずめ坦庵の秘書役であった。年の大半を韮山の屋敷に居住していた坦庵に代わって江戸藩邸のことを全て取り仕切っていたのは総蔵である。その江川代官所家臣の子弟十数人は海舟の下で海軍伝習生となって長崎に学んだ後、彼の指揮下で軍艦操練所教授方に就いていた。その後も彼らは(かん)臨丸(りんまる)乗組員として共に訪米の航海に出たり、海軍奉行海舟の下で艦長を務めたりしていた。そんな訳で、若者達の相談役であった総蔵と海舟はごく自然に親しい仲になっていた。

しかもその海舟と行動を共にしてきた江川子弟の多くが、海軍副総裁榎本(えのもと)武揚(たけあき)に付いて箱館に軍艦を進め、五稜郭(ごりょうかく)戦争に参画しており、何人もが戦死、自決、獄死していた。総蔵は官軍に敗れ、五稜郭にまで流れて行った賊軍たる幕府方藩士の悲哀を十二分に知っており、会津藩士らにも深い同情心を抱いていた。

海舟が総蔵に「最初の頼み」を持って来たのは明治二年冬のことであった。海舟が路頭に迷った旧幕臣・士族の相談に乗っているとの噂を聞きつけ、元会津藩士大島が何か漢学の素養を生かせる仕事がないかと、就職口を頼んで来た。海舟はふと土屋三余のことを思い出し、すぐに当時松崎一帯を治めていた韮山県令の柏木忠俊に連絡を取った。

勿論柏木は三余のことをよく知っていた。それに、地域の総代戸長に任命していた依田佐二平とは顔見知りであった。三余塾門下生である佐二平の優れた見識と高潔無私の人品を高く評価し、豪農依田家の地域への影響力の大きさについてもよく知っていた。

県令柏木が相談すると、海舟と三余先生の旧交を知っていた佐二平は、即座に「ちょうど自邸内に学塾を開こうと思っていた矢先です」と、快く頼みを引き受け、翌年五月には自邸内に大沢塾を再建し、近隣の子供を集め、大島を教壇に招いたのである。三余先生亡き後、勉三もしばらくその大島の下で大沢塾の助手を務めていた。

海舟が保科近悳の件に関して、すぐに柏木佐二平の系列を思い浮かべ、頼みを持ち込んだのはごく自然なことであった。否、前回以上にこの密かなる系列を頼みにしなければならない特別の事情があった。

近悳その当時西郷頼母は官軍に攻められて落城寸前の会津城下を脱出し、仙台から榎本軍に合流し、五稜郭に立て籠もった。ここで最後の決戦を繰り広げ、敗れて新政府軍に(くだ)り、捕虜となった。館林藩に身柄を預けられ、半年ほどそこに幽閉されていたが一年半後に釈放され、東京で実弟の陽次郎と同居を始めていた。この弟も箱館戦争に加わり、敗れて捕虜となり、古河藩に幽閉の身となり、同じ頃釈放されて東京に出てきたのである。

この弟陽次郎が、明治三年十二月に起こった雲井龍雄(くもいたつお)事件に巻き込まれた。「士族救済」を目指した米沢藩士雲井の周りには多数の脱藩士族が集まってきていた。それが「政府転覆の陰謀」と疑われ、逮捕、投獄、斬首されるという事件に発展。陽次郎はこれに連座し、十年の刑を受けて函館の獄に送られた。

その際、同居していた近悳も事件への関与を疑われ、危うく逮捕投獄されるところであった。が、近悳の請願を受けた海舟の斡旋で長州閥の政府高官・参議広沢真臣(まさおみ)あたりが動いてくれ、何とか濡れ衣を晴らすことができた。長州人としては珍しく広沢は会津への苛酷な処分に反対し、寛大な処置を訴えており、雲井事件のことも気にかけていた。しかし、近悳の為に動いた直後、広沢は何者かの手で暗殺された。そんな事情もあって、何とか嫌疑を免れた近悳を早く安全な土地に送り届けてやる必要があった。当時は、それ程に「賊軍会津元藩士」への警戒は厳しかったのだ。

そこで海舟はすぐに信頼のおける柏木に相談し、一番安全で安心な伊豆大沢村に近悳を預けることにしたのである。これが近悳が伊豆奥の僻村にやって来た背景である。

勉三と近悳との出会いは、幕末維新の大立者で、師三余と交流のあったこの勝海舟という人物の存在抜きにはあり得ないことであった。

明治三十四年に佐二平ら三余塾門下生が松崎に建立した三余(しょう)(とく)()は「三余土屋先生之碑」との題額で飾られており、「三余先生墓銘 従二位勲一等伯爵(かつ)安房(あわ)額」の碑文が刻まれている。これは単なる偶然の出来事でもなければ、海舟が気まぐれに引き受けたものでもなかった。

維新後、海舟の果たした役割には独特のものがある。国家社稷安寧の為に旧幕臣・没落失業士族の保護と救済に当たるそのために、あらゆる地位と人脈を利用し、余生の全てを傾注すること。それが海舟という人物が自らに課した任務であった。

海舟と西郷隆盛の談判で江戸城の無血開城が実現し、慶喜と徳川家は駿府・府中静岡藩に封じられることになった。静岡藩七十万石、これでは召し抱え五千人が精一杯、そこへ一万数千の家臣が家族ともども住み慣れた江戸を引き払って静岡へと移って来た。彼らをどのように食わせていくのか。

維新後、海舟は海軍総裁などの地位を全て捨ててまず静岡に赴き、その経営に全力を注いだ。山野を拓いて茶の栽培を広めるなど様々な事業を興し、徳川家臣団の生業の道を広げた。

その後も海舟は政治の中枢舞台には加わらず、新政府がくれた官位爵位や人脈をフルに活用し、旧幕臣のみならず賊軍の敗残兵として路頭に迷った多くの失業士族の救済に全力を尽くしている。

とりわけ海舟の働きによって、多くの元会津藩士が新政府に警察官の職を得たり、静岡や徳川所縁(ゆかり)の地に送り込まれ、その地で様々な職を得ている。松崎一帯でも、大島・保科の他にも林(しげ)()・山口(まさ)(たか)・墨田直水(なおみず)等々何人もの元会津藩士が学塾師範の職を得ていた。

近悳は初めて伊豆を訪れた際、わざわざ静岡を回り、飯沼(さだ)(きち)(自刃した近悳の前妻千重(ちえ)の兄の次男で近悳の甥)を訪ねている。彼は白虎隊の生き残りで、同郷人から「おめおめ生き残った恥さらし者」と罵声を浴び、逃れて静岡の林三郎塾に学んでいたのである。この貞吉の林塾入門も、近悳の松崎入りも、全て海舟配慮の賜物であった。

とにかく新政府は旧幕臣や不平士族の反政府的反乱の暴発を何よりも恐れ、その対策として徹底的な賊軍封じ込めを図った。敗れた賊軍各藩の旧家臣より開拓団を募集し、東北の荒蕪荒廃の地や酷寒未開の地北海道へ赴くことを命じたのもその一環であった。

 実際、徳川家はさておいて、会津藩や仙台藩など新政府に敗れた東北諸藩は報復として領地没収、俸禄削減、僻地移封を命じられるなど悲惨極まりない境遇に追い込まれた。

例えば、会津藩は二十三万石の領地を奪われ、まず二百戸あまりが未開蝦夷地の小樽(おたる)()余市(よいち)に移住させられた。また七百戸が会津で帰農、三百戸が各地へ離散。残った二千八百戸・一万五千人が東北南部藩荒蕪の地()(なみ)三万石に押し込められた。

その「斗南史」には新しい移封地に向かう道中、水の如き粥をり、(みぞれ)に打たれても着替えさえなく、斗南を遥かに拝しながら無念の涙を飲んで死んでいく者も数多く居た、とその哀史を伝えている。

海舟も西郷隆盛も、もし旧幕臣・士族が全国各地で反乱を起こし、新政府と一戦を交えるようなことになれば、たちまち外国列強の介入を招き、日本が彼らの属国にされるという事態が生じることを何よりも恐れていた。海舟は、明治元年四月の西郷に宛てた手紙に「一家不和を生ずれば一家滅亡す。一国不和を生ずればその国滅びるべし」と書いたが、これこそ彼の真情であった。

明治末に福沢は時事新報に「痩せ我慢の説」を発表し、旧幕臣でありながら新政府の(ろく)()んで高位高官に昇った裏切り者として、海舟と彼の海軍操船所時代の愛弟子で五稜郭に敗れた榎本武揚の二人を挙げて痛烈に批判している。

「二君に仕えるという武士にあるまじき行動をとったオポチュニストで、痩せ我慢を知らない男である」と。

これは血で血を洗うといった政争の修羅場には(うと)かった福沢の、的外れな俗論と言えよう。海舟の立場は福沢に返した「行蔵(こうぞう)は我に存す、毀誉(きよ)は他人の主張、我に(あず)からず」の一言に全て言い尽くされている。

 

人と人の出会いそこには常にある必然と偶然が介在しており、そこにまた人生の妙がある。いかなる必然も偶然性を伴って現象し、偶然の背後には必ずある必然が存在する。したがって極めて偶然に思える出会いの背後にも必然と必然の交錯がある。

依田勉三という人物も保科近悳という人物も、同じく幕末・維新という時代が生み出した産物である。それぞれには陰陽の形こそ違えど時代を貫く必然性が刻印されている。そうした二つの必然が偶然に松崎という地で交錯する。その新旧二人の偶然の出会いと絡み合いの中から、それぞれの必然が新たな流れを作り出し、新たな展開を遂げていった。

十八歳の勉三が四十三歳の保科近悳と巡り会ったこの時代、勉三を支配していた必然、即ち不動の信念とは、言うまでもなく三余先生が彼に植え付けた使命即ち幕末維新という新しい時勢の中において「農として世のため人の為に尽くす」という使命であった。未だその果たすべき使命は具体的な形を現してはいない。が、その実現への熱い志は彼の胸の中に決して消えることなく沸々(ふつふつ)(たぎ)っていた。勉三のこの必然が、近悳との出会いを通じて、新たな展開を見せていくのである。

明治五年三月、佐二平らの手によって江奈の陣屋跡に謹申学舎が開設された。前年十月から仮の塾舎で教えていた近悳は新しい学舎の塾長に就き、漢学を教えた。また、これも海舟の口添えがあってのことであろうが、静岡学問所から英語教授として有能な静岡藩士山川(ただ)(おき)がわざわざこの僻地の学舎にやって来ていた。

勉三は、佐二平の長男新四郎らと共にこの新しい学舎に入門し、漢学と英学の学習に取り組んでいく。

 

  (5)

明治五年九月末、勤申学舎の運営が軌道に乗った頃のこと

横浜から叔父の鈴木真一が下田近辺の写真を撮りにやって来た。それで、謹申学舎でも記念の写真を撮ってもらうことになった。神妙な近悳を真ん中に勉三や幼い生徒ら十余名が並んだ家族的で、思わず微苦笑を誘われる写真である。まだこの辺りの田舎では写真撮影などは珍しく、近隣は大騒ぎであった。

撮影が終わった日の夜、近悳と彼の後妻キミが住んでいた古い代官屋敷に写真師の真一と勉三が招かれ、小さな酒宴が催された。

ちょうどこの時、会津戦で夫と嫁ぎ先の家族を失った近悳の妹未遠子(みおこ)が遊びに来ており、キミの台所仕事を手伝っていた。

この夜、近悳が酔いに任せて語った意外な話から、勉三は彼の数奇な半生について、そして北海道の持つ奇妙な魅力について初めて知ることになる。

「ところで、鈴木さんは函館の写真師で田本研造という人物をご存知ですかな?」

 機嫌よく盃を傾けていた近悳のこの突然の話に、叔父の真一はびっくりして、思わず大きな声を出した。

「いったいどうして貴方が田本研造氏の名前をご存知なのですか?」

当時の写真界では西の彦馬、東の蓮杖、北の研造と呼ばれた有名な写真師で、真一もその名はよく知っていた。

田本は五稜郭で幕軍の総裁榎本武揚の肖像写真や、陸軍奉行となっていた新撰組副長土方(ひじかた)歳三(としぞう)最期の肖像を撮った写真師として有名な人物であった。

真一は蓮杖の下にいた当時、箱館出のと横山(まつ)三郎(ざぶろう)いう人物と一緒に写真術を学んだことがあった。その松三郎は箱館に帰った時、写真師になりたての田本に新しい技術を伝授していた。真一はまだ会ったことはなかったが、田本のことはその松三郎からよく話に聞いていたのである。

近悳はすっかり真一を気に入った様子であった。どうやら彼が田本と同じ写真師だということがその理由の一つのようであった。

「そうですか、ご存知でしたか……」

そう言うと近悳は勢いよくグッと盃の酒を飲み干し、自らの半生についてゆっくり語り始めた。

勉三はこの夜初めて、保科近悳こと元会津藩家老西郷頼母四十三歳の波乱の人生を知った。何の苦労もなく育った若い勉三にとって、彼の話は衝撃以外の何ものでもなかった。そして彼の時折浮かべる苦渋と悲哀の意味するものが何であるのか、ようやく胸に落ちた。

少し長くなるが、頼母近悳と会津藩の幕末史について触れておこう。

この頼母近悳が勉三の人生に与えた影響は決して小さくなく、勉三と北海道の結びつきに頼母近悳は不思議な程深く関与しているからである。

 

西郷頼母おそらく、現代においては、幕末史ドラマのファンで、この名を知らない人はまずいないであろう。最近ではかなり有名な名前である。

が、勉三が青年時代を送った明治の初め、まだこの名はそれほど知れ渡ってはいない。その頃はまだ誰もが会津の悲劇について声高に語ることを(はばか)っていた。「政府転覆の陰謀」「没落士族の反乱」に怯える新政府は、この種の噂話にすら神経を尖らせ、官憲に厳しく取り締まらせていたからである。

明治二十年代に至るまでは決して公に語られることのなかった戊辰会津戦争の最大の悲劇それが「白虎隊自決」と「西郷一族二十一人自決」であり、この後者の悲劇を演じた西郷家の当主こそが保科近悳こと西郷頼母であったのだ。

「西軍」が攻め来る中、西郷邸に残された頼母の妻千重・老母・妹・娘ら女子供十七人を含む二十一人は会津鶴ヶ城落城を知るや、当主頼母の言いつけ通り「生き恥を晒さじ」と一斉に自刃し果てるという壮絶な最期を遂げた。薩摩藩士川島信行(のぶゆき)が西郷邸に入ると、死にきれずにいた少女が微かな声で「敵か味方か」と問うので、思わず「味方だ」と答えると「これで」と自らの懐剣を差し出し、(とど)めを懇願した。川島は涙ながらに介錯の手を下したという。

「館林藩の屋敷に置かれていた時、川島氏の話をある人が知らせてくれました。彼が介錯した女子というのは、まだ十六歳だった長女の細布子(たえこ)…」

近悳は慟哭を抑えかねて苦しげに喉を詰まらせた。未遠子は突っ伏し、肩を震わせて忍び泣いていた。同じ会津藩士の子女であったキミも顔を覆って台所に立ち去った。

 勉三も真一も声を失い、ただ絶句するばかりであった。こうした(むご)たらしい血の犠牲の上に築かれた新しい時代を生きる人間の責任といったようなものが、勉三の肩に重く()し掛かった。

「白虎隊自決のことも、一族総自決のことも本当にあったことなのですね…。勝てば官軍ということでしょうか、随分酷い噂にねじ曲げられていまして…」

真一は感に堪えないというように呟いた。で密かに流布されていた噂には「会津藩は卑怯にも女子供を矢面に立てて難を逃れようとした」などと中傷するものも少なからずあったからである。

「自決した妻の千重に〝生き恥を晒すな〟と言い付けたのはこの私です。その私がこうして生き恥を晒し、おめおめと生きながらえているのですから可笑しいと思われるでしょうな。生き残った家中の者は皆そんな目で私を見ております」

勉三は近悳の顔が翳り、そこにあの苦渋と悲哀が浮かぶのを見た。

「しかし、私が死に場所を誤ったのは、会津城下でもなく、いわんや五稜郭でもない。藩公の京都守護職受任の諌止(かんし)退(しりぞけ)けられ、家老の職を解かれたあの時でした。財力も底を突いていた小藩のわが国に火中の栗を拾う力などあるはずもなかった。何か恐ろしい結末が訪れる、それだけは判っていた。民百姓のことを考えれば……、だから諫止したのだが。家老職を解かれたあの時腹を()(さば)いておれば…。今更それを言えば愚痴になります」

近悳はそう言って目を伏せた。

 会津の悲劇は藩主松平容保(かたもり)が幕府の命を受け、佐幕・攘夷入り乱れて争っていた京都の守護職を引き受けた時から始まったと言える。

「大君(徳川将軍家)の義、一心大切に忠勤を存すべく、列国(他藩)の例を以て自ら()るべからず、若し二心を懐かば、則ち我が子孫にあらず、面々決して従うべからず」会津の藩祖保科正之が遺した家訓である。

他国はどうあれ、我が会津藩は徳川家に一心に仕え、これを守り抜かねばならぬ、との家訓である。その上に「ならぬことはならぬ」こそが藩風であった。

幕府政治総裁役の福井藩主松平(しゅん)(がく)と将軍後見役の一橋慶喜はこの家訓を持ち出し、容保に京都守護職受諾を迫ったのである。美濃高須藩から会津に養子に入っていた容保に拒否することなど出来るはずもなかったのだ。

一方、西郷頼母は藩祖の分流であり、何よりも会津生え抜きの武士、名門家老であった。守るべきは郷土であり、藩内の民であった。また、その血の濃さ故に逆に藩祖藩主に対する遠慮も省かれた。だからこそ正論を以って容保に諫止できたのである。

「家訓の藩主容保」と「正論の家老頼母」の行き違いは、結局会津戦争が終わるまで遂に解けることはなかった。

当時攘夷の塊であった孝明天皇の信任を得た容保は禁門の変で長州を容赦なく攻め、さらに新撰組の後ろ盾となって勤皇派志士への弾圧を強め、彼らの強い恨みを買うことになる。

 やがて薩長同盟が成り、朝廷を担いだ官軍の攻勢戊辰戦争が始まった。江戸城を無血開城させた「西軍」は、上野山の彰義隊を片付けた後、総力を挙げ、今や朝敵となった「東軍」の拠点会津目がけて攻め寄せる。容保は朝廷に恭順(きょうじゅん)の意を示すがもはや聞き入れてはもらえず、一戦を交えるしかなかった。家老職に復した頼母はなおも藩内に恭順降伏を説くが、強硬派藩士の反発と怒りを買うばかりであった。遂に会津は藩の総力を挙げた戦闘に突入することになる。

 この時、幼い少年たちは白虎隊の隊士として戦闘に加わり、壮烈な自決を遂げた。会津藩の砲術師範山本家の娘八重もまた、断髪・男装して鶴ケ城籠城戦に加わり、スペンサー銃と刀を持って奮闘奮戦した。八重は後に新島譲の妻となり、夫と共に同志社大学の創立に力を尽くし、会津藩の「汚名返上」に生涯を捧げた。

頼母も総督として死力を尽くして白河城攻防戦を闘うが、及ばず敗退。重臣家老たちは追い詰められた鶴ヶ城中の軍議にて、今までとは逆に講和策を説き始めた。頼母はその無責任を怒り、今度は「総員玉砕」を献策するも容保の認めるところとならず、またもや孤立を余儀なくされた。

そして、戦に敗れて降伏を覚悟した容保は、頼母に越後口への伝令役という「軽い役」を与え、密かに会津脱出を促した。頼母を憎む重臣は刺客を放ち、彼の刺殺を謀らんとするも失敗。頼母は「必ず会津を再興せん」と誓いつつ、長子(きち)十郎(じゅうろう)十一歳を連れ、やはり「西軍」に反旗を翻す奥羽越列藩同盟の根拠地仙台へと逃れたのであった。

しかし既にここも瓦解の瀬戸際にあり、やむなく頼母は吉十郎を連れて江戸幕府海軍副総裁榎本武揚率いる幕軍艦隊に合流し、仙台(がく)兵隊(へいたい)と共に蝦夷地箱館に向かう。そしてその開陽丸艦上で会津の降伏開城と西郷一族自刃の報を受け取るのである。己の命に従って自刃した妻子・親族を思う頼母の心情は到底筆に表せるものでなかった。太平洋の荒波を浴びながら直系継嗣の吉十郎を何としても守り抜き、一族の血を伝え、一族の名誉挽回を果たさねばならぬと、ただ固く心に誓うだけであった。

驚いたことに、この幕軍艦隊には会津で共に戦った藩主容保の実弟桑名藩主松平定敬(さだあき)の一行や頼母の実弟陽次郎ら二百余名の会津藩士が同行していた。榎本の率いる軍艦八隻には、会津で共に戦った新選組の副長土方歳三と隊士らもおれば、彰義隊の生き残りもおり、仙台でも二百五十余の洋式軍隊額兵隊など多くの抗戦派幕臣が乗り込んで来て、総勢二千数百名を数えていた。

 慶應改め明治元年十二月、箱館を占領した榎本軍は五稜郭を本営とし、「蝦夷共和国」の創設を宣言する。その目的はあくまで「徳川家一族の一人を首長とし、困窮する徳川旧幕臣を救済し、併せて欧米露列強の進出からこの北辺の地を守るべく開拓と警備に尽くす」というものであった。

勿論、新政府が受け入れるはずがなかった。米英仏蘭伊独六ヶ国公使が「局外中立」を宣言して暗にこの共和国を承認するに至るや、新政府は官軍参謀黒田清隆(きよたか)に五稜郭への総攻撃を命じた。

 かくして明治二年五月、五稜郭は落ち、榎本は黒田の軍門に下り、ここに徳川幕府追討の戊辰戦争は終わりを遂げる。

「役員外江差(えさし)(づめ)」として戦闘に身を投じていた頼母は「以後は如何なる理由があれ藩主容保を守りぬこう」この一念に自己を決した。そして彼は継嗣吉十郎の生命を守るべく、彼を密かに箱館の住人沢辺(さわべ)琢磨(たくま)に預け、黒田軍の降伏呼びかけに応じて政府軍の捕虜となり、館林藩に幽閉され、伊豆に逃れ、今日に至っていた。

 

  (6)

「今こうしてこの地で教授を務めさせてもらっていますが、いずれは容保公に仕えてこの命が果てることを願っているのです」

近悳はそこで言葉を切ると、叔父真一に酒を勧めながら言った。

「ところで、どうして箱館の田本研造氏をご存知かということでしたな。その話を致しましょう。ここからの話は勉三君にもよく聞いてもらいたいのです」

 勉三が居住まいを正して聞いたその話は確かに勉三の胸に強く響き、勉三の心の奥に深く刻みこまれ、後に勉三の運命に強く関与していった。

 

五稜郭決戦前夜の明治二年五月初め、死を覚悟していた頼母の最後の気懸かりは長子吉十郎のことであった。吉十郎をここで死なせる訳にはいかぬ。何としても生き延びさせ、西郷家の血筋を伝え、一族の恥を雪いでもらわねばならぬ。誰かに預けるほかない。すぐに思い浮かんだのは藩主容保実弟の桑名藩主松平定敬が宿舎としていた箱館神明社の宮司・沢辺琢磨のことであった。頼母も弟の陽次郎も神明社の定敬の元をしばしば訪れていて、琢磨のことをよく知っていた。

箱館神明社宮司沢辺家の養子琢磨は土佐の勤皇志士坂本竜馬の従弟である。拾った時計を勝手に質入れするという不祥事を起こし、竜馬の勧めで江戸から箱館に逃れて来ていた。彼は神社の宮司でありながら、禁教令下で密かに日本人最初のロシア正教信徒となり、箱館ニコライ堂やロシア領事館にも平然と出入りしていたという豪胆な人物である。

写真師田本研造はその琢磨の親友であった。ロシア領事館によく出入りし、ロシア人と親しかった田本が沢辺と懇意になったのは自然の流れであった。

 沢辺氏は「邪教禁令」下にありながらも信念を持ち勇気ある生き方をしている。彼なら息子をこの広大で可能性に満ちた未開の大地蝦夷地を拓く新しい時代に相応(ふさわ)しい立派な若者に育ててくれるに違いない。この男にわが息子を預けよう。

頼母はそう決めた。

頼母の耳に榎本の説く「この未開の広い蝦夷地を開拓して西洋式の新しい農地を拓き、新しい共和国の建設を」という呼びかけが快く響いていた。西洋に倣って選挙で「蝦夷共和国総裁」に選ばれた榎本は五年もの間オランダ国に留学し、あらゆる分野の洋学を学んで来た当代一の洋学者である。その榎本の発した呼びかけであった。

 確かにそれは年老いた自分には「夢の世界」のことである。が、吉十郎のような若者にとっては決してそうではない。誰がこの国の執政権を握ろうと時代は変わる。せめて息子には新しい時代にふさわしい新しい夢を持って生きていってもらいたい。そしていつか必ず西郷家を復興させて名誉復活を遂げて欲しい。

頼母は心底そう願った。

「沢辺氏に預けるには、多少の不安はありました。もしも、と考えるのが親心というものです。それで写真師として既に名を成していた田本氏に密かに後見をお願いしたのです。実際のところ、沢辺氏は邪教の信者ということで随分な迫害に遭い、しばらくあちこち逃げ回っていたそうで、その間は田本氏や知り合いが吉十郎の世話をしてくれていたようです。その後、沢辺氏は布教のために上京することになり、吉十郎も私の元に戻り、今は東京で英学を学んでおります。

蝦夷地は、何と言ってもロシアに対する北辺防備の地です。今は北海道と名を変え、開拓使も設置され、何でも黒田長官がアメリカから偉い紳士を連れて来て、いろいろ調べさせているとも聞いています。いよいよこれからということのようです。吉十郎は体が弱く、難点もありますが、いずれ渡北する時が来るでしょう」

近悳はここで、この日初めて、笑顔を見せた。

言うまでもなく「黒田長官がアメリカから連れて来た偉い紳士」とはホーレス・ケプロンのことである。しかしそれが判るのは更に後のことである。

そしてここまで、ただ黙って兄近悳の話を聞いていた未遠子が初めて口を開いた。

「田本様や沢辺様がお世話くださったのは吉十郎だけではございませんの。雲井事件で捕縛された弟の陽次郎が、未だに箱館の獄に繋がれているのですが、お二人とも本当に良くしてくださって……。でも近頃弟の体調があまり良くないとか。それが心配で…」

彼女はそう言って袂で涙を拭った。

叔父の真一は努めて明るく、

「確かに廃藩以後、士族問題は大きな問題になっていますが、薩摩の西郷さんあたりが動けば何とかなりましょう。黒田さんが開拓使の長官になったのもロシアに備えて士族を北海道の警護と開拓にあてよと強く主張した西郷さんの後押しが決め手だったという話です。それ故弟さんの釈放も決して遠い先のことではないはずです」

と、優しく慰めた。

真一の思いがけない慰めの言葉に未遠子は目を潤ませ、空になった徳利を両手に押し戴き、いそいそと台所に走った。

「それで、吉十郎さんは今何をされておられるのですか…」

勉三は遠慮がちに、だが強い興味に惹かれて聞いてみた。

「早十四歳になり、近頃はロシア語だけでなく、英語を熱心に学んでおって、将来はアメリカ辺りに留学することも考えているらしい。ただ、病弱なのが心配の種でしてな。

 勉三君も、近頃学舎で山川教授から一所懸命に英語を学んでいるが、これからは洋学の時代、それに何と言っても若者の時代だ。もはや武士も百姓もない。土屋三余という海舟先生も認めておられた立派な師の薫陶を受けた勉三君のこと、きっと何か世の中に役立つ大きな事を成し遂げることができるはず。わしはそう思うておる」

無論この時、当の勉三も近悳も、勉三が将来北海道開拓という大業に取り組んでいくことになろうとは夢にも思っていない。

ただ、ここで強調しておく必要があるのは、近悳の北海道箱館への強く深い愛着が、ただ単に彼が箱館五稜郭で戦ったことがあるというだけの理由にとどまらなかったことである。

近悳にとって蝦夷地北海道は忘れ得ぬ「夢見の地」であり、一度は愛するわが子を預けた「恩沢の地」でもあった。そうであるが故に、彼はこの遠い北辺の大地で見た夢を熱を込めて勉三に語り、若き勉三の未来に自らの夢を重ねようとしたのである。

この当時、近悳の語った蝦夷地北海道は「北門の鎖鑰」「ロシアに対する北辺防備」というところにその重点が置かれていた。つまりは軍事目的の「士族開拓移住」の話が主流であった。それ故に勉三は北海道という新天地の存在に強い興味を抱きはしたが、「新しい農業開拓地」というふうには受け止めなかったのである。

結局この謹申学舎は、二年半ほどで閉じられる。明治五年の学制発布を機に、各地に小学校が開かれ、この地方でも明治六年には学舎と同じ陣屋跡の敷地に学校が出来た。敷地が手狭になって来たという事情もあったが、国の学制が整うに従い、遠方から通う学生の為に旧屋敷の一部を寄宿舎にし、近隣の子弟百余名の学生を輩出して来たこの学舎も、もはやその存在理由を失いつつあったのだ。郷土に多大の貢献をなした謹申学舎はその使命を終えんとしていたのである。

保科近悳が伊豆を去ったのは明治七年八月、勉三の上京と相前後してのことである。

明治六年五月、近悳と未遠子の弟陽次郎は既に函館の獄中で三十三歳の生涯を閉じていた。

そして、明治七年春、写真師鈴木真一と近悳の妹未遠子が再婚した。かくして勉三と近悳は親戚ということにもなり、その後二人の絆は近悳が会津でその生涯を終えるまで途切れることなく続いていったのである。

近悳は未遠子の婚姻を見届けた後、福島県令安場(やすば)保和(やすかず)の世話で会津に程近い福島県棚倉の都々(つつ)古別(こわけ)神社の宮司となるべく伊豆を去った。勿論これも海舟の斡旋によっていた。

「俺は今まで天下で恐ろしいものを二人見た。それは横井小楠と西郷南州だ。……小楠はとても尋常のものさしでは判らない人物で、一向ものにこだわりせぬ人であった。こういうふうだから、小楠の良い弟子といったら安場保和一人くらいのものだろう」

というのが海舟の安場評で、安場はこれを意気に感じ、海舟に敬意を表し、彼を助けた。

明治七年夏、勉三は近悳とほぼ同じ時期に伊豆を去り、混乱の収まった東京へ向かい、ようやく慶應義塾の門を叩く。既に二十二歳に達していた。



【第3回目掲載 2023年5月】 



 第二章 三余先生

 

  (1)

勉三が父善右衛門・母ブンの三男として山峡の地豆州(伊豆)大沢村に生まれたのは嘉永六年(一八五三年・維新の14年前)の五月十五日、初夏の緑薫る美しい季節であった。

その勉三誕生から一ヶ月後の六月、ペリーが黒船に乗って浦賀に来航し、日本中が騒然たる空気に包まれた。人は誰もその時代や環境を選んでこの世に生まれてくる事はできない。偶然この時代のこの環境の下に生まれ落ちる。そして過去の歴史の集産物としての今という時代の環境の中で育ち、その時代の空気を吸い、その時代に鍛えられ、その時代の独特の色に染め上げられていく。まさしく人は全て〝時代の子〟と言えよう。

勉三が生まれた時代を見ておこう。

この時代、欧米列強の黒船の群れが、〝植民地獲得の野望〟と〝産業革命申し子の蒸気機関〟とを両輪に、アジアの海と日本近海をわが物顔に徘徊していた。

「大併呑(へいどん)国」と称された大英帝国は既にインド国をわが占有物となし、シンガポール・マラッカを占領し、さらにアヘン戦争で清国を破って香港を割譲させていた。北からは南下策の軍事大国ロシアが押し寄せている。列強各国が「極東の宝石」と謳われた日本を虎視眈々と狙っていて、事情に通じた多くの識者・愛国志士の心胆を寒からしめていたのである。

列強大国が頑なに鎖国を守る徳川幕藩体制下の日本めがけて押し寄せる中、嘉永六年六月三日、「英仏露に負けじ」とやって来た米国東インド艦隊司令官ペリーが、黒煙吐く軍艦四隻を率いて浦賀港に入航し、江戸城に洋式大砲を向け、幕府に開国を迫った。

近代文明で武装した〝黒船四杯〟の衝撃により、神君家康以来二百六十年続いてきた「泰平の夢」は、いとも簡単に打ち砕かれた。この事件が、「軍艦四杯」に「茶四杯」を懸けて「たった四杯で夜も眠れず」と揶揄(やゆ)されたことはあまりにも有名な話である。

あくまでも鎖国を守り、家康公以来の旧体制(徳川幕藩体制)を維持し、伝統的武備をもって国防に当たるのか。あるいは、西洋の文明と技術を取り入れた新しい体制(近代的国家体制)を作り上げ、海防と国防を強化して国の独立を守り、殖産興業・富国強兵を図って欧米列強に抗していくのか。日本の輿論はいずれの道を行くのかを巡って沸きに沸いた。

そして、勉三が生まれた翌年の安政元年一月、七隻の軍艦を率いて再び来航したペリーが神奈川沖から江戸湾に臨むと、ついに幕府は恐る恐る鎖国の禁を破り、下田・箱館の二港を諸外国に開いた。以後徳川の天下は「尊皇」「倒幕」「開国」「鎖国」「攘夷」を巡り、狂乱と恐慌に包まれていくことになる。

まさに世の流れ、時の流れは「封建の江戸」から「近代文明開化の明治」へと大転換を遂げていこうとしていた。勉三が生まれ育った時代とはまさにそのような動乱維新の時代である。

しかも、ペリーとその黒い艦隊が入港し、ハリスが領事館を開いた下田港は、勉三が生まれ育った大沢村から歩いてわずか一刻(いっとき)(現在の二時間余)ばかりの地にあり、山一つ越えればそこはハリスのいる下田であった。

当時伊豆下田港は江戸へ向かう廻船の要路であり、近海を帆走する船の風待ち港として重要な役割を果たしていた。この下田開港は、江戸湾入口に位置する江戸防衛要衝の地であった横須賀港の開港を避けたいとする幕府苦慮の結果であった。

当然のことながら、太平洋の彼方から上陸して来た(まばゆ)いばかりの西洋文明は、三余塾や依田家のあった伊豆山峡の村々にも新しい風となって吹き込んだ。依田家に真っ先に新文明の香りをもたらしたのは長兄清二郎(後の佐二平)である。いつの時代にあっても若者は鋭く時代の流れを見抜き、本能的に古臭い因習・制度からの自由を求めていて、微かな新風にも敏感に反応するものである。

三余先生はアメリカ領事館が開かれると、早速門弟の清二郎十一歳を連れて下田に向かった。黒船を見学し、直接異人と交流し、鉛筆・画用紙・ガラス瓶などの珍品を手に入れた。それだけでなく、清二郎に鉛筆と画用紙を与え、黒船を写生させた。三余は後に自らも横文字の練習を始めている程異国文化に強い興味を持っていた。もっともこうした三余先生の行動も当時の下田においてはそれ程「特異」と見られることはなかった。

領事ハリスも他の異国の訪問者も皆下田の住民に接し、一様に目を瞠った。

「この国の人民は決して豊かな生活を送っているようには見えないが、皆清潔で、素朴で、楽しそうに暮らしている。その上大人も子供も男も女も皆好奇心に溢れ、異国人に対して臆する所がなく、友好的で、交際を好み、よく笑い、実に親切である」と。

勿論当時の日本は、地方によっては一揆や打ち壊しが頻発している所もあり、決して日本人民皆が「楽しそうに暮らしていた」わけではない。彼ら異国人訪問者は、既に弱肉強食たる資本主義の導入によって悲惨な境遇に陥っていた欧米労働者の悲惨な群れを目の当たりにしていた。それ故に「日本の多くの下層階級は貧しくはあっても人間らしさと好奇心に溢れている」事実に驚かされ、感動したのである。

その下田港から帰った夜、清二郎は四歳になったばかりの勉三を捉まえ、興奮気味にその日の体験を語った。そして、マストに日の丸を翻らせた黒船のスケッチを見せ、師三余の「いずれ日本の港から異国に向かって日本の黒船が出航していく日が必ず来る。お前さん方はその日に備えてしっかり学んでおかねばならないのだよ」との言葉を熱く語った。

勉三はわくわくする気持ちと同時に、何か身が引き締るような気持ちに襲われていた。そして強く願った、早く塾に入り三余先生の教えを受けたい、と。

 

  (2)

安政六年(一八六三年)五月半ばの吉日

七歳の誕生祝を迎えたばかりの勉三は、羽織袴で正装した大沢村名主・父依田善右衛門に手を引かれ、初めて三余塾の門を(くぐ)った。

勉三の父善右衛門は松崎の依田分家塗り屋から養子に入った人で「堅実を絵に描いたような」というのが専らの評判であった。三余夫人のミヨとは実の姉弟関係にあり、その縁で当然の事ながら三余の土屋家とは頻繁な行き来があった。

「わざわざ吉日を選び、他所行きの着物まで着て行くなんてなんて大げさな……。塾に入るということはそれほどの大事なことなのか!」

子供心にもこの入門が人生の大きな節目になるのだということが重々伝わって来た。子供の入門に際してはどこの父兄も皆他所行きの着物を着込んでやって来るのであるが、ここまできちんと正装して来る例はあまりない。

土屋家の母屋の裏にあった真新しい塾舎の玄関を入ると横長に広い上がり口があり、その先に三十畳もあろうかという講堂兼食堂が広がっている。優に四十人は座れそうだ。一番奥に箱膳を重ねた棚があった。左右には八畳敷の四つの学習部屋兼寝室と、塾頭・当番用の小部屋が並んでいた。部屋の隅に積まれた寝具は薄い敷布団と小さい夜着のみだ。それまでの塾のあり方とは全く異なる「耕学両立・師弟同居・全員寄宿」の新しい形の塾、それが三余塾であった。

塾舎は新しく建てられたばかりである。もっとも新塾舎完成間近の一昨年秋、大暴風に遭い、一度は全壊させられるという憂き目に遭っていて、再度建て直しされたものだった。そうした天災をものともしないミヨ夫人の“内助の大功”を得て直ちに再建に立ち上がり、今日を迎えていた。

この日、塾生は皆農事に出ているらしく、中は閑散としていた。当番生が一人残っていて先生への取次ぎと案内役を引き受けていた。

広い講堂兼食堂の右側の並びの一番奥に三余先生専用の部屋があった。父善右衛門は先生と日頃の無沙汰を詫びる挨拶を取り交わした後、

「これが勉三です。何卒、清二郎同様、よろしくお願い致します」

と、深々と頭を下げた。その脇で勉三も体をこわばらせ、ぎこちなく頭を下げた。

「確かに、お預かり致しました。勉三君の勉の字は“人の及ばぬことも努め励む”というのがその字義です。どうかその名に恥じないように勉学に(いそ)しんで下さい」

勉三は、そう語る三余先生の眼差しの強さに圧倒された。そして反射的に再度額を畳に擦り付けながら〝人の及ばぬことも努め励む〟という名前に恥じない人間になろうと、心に固く誓った。

着古した洗いざらしの(あわせ)(はかま)に身を包んだ師は勉三の顔をひたと見詰め、丁寧に頭を下げた。そこには以前に嗅いだことのある親戚同士の馴れ合った空気は微塵も流れていなかった。勉三は三余先生のそのあまりに丁寧な言葉遣いと所作に驚きを禁じ得なかった。何か急に自分が大人になったかのような気がして、あらためて己の身を正さずにおれなかった。

一通り入門挨拶が終わると、三余は当番生が持って来たお茶を善右衛門に勧め、自分もゆっくりと口に運びながら、一転して今度は柔和な顔で、

「随分大きくなったものだね。明日の郷土、明日の日本に光が射すかどうか、全ては君たち青年の肩にかかっているのだ。怠ることなくしっかりと学んでいってもらいたい」

と、つくづく勉三を眺めた。

三余は、久しぶりに会う眉目の美しいこの若者に、彼をひたと見詰めるその眼差しの奥に、一途でひた向きな性向を見出し、ふと遠い若き日の自分を思い起こしていた。

勉三は先程とはうって変わった、いかにも農夫然とした師三余の、その茫洋(ぼうよう)たる顔と慈愛をたたえた微笑みにフッと緊張がほぐれ、不思議な安堵感に包まれた。これが「師三余」と「門下生勉三」の初めての出会いであった。

先生と父親が世間話を始め、勉三はようやく落ち着いて部屋の中を見渡すことができた。先生の背の後ろにも、対面している自分の後ろにも、山のような本が崩れんばかりに所狭しと積まれている。そう言えば、幾分黴臭い本の臭いが部屋中に漂っている。勉三などは知る由もないことであったが、三余の手元には、史記から元史までの中国歴代の史書二十一史が全部揃っていた。これらは田舎には滅多にない大変珍しい蔵書で、「中村の大屋の宝物」と言われた程のものであった。

「村の衆が『三余先生は本を買いすぎて家産を傾けた』と噂するのを耳にしたことがあったが、本当のことだったのだ」

勉三はこの本の山に、というよりそこに籠もっていた師三余の学問に対する溢れんばかりの情熱に圧倒された。

勉三が三余先生の薫陶下にあったのは、この入門の日から慶應元年末に三余塾の看板が下ろされる日まですなわち七歳から十四歳までの僅か七年間である。

その七年が勉三の一生を決めた。

「三つ子の魂百までも」という俗諺(ぞくげん)がある。また「大いなる思想・精神・観念が人の心や魂を強く捉えるや、それは巨大な物質力に転じ、大いなる行動力を生ぜしむ」という名言がある。確かに、幼少期に受けた思想的・精神的影響がその人間の一生を左右したという例は歴史上少なくない。

いずれにせよ、勉三は父に連れられてこの三余塾への入門を果たした日の喜びと感激を、生涯忘れることがなかった。

 

  (3)

ここで、勉三に決定的な影響を与えた三余の人となりについて少し立ち入って語っておこう。

「書を読むはまさに三余をもってすべし。冬は歳の(あま)り、夜は日の余り、雨は時の余りなり」

 中国の史書【()(りゃく)』に記された故事の一節である。西伊豆の草深い片田舎に開かれた学塾三余塾の師「土屋三余」の名はこの故事に由来している。

昔、魏の国に(とう)(ぐう)という人がいた。長じて大司農(財務大臣)という高官に上り詰めた人物である。若い頃、実直にして学を好んだ彼は兄と共に農事に励みながら、少しでも仕事の手が空き、(ひま)が余るとすぐに読書に没頭した。官職に就いてからも学問をよくしたので、周囲から「教えて欲しい」と()われることが多かった。そんな時、董遇は直ぐにはその申し出を引き受けようとせずこう答えた。「必ずまず読むべし。読書百遍おのずから()あらわる」と。教えを請うた人々は大抵こう言い返した。「私はそんなに読書をするだけの時間がないので苦しんでいるのです」と。その時、董遇は冒頭の言葉を以って人々を諭した。

土屋三余はこの故事を好み、座右の銘とし、自らの号としたのである。

勉三や門下生に多大な影響を与えた土屋三余本名は宗三郎、伊豆中村の大屋(おおや)(庄屋)土屋家の十二代目として文化十二年(維新の五十四年前)に生まれている。六歳で父を、八歳で母を失い、たった一人残され、母方の実家斉藤家に引き取られた。養家の主は少年の学問好きを見込み、地元にある寺小屋浄観寺和尚本多正観(ほんだしょうかん)の開く寺塾に通わせた。和尚は村の鉄砲鍛冶が出自で、京の本寺で学んだ後、琉球イグサ栽培の技法を持って故郷に帰り、これを広め、郷土に尽くした逸材である。この師の下で宗三郎の学問は、周囲が目を瞠るほどに進歩を遂げた。

彼の性格をよく物語る、また後の三余塾誕生の原点ともなった興味深いエピソードがある。

宗三郎十二歳のある夏の日

雨模様の夕暮れ時のことであった。イグサの大束を背負って帰りを急ぐ老百姓の後を追っていた宗三郎は、陣屋侍の突然の「道を開けろ!」の怒声に驚き、その老百姓もろ共、ものの見事に道端の田溝に転げ落ちた。陣屋侍は後ろを振り向きもせず、傲然とその場を走り去って行った。

(はらわた)の煮え返るような悔しさを覚えて憤る宗三郎をよそに、老百姓も養家の主も「掛川陣屋侍相手ではどうしようもない」と、ただ諦めるばかりであった。

この事件以来、彼は深く考え込むようになった。

 なぜ武士のこのような横暴が許されるのか。何ゆえに士が貴く農が賎しいとされるのか。天下を天下たらしめ、これを支えているのは古来百姓農民に他ならないではないか。その百姓農民がなぜこのような惨めな扱いを受けねばならないのだ。百姓は武士に対してなぜあんなにも卑屈に振る舞うのだ。なぜ牛馬のように黙って言われるがままなのか、と。

この彼の深刻な問いに師の浄感寺和尚はこう答えた。

「それは百姓に学問がないからなのじゃ」と。

彼の脳裏に「農たる者の誇り、将たる者の務めを忘るな」との家伝の教えが浮かんだ。彼はこの時「百姓農民の為の学塾」の開設を決意する。

元々土屋家の先祖は伊豆一帯の支配者小田原北條氏に仕えた(ごう)(ざむらい)(農村に土着した武士)であった。その二代目は小田原征伐を行なった豊臣軍の蛮行を目の辺りにし、武士の世界につくづく嫌気がさした。それで小田原城陥落後、腰の大小を投げ捨て、中村の農となって土着し、後に近隣十ヶ村の名主となり、村々の守護に尽くすようになったのである。宗三郎が心に刻んでいた家伝の教えとはこの二代目に由来するものであった。

「士が貴く農が賎しいなどということはない。天下国家を根本から支えているのは古来勤労者たる百姓農民ではないか」―この十二歳の夏の体験によって刻まれた覚悟こそが宗三郎を支える根本精神となり、三余塾開設の原点となり、やがて勉三らに引き継がれていくのである。

開塾を決意した宗三郎は、十七歳の春、江戸遊学に上り、九年の間学問に打ち込む。彼が江戸で過ごした天保期はまさに「内憂外患」の大混迷の渦中にあり、徳川の時代が大きく変化し崩壊していく兆しが見え始めていた頃である。それは「歴史の曲がり角」に位置する激動期に他ならなかった。

この頃、相次いで冷害・飢饉が発生する。その惨状に対して全く無策無能の幕府・藩政、これを糾弾する「大塩平八郎の乱」や「三河加茂一揆」等々の一揆・打ち壊しの頻発。また開国を求めて押し寄せる欧米列強やロシア帝国、危機を訴える開明派の台頭。こうした事態に恐怖した幕府は力で民衆を抑え付け、鎖国を固守し、右往左往を繰り返すばかりであった。

苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)(税金を厳しく取り立てること)への反抗、海防・国防を巡る抗争が頻発し、二百五十年余続いた「徳川の天下」が大きく傾き始めていた。

更にこの天保期に徳川幕藩体制を根底から揺り動かす大事件が起こる。「モリソン号砲撃」と「(ばん)(しゃ)(ごく)」がそれである。鎖国令の下、「異国船打ち払い令」を厳守する浦賀奉行が日本人漂流民を護送して浦賀沖にやってきた米国のモリソン号を砲撃するという不祥事が起こり、幕府の鎖国主義への批判が一気に火を噴いた。これに対して、幕府は鎖国政策を激しく批判する蛮社の蘭学者たちに容赦のない弾圧を加えた。「蛮社の獄」である。彼らは密かに「開国」を論じ、『三国通覧図説』や『海国兵談』等の著作を通じて早くから欧州列強とロシア帝国の「植民地化政策」に警鐘を鳴らし、海防の重要性を説いていた林子(はやしし)(へい)蒲生(がもう)(くん)(ぺい)やらを擁護していた。「モリソン号事件」についても頑迷固陋の幕府を厳しく批判していた。

この「蛮社の獄」によって〝時代の危機〟は一気に白日の下に晒される。いつの時代においても、こうした世の中の危機に鋭く反応し、目覚め、立ち上がって行くのは若者である。当然のことながら若き宗三郎もまたこうした時勢に揉まれ、学友たちと切磋琢磨し、新しい思潮に目覚めていった。

宗三郎が特に親しく交わったのは六歳上の(しお)(のや)(とう)(いん)であった。勤皇思想と尊皇攘夷の(さきがけ)たる高山彦九郎に敬服し、「余は士にして儒に非ず」(自分は行動する人であって学問をするだけの人間ではない)と豪語した江戸の人である。農の出自を誇り、大いなる気概をもって学問に取り組んでいた骨太の宗三郎が気に入ったらしく、各方面に引き回してくれた。

宕陰の顔の広さは当代随一で、宗三郎が諸国の有能の士安井(やすい)(そっ)(けん)芳野金陵(よしのきんりょう)松本(まつもと)(けい)(どう)小倉(おぐら)(こん)(どう)らと深く交わることが出来たのは彼の手引きに()っていた。

宕陰は後に『()芙蓉(ふよう)()(ぶん)』を著し、アヘン戦争におけるイギリス帝国の中国侵略・香港占領の非道極まりない実態を伝え、天下の憂国の士や宗三郎に強い影響を与えている。

また宗三郎は、江戸の和学塾に学んでいた一時期、勝海舟と席を並べたことがあった。ある日、

海舟と二人、熱中して時勢を語り合う機会があった。この時、「草莽(そうもう)すなわち百姓町民、人民のことを忘れては将軍の御世も天皇の御世もあったものでない」「処世(しょせい)の大事は無私献身・誠心誠意をもって祖国と人民に尽くすにあり」という一念において互いに深く共感し合ったことを、宗三郎は終生忘れることがなかった。

「時勢が人を造るのだ」これは海舟が好んでよく使った言葉である。確かに時代はその時代が必要とする人物を造る。その時代に生きる人々は多かれ少なかれ時勢によって鍛えられ、時代が生んだ様々な思想家や書物などから学び、その持てる能力に応じて自己を造って行く。そしてまた時代はそのようにして自らが造り出した人物を通じて新しい時代を切り開いていく。

 幕末といういわば民族と国家が危機に瀕した時代が、先進的で革命的な救国の志士勝海舟、佐久間象山、横井小楠、平野國臣、吉田松陰、西郷隆盛、坂本竜馬、高杉晋作、大久保利通、黒田清隆、あるいは福沢諭吉・大隈重信といった人物を生み出し、やがて彼らを先導者として時代の根本的転換を成し遂げていくのである。

故郷の伊豆中村に帰った後も、三余は尊皇討幕派の志士たちと深い親交を重ねた。後に天誅(てんちゅう)(ぐみ)総裁となり、幕府大軍によってその倒幕決起を大和国十津川(とつがわ)(現在の奈良県十津川村)山中に壊滅させられ、壮絶な敗死を遂げた松本奎堂。吉田松陰と懇意で、下田における「松陰密航事件」の周辺でこれを支え、密かに現地斡旋に動いた小倉鯤堂。彼らはいわば幕藩体制の変革を目指した維新革命家であった。当然、彼らと深い交わりを持っていた三余もまた幕藩体制の厳しい批判者、改革者の一人であった。

しかしながら彼自身は、ついに倒幕政治運動に参加することなく一線を画していた。三余塾の傾向は政治志向の強い松陰の松下村塾などとは異なっていた。この点で、むしろ緒方洪庵の率いる(てき)(じゅく)に近い。勉三が適塾門下生福沢諭吉創設の慶應義塾に学んだことや、開拓事業において政治方面にやや距離を置いた理由の一端もこの辺にあった。

幕末から維新にかけて、草莽(そうもう)すなわち民百姓が明確な政治意識をもって倒幕運動に決起したという例は決して多くはない。長州藩の奇兵隊などの諸隊、北相馬の赤報隊など数えるほどの例しかない。三余畏友である松本奎堂の天誅組の下に戦った十津川農民も大半は郷士の出であって、農民兵とは言い難い。しかもこれらに加わって戦った農民町民兵は最後には皆官軍・新政府に切り捨てられ、惨めな結末を遂げている。

幕末混乱期に、相次ぐ物価高騰・重税・軍役・軍用金に耐えかねて起こされた打ち壊しや各地の一揆も、「ええじゃないか」の一大乱舞も、幕府と封建制度の土台石を揺るがせはしたが、ついに倒幕に向かって蜂起するまでには至らなかった。

徳川幕藩体制下で呻吟する圧倒的多数の農民町民の代表者となって、倒幕運動を直接担った根幹の力は、「百時御一新」「万民苦救済」を掲げた薩長土肥を中心とする数多の下級武士団であり、三井・住友・鴻池などの大商人であった。

奥伊豆界隈の村の百姓衆も、下田周辺に吹いていた風即ち将軍家の世が終わって新しい世が開かれていくという「維新の風」を十分肌に感じてはいたが、相変わらず日々の農事に(いそ)しんでいたのである。

理屈はともあれ秀吉の刀狩から既に二百数十年余が経ち、今更刀や槍を持って世直しに立ち上がろうなどとは思いもよらなかった、というのが実情であった。「維新(いしん)放伐(ほうばつ)(徳を失った君主の討伐と御一新)は()(ぶん)の仕事」というのが農村庶民の一般的な感じ方であった。

これが幕末日本の農民の置かれた状況であり、そこに歴史の発展段階があった。歴史は常に一直線にばかり進むものではない。様々な制約は不可避であり、紆余曲折を経て、あれこれの経験を積みながら、一歩一歩前進して行くのを常とする。

三余はあくまでも農の世界にとどまり、あくまでも農の中から、新しい明日の農を担う人材を育てることを自らの使命としていた。「農たる誇りを決して忘れることなく、農もまた農として世の為人の為に尽くさねばならない」三余が勉三始め若き門下生に説いた教えはただこの一事にあった。ここに三余の三余たる所以があり、三余塾が日本の近代史に占めた独特の位置があったと言えよう。

 

  (4)

三余先生の教授方法、塾生の修業方法とは一体どんなものであったのか

三余塾へ入門してしばらくの間、勉三の毎日は緊張の連続であった。が、塾頭を務めていた兄清二郎の助けもあり、やがて三余塾独特の生活スタイルにも馴染み、「徳行(とくこう)」の札が掛かった部屋の同年輩の五、六人の仲間ともすぐに打ち解けることができた。

この塾では風呂を立てるのは月三回だけであったが、驚いたことに一番年少の者から使い、順次年長の者に及び、最後に先生が入った。当時の常識では全く考えられないことで、入門当初一番風呂に入れられた勉三は落ち着いて湯に浸かることができず、早々に飛び出し、先輩塾生の笑いを誘ったことである。

風呂の順番もさることながら、勉三が更に驚いたことは、三余先生が全ての塾生を「さん」付けで呼んだことだ。このことは当時の長幼の序の厳しい封建の世では特筆に価する。そこには塾生を自分と同じ一個の人間として尊重し、深い愛情と信頼と厳格さをもって導かんとする三余の強烈な人間主義(ヒューマニズム)があった。

更にまた炊事もすべて先生がこれを行なった。一汁一菜が原則で、質素この上もない。時にはアクの抜かれていない蕗や山菜が出てきたり、腸を抜いていない鮒が汁に入ったりと、塾生は皆その不味さに大いに閉口した。が、先生は全く意に介する風もなかった。ただ、食事には袴着用が義務付けられ、礼儀と姿勢を正しくし、食と農に感謝を捧げてから箸を取らねばならなかった。

塾の維持費は金ある者が納めた月俸(月謝)、物ある者が納めた米・麦・野菜・魚・山菜、塾生の産する穀物・野菜等によって賄われ、不足は先生がこれを補充した。

月謝は特に決まっていたわけでなく、父兄の意のままで、「これは孔子も取られたから」と入門料だけは受け取ったが、それ以外に謝礼を求めることはなかった。

「塾生の産する」とは先生・塾生とも必ず割り当ての田畑を持ち、各自が責任を持って耕作し、収穫を計ることになっていた穀物や野菜のことである。

また塾生は朝起きるといっせいに三余作詞の「姑息(こそく)(ぎん)」「莫懶歌(ばくらんか)」というものを唱和し、朝の勤めを果たすことになっていた。四章八十字からなる「姑息吟」は、姑息すなわち一時逃れを排し、日々休むことなく学問に(つと)めよと謳い、五章百字からなる「莫懶歌」は、(おこたる)ることすなわち怠けることなく、早起き、清掃、音読、敬人、忠孝、学問に努め、(じょ)(人への思いやり)を厚くせよ、と謳っていた。「姑息と怠惰」は三余の最も嫌ったことで、勉三は生涯この教えを厳守したが、その厳しさが時として彼を必要以上に孤高の存在たらしめたと言えなくもない。

毎日早朝、若者達がこれらの詞を唱和し、経書(けいしょ)(儒学の経典・教科書)を勢いよく音読する大きな声が辺りの山峡に木魂(こだま)し、村人の朝を弾ませた。

先生の講義は日本国史における実例を引き、それを儒学における哲理によって深めるというもので、空理空論を排し、何よりも哲理の実践を求めた。しかも先生は儒学に潜む「身分差別」士族中心主義を排し、「農もまた士の志を持って学べ」という主義であった。

 がしかし、先生は決して謹厳実直ばかりの人ではなかった。夕食時には酒を楽しみ、塾生に作詩を勧め、共に吟じ、和気藹々と過ごした。天気のよい日は野外に出て学び、若い塾生達が裏の「ころげ場」と呼ぶ(ほり)(みず)の土手の上で押し合いへし合いして戯れる様を笑って眺めていた。毎月天満宮祭礼の日の前後は休息日とされ、四、五日家に帰ることも許されていた。

勉三ら塾生はこうして常に先生と起居を共にし、身近な先生を範として礼節を学び、先生の講ずる史学・儒学から時代の先頭に立つ者としての心得と哲理を学び、集団的共同生活の中でお互いに助け合い、切磋琢磨し合い、その見識を深めていったのである。

 

  (5)

勉三の親友であった塾生()(すけ)の存在が三余塾の性格を実によく物語っていた。

勉三入門二年目の夏、「柄在(からざい)の伊助」が、三余塾にやって来て、時々「無名(むめい)(くつ)」に寝泊りしながら勉学に打ち込むようになった。無名窟は塾舎の一番奥にあり、家が貧しく時折にしか学びに来られない者、晩学・学習遅滞者のための宿泊兼学習部屋だった。

「柄在」というのは「小作水呑み百姓」のこの地方独特の呼び名である。これらの家はどこも貧しく、子供も朝から晩まで家の手伝いに駆りだされ、とても勉学どころではなかった。実際、三余塾の門下生もそのほとんどが土地持ちの本百姓の子弟か商家や職人の子弟であった。

伊助を塾に入れたのは三余先生だった。たまたま畑の土に棒で熱心に「いろは」を練習している伊助の姿が目に留まり、雨の日や仕事が早く終わった夕べは塾に来させるよう、父親に掛け合ってくれたのだ。勿論月謝など不要ということであったが、伊助は仕事の帰りに茸・山菜・木の実などを沢山採って来ては塾の食卓を賑わせ、皆を喜ばせた。

無名窟にはたいてい五、六人が寝泊りしていたが、専らその世話に当たっていたのは塾頭の清二郎であった。偉丈夫で、学問に優れ、人望も厚く、いささかも偉ぶったところのない清二郎は皆に頼りにされていて、うってつけの塾頭であった。卑屈になりがちな無名窟の門下生達も彼の優しい人柄に触れ、すぐに懐いた。特に伊助は自分のような者を「伊助さん」と呼び、勉学だけでなくあらゆる面で細やかに気遣ってくれたこの塾頭を崇めんばかりに敬っていた。

その塾頭の弟で同い年ということもあってか、勉三と伊助はすぐに親しい友達になった。きっかけは、身体の汚れに気後れし入浴を遠慮していた伊助を、勉三が根気よく誘い続け、ついに一緒に風呂桶に飛び込んだことにあった。

「伊助さん、あんたの身体の汚れは野良の仕事の汗と泥、武士でいえば戦場で浴びた返り血、百姓の勲章のようなものだ。なんで恥ずかしがることがある!」

という、勉三の叱責にも似た忠告の言が、伊助の頑な「身分意識(コンプレックス)」を打ち砕いたのである。

その伊助の居た無名窟の塾生たちが三余先生の下で担当農事として養蚕に当たることになり、これに清二郎・勉三が協力することになった。

先生の話では、今でもこの地域に自生の桑の木が見られるが、昔はこの辺りでも盛んに養蚕が行なわれていたというのである。大沢村の依田家の裏山にある大きな桑の木はその頃の名残だという。結局、蚕の養育が難しく、収穫が安定しないため、いつしか携わる家がなくなってしまったらしい。だが今でも大沢の奥地の山家では、僅かな年寄りが自家用にと蚕を飼い、糸を紡いでいた。

三余先生が養蚕に目を向けた切っ掛けは、江戸の友人から貰った便りに書かれていた、「異国人は日本の繭を大いに好み、高値で買い取っている。繭こそは日本の国を富ませる金の卵だ」という一文にあった。

「今は色々な蚕種があり、この地域に合うものがあるかもしれない。あれこれの蚕種を試してみよう。うまく行けば、この地域にとっても、わが国にとっても大きな幸運をもたらす事業になるはずだ」

というのが三余の考えであった。

三余は清二郎や伊助らを山家の老婆の元に送ってその養蚕法を学ばせ、時々松崎辺りにまで足を延ばす信州の繭商人を茶呑みに誘い、必要な知識・技術を仕入れた。

無名窟には年上の者も何人か居たが、伊助のこの仕事への打ち込みようは並大抵のものではなかった。新しく手に入れた蚕種を教えられた通りに忠実に養育するために、蚕室用に改造された物置に寝泊りし、それこそ寝食を惜しんで世話をし続けた。確かに、室温や餌の時間や桑量の管理などいささかの油断も許されなかった。毎朝毎晩大沢の裏山に通い、新鮮な桑の葉を摘む作業も絶対に欠かしてはならないことであった。伊助はこれらの世話や作業を喜んで引き受けていた。

勉三と清二郎は専ら観察と記録面で彼らを支え、留守中には餌やりを手伝った。伊助らを幾分軽く見ていた塾の仲間の目もやがて一変し、自然に協力的で激励的な雰囲気が生まれていった。

ある日、勉三が、

「伊助さんにとって蚕は弟妹のようだね。いつか蚕が伊助さんを助けてくれるにちがいないよ」

と言うと、彼は激しくかぶりを振り、

「いいえ、お蚕様は私のものではありません。断じて!」

と、強く言い放った。

勉三の予測に反し、養蚕がいずれ自分の身の助けになるから、という言葉も口にしなかった。

「もし養蚕を再び興すことができれば郷土の為になり、日本国の為にもなる、先生はそうおっしゃって私たちにこの仕事を担わせてくれたのです。そんな大それたことが、この私のような柄在の貧乏ったれにできたとしたら、それはもうどんなにか……」

と、伊助は目に涙を滲ませた。

勉三は胸の奥がジーンとなり、何か熱いものが込み上げて来て伊助の顔が歪んで見えた。

「そうだ、自分たちが今ここで学んでいることはすべて郷土のため、日本国と人民のため、それが三余先生の教えだ。他の誰よりも自分自身の土地財産が欲しいはずの伊助さん…、それなのにこの俺は……」

勉三は自分の甘さ愚かさを恥じ自らを強く責めた。

この養蚕実験が二年目に入った夏、突然伊助は塾を去らねばならなくなった。父親が無理をして借りた川沿いのイグサ畑が大水に流され、借金の(かた)にやむなく彼は京都の畳屋へ奉公に上がらねばならなくなったのである。

しかしながら、別れに際し、彼はいささかも落胆したふうを見せず、

「我が家には土地財産は何もありませんが、ここで学んだことこそ私の生涯の財産です。それに後に思い残すことは何もありませんし……」

と、笑って見せた。

伊助が尊敬措く能わざる清二郎は、彼のこの養蚕実験に込めた「世のため人の為に」という篤い志を受け止め、残った無名窟塾生と力を合わせて、この実験を最後まで必ずやり遂げることを約束してくれていた。それが伊助にとってはこの上もない(はなむけ)だった。

後に京都で腕の良い畳職人となった伊助は、政府の廃仏(はいぶつ)毀釈(きしゃく)により困窮に瀕した寺々を訪れ、その修理修復を無償で引き受けた。更には、その優れた美術的文化財的価値を訴える岡倉天心らを助け、古都に残された寺院の保護保存の為に惜しみなくその生涯を捧げている。

清二郎もまた、維新後にこの地方に早場繭を産する養蚕事業を興し、松崎を日本有数の繭の産地に仕立て上げている。言うまでもなく勉三もこの事業に加わり、よく兄を助け、三余先生と伊助ら無名窟住人の夢の実現に力を尽くした。

勉三の心の奥底に、三余先生の「農もまた私を去って郷土、国家と人民の為に尽くさねばならぬ」という教えが、伊助の思い出と共に鮮明に刻み込まれた。

 

  (6)

勉三が三余塾門下生となって五年目、十二歳の残暑厳しい九月の出来事であった。

その日の昼下がり、勉三は自分に割り当てられた三坪ばかりの畑の水遣りにやって来て、そこでとんでもない光景を目の辺りにした。一つだけようやく実を付けた自分の畑の冬瓜(とうがん)の皮面一杯に、幼く拙い「へのへのもへじ」が墨黒々と悪戯(いたずら)書きされていたのだ。周りにいた塾生たちは一斉に笑い転げた。勉三はその光景に対しても、周囲の笑声に対しても、無性に腹が立ってならなかった。その冬瓜を自分が丹精込めて育てて来たからというだけの理由ではない。落書きそのものは幼い者の単なる悪戯で、一雨降ればすぐに消えてなくなる体のものだ。笑って見過ごそうと思えば見過ごせなくもない。

この時、怒りを禁じえなかった勉三の脳裏には先生のある言葉がそれこそ「墨黒々と」焼き付けられていた。

それは次の二句であった。

(こく)(さい)は命の本にして、農は国の大本なり」(穀物や野菜は生命の根源的な糧であり、その種を播き、苗を育て、実を稔らせる農業こそ国家の存立を支える根本的基盤そのものである)

「天地自然は無を有と成し、小を大と成す。これ無限の天恵なり」(大自然は無即ち一個の小さな種を生長させ、有即ち多大多量の作物を稔らせる。これこそ天が人間に与えた無限の恵みであり、感謝に堪えない幸せである)

憤懣やる方ない勉三であった。

「門下生は皆、午前中の手習いで、三余先生の書を習字の手本に、この二句を熱心に学んだばかりではなかったのか。どうして皆これを笑って済ませることができるのだ!」

この騒ぎを聞きつけて三余先生がやって来た。

先生はこの光景を見ると、黙ってその場を去り、やがて羽織袴に身を正し、真っ白い濡れ手拭いを手にして戻って来た。

そして、落書きされた冬瓜の前に正座し、深々と頭を下げ、一言、

「わたくしの指導が至らず、まことに申し訳のないことを致しました」

 と謝罪の言葉を述べ、手拭いで丁寧に墨を拭った。

 勉三の目には心なしか先生の小さな肩が細かく震えているように見えた。

勉三はハッと弾かれたように先生の後に這いつくばり、我知らず頭を下げ、額を地に擦り付けていた。この光景を呆然とした面持ちで見ていた周りの若者たちもその場にいっせいに(うずくま)り、額を土に付けた。

暫く後、三余は静かに立ち上がり、天を仰ぎ、声を放った。

「穀菜は命の本にして、農は国の大本なり。天地自然は無を有と成し、小を大と成す。これ無限の天恵なり」

そして諄々(じゅんじゅん)と諭すように若き門下生に説いた。

「この一個の冬瓜こそが生命の本であり、この一個の冬瓜を育てた農の力こそが国の糧食を(まかな)い、人民の暮らしを支えるのです。農こそ国の大本とはそういうことです。しかも、この一個の冬瓜の玉もまた天地大自然の健やかな運行の恵みによって成ったものであり、天地大自然が生んだ偉大なる果実であり、天が人間に与えた宝珠(ほうじゅ)に他なりません。(おろそ)かにして良いはずがありません」

勉三ら若き門人の目に涙が浮かんだ。

三余先生の全人格とその哲理・思想が彼らの魂を捉え、その深部に火を灯した瞬間であった。

実は勉三ら塾生の全く与り知らぬことではあったが、文久三年九月この出来事が起こる直前、三余の畏友たる天誅組総裁松本奎堂が「大和(やまと)義挙(ぎきょ)」に敗れ、奈良十津川山中に惨死を遂げていた。

都に居た友人の小倉鯤堂からその報せを受けた日、先生は密かに一日喪に服し、見えざる「奎堂の霊」に向かい、自らの使命達成に命を懸けんとの誓いを捧げたのであった。

あたかも時代は薩長同盟密約がなり、革命維新はいよいよ倒幕蜂起に向かって突き進んでいた。維新成就の二年前勉三満十二歳の冬、病に倒れた先生は塾の看板をおろし、翌慶應二年七月二十四日、静かに息を引きとった。

以後四年間、勉三は伊豆の僻村(へきそん)にあって、兄佐二平(幼名清二郎)が自邸内に開いた大沢塾の運営を手伝いながら、いずれ「江戸」から「東京」へと呼び名の変わった首府へ出て洋学・英語を学ぶべくひたすら準備を進めていた。




【第2回目掲載 2023年4月】


  

  一部 立志篇 


  第一章 形見の言葉 


  (1)

時は幕末、維新を(さかのぼ)ること二年前慶應二(一八六六)年夏のことである。

「この(わし)に果たすべき使命がある、というのか……いったい如何なる使命が…」

小高い山頂の昼下り、大樹タブノキの木陰に立った一人の若者がそう呟きながら西に広がる駿河湾松崎の海をじっと眺めていた。

歳の頃十三、四。(あお)い山肌を伝う涼やかな南風が勢いよく吹き上げ、しばし山頂に渦巻き、若者の無造作に束ねた髪と日焼けした汗まみれの顔を心地よく撫でて行く。

固く握り締めた両の拳、大地をしっかと踏ん張る両の脚、汗を浮かべて光る両の頬。いかにも新しい旅立ちの時を迎えた若武者といった風情である。が決して偉丈夫というわけではない。身は細く、背丈も決して高くはない。

だが、彼方の大海に向けられたその奥深い眼差しは、この若者の思慮深さとともに何か遠大な夢を追い求めて止まない一途さを窺わせる。太い眉ときりっと締った眉根には内に秘められた烈しい気性と熱情とが見て取れる。幾分角張った顎と堅く結ばれた口元は若者の並々ならぬ意志力、頑固さを示していた。

この若者後に北の原野十勝野の開拓を志すことになる豪農依田家の三男勉三が立つ熊堂山の頂からは、彼を生み育ててくれた狭いながらも愛すべき郷里が一望でき、さらに遠く世界に広がっていく大海を垣間見ることができた。

勉三が生まれ育った伊豆半島は「陽光燦然として気候温暖の地」であり、夏は全島がむせ返るような濃い緑に覆われる。海沿いの至る所に断崖絶壁が立ち、天城山系の裾辺りには山襞に囲まれた細長い平地が形づくられ、そこを流れる川沿いに幾つかの小さな村々が並んでいた。

勉三が今立っている南西伊豆松崎に近い熊堂山はそんな山裾の一角にあり、いくらか平地に突き出た何の変哲もない低い山である。

山の登り口には山名由来の熊野権現堂が祭られ、麓の小さな村中村が一望され、勉三の今は亡き師である三余の生家と、つい先頃まで勉三や村々の子弟が寄宿し学んでいた(さん)()塾の塾舎が見える。

東方に延びる細長い山峡の奥には勉三が生まれ育った大沢村が望める。眼下に奥深い天城山系の懐から流れ下る那賀川が見える。それが夏の強い陽射を浴び、処々に白い煌めきを発しながら青い田畑が連なる細長い谷間を走っている。

最近、勉三は何度もこの熊堂山の山頂に立っていた。ここから見える景色には何かしら彼の心に深く響くものがあった。

昔、この熊堂山山上には学問修行を終えて江戸から故郷中村に帰った師三余が最初に建てた学舎があった。結局、ここには水が無く、すべて下から運び上げねばならぬ不便がつきまとい、一年と経たずに山を降りざるを得なかった。

幼少時に父母を失った三余は、子供の頃からこの山頂からの見晴らしが随分気に入っていたらしい。夕暮れ時、光輪を揺らめかせながら朱玉の夕陽が松崎の海にゆっくりと沈んでゆき、その上空を赤と金色とに彩られた筋雲が細長く漂い始めるそんな穏やかで温かい伊豆の海の夕焼けがとりわけ好きだったようだ。師三余は亡き父母が懐かしくなったり、何かもの思いに耽りたくなったりするとよくここに登ったという。

これらの昔語りは、今は亡き師が何かの折にふと漏らした思い出話を勉三が記憶の底にそっとしまい込んでおいたものだ。勉三もまたここ一、二年の間に相次いで父母を、そして敬愛する師を亡くしていた。そんな似た境遇が、憂鬱に襲われ、何か考え事をしたくなると、彼を師ゆかりの熊堂山の山頂に向かわせたのである。

しかしこの日、山頂に立つ彼の顔つきはいつもと全く異なり、明るく晴れ晴れとしていた。

「勉三には他に果たすべき使命がある」

つい先刻耳にしたばかりのこの言葉今は亡き三余塾の師三余が自分に遺したというこの(かた)()とも言える言葉を、勉三は胸を高鳴らせながら何度も何度も反芻していた。

 

  (2)

師のこの「形見の言葉」を勉三に伝えたのは三余夫人ミヨである。

三余は一ヶ月ばかり前の慶應二年七月二十四日、病を得て五十二歳の生涯を閉じていた。

葬儀の後片付けも終わり、すべてに一区切りがついた頃、ミヨ夫人から勉三に、

「大事な話があるので来て欲しい」

 と、呼び出しがかかった。

十八歳の時、七歳年上の江戸帰りの漢学者三余に嫁いだミヨは、学問と子弟教育に没頭のあまり家産を傾ける夫に代わって家政を切り盛りし、みごとに塾経営を支え、家計を立て直した文字通りの賢妻であった。

彼女の実家は勉三の実家依田本家から随分前に分家した「塗り屋」であり、江戸表に通う船二隻を持つ大地主・大屋(庄屋)であった。松崎界隈随一の財産家で、彼女はそこの五人兄妹中ただ一人の女児で、父親にとってはまさに目に入れても痛くないと言うほどの可愛い娘であった。が決して甘やかされることなく、質素・正直を重んじる家風に従って厳しく躾けられた。

三余が子弟教育に専念できたのはこの妻の〝内助の大功〟があったればこそだというのが親類縁者や村人の専らの論であった。後に、高齢に達した夫人が通りに面した長屋に移ると、村人はその前の道を通る時は必ず被り物を取り、深く頭を下げて通ったという程の女人である。

ちなみに彼女の実弟善右衛門は大沢の依田本家に養子入りして跡を継いでいる。従ってその実弟を父とする勉三とは伯母・甥の関係にあたる。当時は、本家と分家の間でこうした養子縁組や婚姻関係を結ぶことは決して稀なことではなかった。

「大事な話って何だろう。三余先生が亡くなって一ヶ月が経ち、既に土屋家の跡取りも決まっているというのに

「土屋家の跡取り」土屋家に向かう勉三の歩みを幾分遅くさせていたのは、実はこの問題であった。

昨年末、痔の病に倒れた三余が伊豆近隣諸国に有名を馳せた塾の看板を下ろした時、門下生であった勉三は「もっと学問に励み、先生の跡を継いでいつか再び三余塾を復活させたい」という漠然とした夢を抱いていた。しかし死後に布団の下から発見された師の遺書には「土屋家跡取りには依田準次(じゅんじ)を」とのみ記されていて、塾の行く末については一言半句も言及されていなかった。

準次は実家「塗り屋」の家督を継いでいるミヨ夫人の実兄善兵衛の次男で、勉三同様彼女の甥にあたる。勉三とは一つ下の従兄弟同士の間柄で、七歳の時から塗り屋の長兄依田(その)(ぜん)(ろく))と共に三余の薫陶を受けていた。

勉三は自分が養子に指名されなかったことに心のどこかで微かな失望を覚えていたが、誰にも何も言わず、密かに抱いた淡い夢をそっと心の奥底にしまいこんでいた。

土屋家の屋敷門にはまだ三余塾の門札が掲げられたままであった。取り外すに忍びないのであろう。

「勉三です」

と声を張り上げて玄関を入ると、予め言い含められていたらしく、すぐに下働きの女の子が出て来て奥へと案内した。

まだ四十五歳を数えたばかりのミヨ夫人は目の前に客用の立派な絹織りの座布団を置き、三余の位牌と遺骨が安置された仏間の真ん中にぽつんと座り、この若い客人を待っていた。

勉三は黙って夫人に軽く頭を下げ、仏壇に安置されていた師の位牌と白布に蓋われた骨箱ににじり寄り、手を合わせ、身動きもせずにじっと頭を垂れた。

ミヨは昔からこの若者が好きであった。元々勉三は口数の多い児ではなかった。体型も小柄でおよそ偉丈夫という趣はない。無口な性質(たち)ではあったが、その分思慮深く、ここぞというときには自分の考えをはっきりと述べた。かねてより彼女の目にこの若者にはどこか見所があり、人を惹きつけるものがある、と映っていたのである。

今、仏壇の師の位牌・骨箱をすがるように見詰めるその後ろ姿は、大切な師を失い、途方にくれているように見えた。

「ああ、やはりこの児が貴方を一番慕ってくれているのですよ。勉三さんなら貴方の夢を継いでいつかきっとそれを(かな)えてくれることでしょう」

彼女はいかにも嬉しそうに仏壇の夫に話しかけた。

勉三は座布団を横に外し、夫人の顔をまっすぐに見据えて言った。

「伯母さん、随分とお疲れでしょう。跡取りとして準次君が来るということで大事ないとは思いますが、わたしにも何かお手伝いできることがありましたら、どうぞ遠慮なく申し付けて下さい」

「優しい言葉をありがとう。いずれ準次が来て、何もかも引き継いでくれることになりましたからね。私もまだそれ程老け込む年でなし、心配ありませんのよ」

と、自らを励ますように言った。

「準次君は昔から農事に熱心で、よく先生が褒めておられました」

「まぁ、よくご存知ね。ところで今日来てもらったのは勉三さんにぜひ伝えておきたいことがあるからなの。これは主人の、三余先生の遺言と思って聞いて下さいね」

ミヨが元塾生を「さん」付けで呼ぶのは三余譲りである。彼女はあらためて居ずまいを正すと意外な言葉を口にした。

「昨年末、だいぶ気分が良さそうでしたから、主人に、『わたくしは前々から大沢の勉三さんを養子に貰い受けたいと思っております』と、申し上げたことがありましたの」

勿論、勉三が初めて聞く言葉であった。

「ほ、本当ですか?」

勉三は心底驚いた。

「で、三余先生は何と……」

「『勉三には他に果たすべき使命がある。ここの跡継ぎは学者でなく百姓で良い』とただその一言だけでした。担当の畑を熱心に立派に経営していた準次さんが眼鏡に適っていたらしく、早くから決めていたようです」

「勉三には他に果たすべき使命がある」とはいったいどういう意味なのか。勉三は、仏壇の師に、思わず語りかけていた。

「他に果たすべき使命がある…。ここに、この村に止まることなく、やはり広い世界に出て行けということなのですか? それにしても、先生はこの私に何をさせたいとお考えだったのですか?」

夫人は膝を寄せ、身を乗り出すようにして言った。

「わたくしには学問が無く、難しいことはよく判りませんが、勉三さんなら自分に与えられた使命が何か、いつかわかるはず。主人はそう信じてこの一言以上のことは何も言わなかったのでしょう、きっと。主人は勉三さんを自分の分身のように思っておりましたの。だから自分の見果てぬ夢の実現を貴方に託したのですよ。わたくしも、命ある限りずっと貴方を見守っていきますからね」

(はら)の底から何か熱いものが込み上げて来て、やがて全身に燃え広がっていった。彼は仏壇の師と傍らの夫人に深々と頭を下げると弾けるように外に飛び出した。彼の足はいつしか熊堂山の山頂に向かっていた。

そんなことがあって、勉三はこの日の昼下がり、熊堂山山頂に聳える大樹タブノキの木陰に立ち、遠く松崎の海を眺めながら、師の遺言を繰り返し反芻し、あれこれと思いを巡らせていたのである。 

  (3)

「勉三には果たすべき使命がある」この師の言葉がこれほどの衝撃を自分に与えようとは勉三自身思いもよらないことであった。

十四歳の夏のこの日、初めて、「人生如何に生きるべきか」「何を目指し、何を行うべきか」という大命題を目の前に突きつけられたような気がして、自分が急に大人になっていくように感じられた。

三余先生が病に倒れ、その学塾の門を閉じた頃から、漠然とではあるがこれから先の人生についてあれこれ考え始めてはいた。三余塾の跡を継ぐという淡い夢を抱いたことがそれだった。しかしいずれにせよ、それ程切羽詰まった問題として将来のことを考えていたわけではない。

大沢村の豪農として代々村の名主を務めて来た依田本家は数年前に当主善右衛門が亡くなり、勉三の七つ上の長兄・佐二平(さじべい)(十一代目で幼名は清二郎)が家督を継いでいた。佐二平は「三余塾の顔回」(孔子の第一の弟子)と謳われた秀才で、二十歳でありながら既に名主役を任されていた。

三男(すぐ上の兄が幼い時に世を去っていたので実質は次男)の勉三は、後に彼自らがやや自虐的に「天下の無用者」と称したように、何か特別に期待されるということもなく、どちらかというとのんびり過ごしていた。おのれの将来を切実に考える必要もなかったのだ。

戦後生まれの読者は「近代家族法」の下で育って来ており、戦前あるいは江戸時代の「前近代的家族制度」というものを知らないであろう。それ故「天下の無用者」などという呼び方はあまりにも大げさに過ぎると思うかも知れない。が、当時はごく普通の表現であった。

旧家族制度では家督は長男一人がこれを継ぐものとされていて、一家の全財産・全権限は長男に相続された。「封建的な家父長的家族支配」と批判された長子相続制度である。言うまでもなく、この制度では長男は絶対的存在となる。

その長男にもしものことがあった場合は次男がこれに代わり、女子のみならば養子取りが行なわれる。越後地方では今でも次男は「モシモ(あん)にゃ」と呼ばれるという。やや揶揄的なこの呼び名は「もしも」長兄に何かあった場合には代わって家を継ぐことになる次男即ち「長兄の代理者」を指している。

当時の農村では、次男以下の兄弟は外へ養子に出るか、家で無用者・厄介者と呼ばれながら長兄の手伝いをするか、そのいずれかであった。もっとも依田家のような豪農になると、次男以下は「無用者」「厄介者」というより、むしろ「自由人」として大いにその才能を発揮することができた。したがって勉三も決して本人が自称したような「無用者」ではあり得なかったのであるが、それ程期待もされず、のんびりと過ごしていたことは確かだった。

しかし人生の劈頭(へきとう)(真っ先・先端)に立った今、彼は溢れんばかりの闘志を燃やし、己の未来について、真剣に深く徹底的に考え抜こうとしていた。

「わたしは七歳で入門してからただひたすら先生を慕い敬い、先生の嫌う怠惰と一時凌ぎを憎み、先生の言葉を一言半句たりとも聞き逃さじとその教えに一所懸命に耳を傾けて来たつもりだ。先生もそういう勉三を愛しみよくよく心に掛けてくださり、厳しく鍛えてくださったのであろう。だから当然のことながらその使命が三余先生の教えの外にあるはずはない」

彼のこの確信は不動のものであり、決して揺らぐことはなかった。

「先生が私や塾生に伝えようとした最も大切な教え、それは何であったのであろうか?」

大樹タブノキの根元に腰を下ろした彼の脳裏に、やや野太い声で熱く訥々と語る三余先生の声が甦っていた。

「昔から百姓に対する侍の見下しと差別には許し難いものがありました。今も変わっておりません。士が(とうと)くて農が(いや)しいという理屈はなく、人の天分・身分に上下の差などあるはずがないのにです。いいですか。農が拠って立つこの天地大自然は無を有と成し、小を大と成す無限の宝庫であり、これに勝る天恵はありません。ゆえに農こそは国の大本なりとは古来より繰り返し語られて来た哲理です。がしかしこの哲理を農が自らのものとし、自らの哲理として主張し、実行したことがあったでしょうか。ありません。一度としてありませんでした。農戸百姓の子弟もまた哲理を(きわ)め、礼節を学び、誇りを持ち、そう、誇りを持ってその器を大成させ、己の天分天職を極め、全うせねばなりません。国と祖国と国民の為に至誠を尽くさねばならないのです。わたしが諸君に願うのはただそのことだけです」

勉三もまた遥か昔に刀を捨てて帰農した己の一族の歴史農としての生き様に誇りを抱き、自身もあくまで農として生きる覚悟であった。

戦国争乱の時代、戦に破れた数多の武将一族が格好の「隠れ里」だったこの伊豆奥地に密かに落ち延びて来た。依田一族もまたその一つであった。伊豆依田家は信濃源氏・木曾義仲の流れを汲み、信州佐久依田ノ庄を出て甲斐武田の家臣となり、駿河の城に立て籠もって家康と対峙。天正十年に武田勝頼が天目山に敗れるや、伊豆依田家の始祖依田正房・正義父子は江尻城(現清水市内)を逃れて豆州(ずしゅう)の奥地大沢へと落ち延び、やがて帰農してこの地を拓いたのである。以来二百八十余年、この地に土着し、農民としてこの地を愛郷の地となし、その繁栄に心を尽くして来た。

もっとも依田家は農家とはいえ代々の名主であり、土地持ちの地主であり、豊かな豪農ではあった。が、勉三はそうした地位・財産には何の関心も無く、ただ自らの出自が農であることを誇りとし、自らが農民であることを片時も忘れなかった。

「農として誠の道を歩むその覚悟はできている。問題はこのような時代、農を出自とするおのれが果たすべき使命とは具体的には何か、おのれに与えられた天職とはいったい何か、ということだ。先生はこの勉三には学者・学問の他になすべきことがあるという。一生をかけてなし遂げねばならないこととは何か。何としてもこの大問題を解決せねばならないのだ」

彼方を見詰める勉三の視線の先には松崎の海があった。しかし彼の目に映っていたのは目前の松崎の海ではなく、そこからさらに遠く広がって行く世界の海というより師三余が見せてくれた大きな時代の流れであり、世界地図であった。

「宣長先生の〝一君万民〟の教え、蘭学者が伝える西洋の〝万民平等〟は時の流れです。いずれは士農工商などという身分違えの旧制は崩れ、四民平等の世がやって来て新しい国造りが始まるでしょう。日本にも農が農として独立自尊の志をもって立ち、世に羽ばたいていかねばならない時代が必ずやって来るはず。今こそその時に備えて一所懸命に励まねばならぬのです」

師は新しい時代の到来をはっきりと告げていた。

「いつか外へ、江戸へ、更に国の外へ出て行こう。行かねばならぬ。激動する今日の時勢に触れ、もっと広い世界を見、見聞を広め、先生がこの勉三に果たさせようとした使命を見つけ、必ず先生の期待に応えて見せよう」

真夏日の昼下がり、伊豆の片田舎の片隅で、農に生きんとする名もない一人の若者の新しい旅立ちが、今始まろうとしていた。

かつてこの山頂を訪れた三余が、「成長は遅くとも着実に伸びて大木となる故に」と名づけた〝大器晩成〟の大樹タブノキが、武者震いするこの若者の頭上でゆっくりと風に揺れていた。



【第1回目掲載 2023年3月】

 

  序章 

  (1)

 日本列島、その北辺に浮かぶ巨大な島、北海道。つい先ごろまで蝦夷(えぞ)とよばれていたこの菱形の大地は、北から南へと連なる山嶺によって東と西に分かたれている。

最北の宗谷(そうや)岬に端を発した丘陵は北見(きたみ)山地へと走り、さらに天塩(てしお)岳を越えて石狩(いしかり)山地に向かい、この島の最高峰大雪(だいせつ)山へと昇りつめる。そこから稜線は高く噴煙を上げる十勝(とかち)(だけ)をたどり、西へ斜行して()(だか)山脈へと下る。更に太平洋に鋭く張り出した菱形下方の先端(えり)()(みさき)にまで延び、ここで碧い海に深く潜り込んでいる。

恰も背骨のように曲がって北から南へと走る山稜によって分かたれたこの北の大地の東半分その一角に関東平野に次いで広く濃尾平野に匹敵する広大な平地がある。ここがかつて〝北の原野〟とよばれた十勝野である。

西は日高山脈、北は石狩山地、東は阿寒白糠(あかんしらぬか)丘陵に囲まれ、南は大海太平洋に開かれている。

その広大な中原を北の石狩山中に源を発する大河―十勝川が数知れぬ支流を従えつつ南へ流れ、あるいは東に走り、また南へと下り、二つに分かれて太平洋の大海原に注ぎ込んでいる。

十勝元の名は「トカプ」または「トカプチ」。「乳」を意味するアイヌ語である。大きな平原を流れる川は河口で二つに分かれて大海に注いでいる。あたかも二つの乳房から無限の乳汁を流し続けるかのように。

母なる大河十勝川が流れる平原そこがこの物語の舞台となる十勝野である。

十勝野の冬は厚い凍土と氷雪に被われ、凍れる夜は心胆を震え上がらせ、夏の大河は氾濫と洪水を繰り返した。とは言えそこは見事な肥沃の地、豊穣の地であった。

明治の世の初め、函館(はこだて)()松前(まつまえ)()札幌(さっぽろ)()浦河(うらかわ)など西の住人にとって日高山脈の東向こうの十勝野は紛れもなく「未開の奥地」であった。無論、無人の地というわけではなかった。勇猛で名高い十勝アイヌ百数十戸・千数百人が処々に村落(コタン)を構え、慎ましやかな生活(くらし)を営み、既に何人かの和人(アイヌの民の言うところのシャモ)が移り住んでいた。

大正の時代、病に倒れ十九歳でこの世を去ったアイヌの少女知里(ちり)幸恵(ゆきえ)が『アイヌ神謡集序文』に謡った古き良き時代の風景「アイヌモシリ」(人間の住む静かなる大地の意)の片鱗がそこここにあった。すなわち―

『その昔この広い北海道は、わたし達の先祖の自由の大地であ

 りました。…

冬の陸には林野をおおう深雪を蹴って、天地を凍らす寒気をものともせず、山また山をふみ越えて熊を狩り

夏の海には涼風泳ぐみどりの波、白い鴎の歌を友に木の葉のような舟を浮かべてひねもす魚を(すなど)

花咲く春は軟らかな陽の光りを浴びて、

永久に(さえず)る小鳥と共に歌い暮らして(ふき)とり(よもぎ)摘み

紅葉の秋は野分に穂揃うすすきをわけて、宵まで鮭る篝火(かがりび)も消え、谷間に友呼ぶ鹿の()を外に、(まどか)な月に夢を結ぶ』。

「アイヌモシリ」 ー大和人によって「蝦夷地」と呼びならわされたこの大地が、更に「北海道()」という新しい呼び名に変えられるのは明治二年八月のことである。

 *ほっかいどう「北海道」の名称は、1869年(明治2年)8月

  15日の太政官布告で定められた。命名に際しては、松浦武四郎が、日高見(ひだかみ)、北加伊(ほっかい)、海北(かいほく)、海島(かいとう)、東北(とうほく)、千島(ちしま)の6つの案を建議し、第2案として律令制の七道(東海道、東北道、北陸道など)に類した「道」を提唱。その結果「北加伊道」が採用され、最終的には「加伊」に「海」の字が当てられ、「北海道」となった。武四郎が「北加伊」を案とした理由は、アイヌ民族が自分たちの国を「カイ」と呼び、同胞相互に「カイノ」または「アイノ」(アイヌ)と呼びあってきたからというところにあった。

 

同時に、明治新政府はロシア帝国に対する「北門の()(やく)」(北方守備の戸締りの要所)と呼ばれたこの地に、開拓使を設け、蝦夷全島を自らの支配下に置いた。こうしてアイヌモシリ蝦夷地北海道は、新しい時代の幕開けを迎える。

明治新政府の肝いりで函館・札幌・浦河周辺の原野原林は次々と切り拓かれ、畑地に開墾され、道路が通され、家々が建てられ、街や村が次々に作られていった。つまり本州内地に近い北海道の南西―道南・道央―からは僅かに残されていた〝アイヌモシリ〟の趣が瞬く間に消え去り、先住民族アイヌの悲嘆哀傷もものかは一帯は凄まじい勢いで文明開化の荒波に洗われていった。

だがその東半分日高山脈の向こう―の奥地十勝野へ入ろうとする者はまだ誰もいなかった。新政府が手を着けかねていたこの奥地は「北門の鎖鑰」から遠く外れており、開拓成算のあてもなく、もし入殖してもその困苦失敗は目に見えていたからである。そんな中

 

 (2)

明治十四(一八八一)年夏、農に生まれ、農を誇り、農に生きんとする伊豆の豪農依田家の三男坊、偉大な思想家たる(さん)()塾の師(つち)()(さん)()に学んだ哲人農士・依田勉三は北海道開拓を志し、一人渡北して各地を視察、十勝野への入殖を決意し帰郷、開拓結社『(ばん)(せい)(しゃ)()を立てる。

翌十五年七月、勉三とその右腕たる士族鈴木(じゅう)太郎(たろう)は、三つ四つアイヌ部落があるばかりの川のほとり十勝野中原のその中央部に存する帯広(オベリベリ)の地に立った(もう一人の勉三右腕たる士族渡邊(わたなべ)(まさる)は伊豆で開拓事業の賛同人募集に奔走していた)。

勉三はその日の感激を簡潔極まる筆致で日誌にこう書き記している。「帯広村この地すこぶる肥沃にして広漠たり。東北に十勝川、東南に札内サツナイ川、北に帯広川を帯び、札内山・オトフケ山を見る外四顧しこ(辺りに)目に触れるものなし。細流は平原の中央にあり。水細くして冷やかなり」と。

帯広の名の由来であるオベリベリ(あるいはオペレペレケプ)とはアイヌ語で「川尻が幾つにも裂けているところ」を指す。まさにこの一帯には無数の支流・細流が存在し、大河十勝に流れ込んでいた。

かくして明治十五年七月十六日、十勝野開拓を志す晩成社の入殖地は帯広と定められ、ここに最初の『開墾願地』の標杭が立てられた。

翌十六年五月、温暖の地伊豆松崎より依田勉三を先頭に晩成社移民団十四戸三十一名(内三名は同年十月に遅れて参加)が入殖、「一万町歩の牧畜場を開墾し、更に熟田を拓く」という壮大なる企てを胸に帯広開拓の第一投が打ち込まれた。

旱害、洪水、蝗害(こうがい)(バッタの害)、霜害、山火事、道路開削工事の遅滞、経済不況等々あらゆる艱難辛苦と困苦欠乏とが彼等を襲った。犠牲のみ多く、得ることのあまりにも少ない献身の日々が続いた。勉三と依田一族が十勝野開拓に注いだ資金は二十数万ともそれ以上とも言われる。現代の額にしておよそ一億数千万を優に上回る。

大正五年三月、ようやく開墾地三千町歩を拓き、家畜数三百頭を数え、開田に成功するも既に時遅く、多くの開拓同志は去り、高騰する借入金の利子重く、晩成社は遂に解散に至る。晩成社は、持てる財産全てを売り払い、さらに不足を依田一族が引き受け、全借財を処理し終えた後、僅かな土地と宅地のみを残し、ついに消滅する(法律上の解散は昭和七年十二月)。

だが、勉三はこうした結末にも決して絶望することはなかった。平民(農民)依田勉三は北の原野十勝野を己の墳墓の地と定め、ここに田畑を拓かんとして自らを捧げた。一方また十勝野もまた勉三という人物を創った。勉三は農の大地十勝野そのものであり、そこに永遠に生き続けていると言えよう。

「祖国と人民の為に」という崇高な精神と志をもって開拓に挑んだ依田勉三彼は十勝野と日本の農の未来に希望を持ち、最後の最後まで大いなる企てを追い求めつつ、大正十四年十二月十二日朝、厚い雪に覆われた十勝野の片隅で静かにその生涯を閉じた。七十四歳であった。

 

  (3)

十勝野帯広が拓かれ時から百余年が経つ。勉三の跡を追った多くの移民団・百姓農民衆、あるいは「赤い服の人」と呼ばれた囚人衆の奮闘努力の結果、今や見事な一大耕地と化した十勝野は一市十六町二村三十五万二千の人口を擁し、農地二十五万五千ヘクタールが拓かれ、六千三百戸の農戸が日夜営農に励んでいる。今や日本農業を支える一大拠点であると言っても過言ではない(二〇一〇年現在)。

勉三死後、彼の生涯について、ある者は「インテリ農民の高邁な理想主義が苛酷な現実の前に無惨に敗れた悲劇」と評し、ある者は「算盤を片手に持つことを忘れた者の当然の敗北」と嘲笑い、伊豆から共に移って来た農民の中には「勉三さんに(だま)された」と恨む者もいた。更には「依田家は理想に燃えて北海道開拓を企画したのではなく、それはただ単に一族の事業失敗による破産的打撃対策の一環として行なわれたに過ぎない。勉三は拓聖でも何でもない」と冷笑する者もいる。

勿論のこと依田勉三を慕い、「拓聖」として崇め、帯広市内に蓑笠姿の巨大な銅像を建立して勉三を讃えた萩原実・中島武市といった人々もいる。戦後、三十七人の開拓功労者の一人として札幌神宮開拓神社に祀られてもいる。とは言え、天上の勉三は「拓聖」と呼ばれることを決して潔しとはしないであろうが。

行蔵(こうぞう)(身の振り方・生き様)は我に存す。毀誉(きよ)(悪口を言ったり誉めたりすること)は他人の主張、我に(あずか)らず」これは、〝やせ我慢の説〟で己を批判した福沢諭吉に対する勝海舟の答えである。たぶん勉三も同じ答えを発するに違いない。

 

  (4)

農に生まれ、農を誇り、農旗を高く掲げ、農魂を砕いて十勝野開拓に生涯を捧げた哲人農士・勉三最期の言葉は、「晩成社にはもう何も残っていない。しかし十勝野は」というものであった。

確かに晩成社は財産らしい財産を何も遺さなかった。しかし、本当に何も遺さなかったのか。万感を籠めたこの勉三の臨終の言に、危機に直面する後世は如何なる思いを聞くのであろうか。

そもそも温暖の地伊豆の豪農に生まれた順境の人依田勉三が、何故にこのような寒冷の逆境地たる十勝野に入殖し、その開拓に全財産と全生涯を捧げたのであろうか。

物語は十勝野からはるか彼方にある伊豆国南西の寒村遠州(えんしゅう)(静岡)駿河湾松崎の浜からやや奥まった山間の小さな村より始まる。

                                  (つづく)