天地人-科学者の言葉

                 福永慈二  


<2022年9月>

『ノーベル賞受賞日本人科学者 21 人 こころに響 く言葉 』(2019年2月刊 悟空出版)より  (3)

(著者:竹内薫 たけうち・かおる―1960年、東京生まれ。東京大学教養学部と理学部で科学史と物理学を学んだ後、マギル大学大学院で理学博士号を取得。サイエンス作家として数多くの 著書を出している)



下村脩(化学)

 私は過去50年間、生物発光の研究をしましたが、生物発光の基礎分野は、 もっとも未開拓な分野であります。生物発光の応用や利用の研究をする人は、年ごとに増えていますが、生物発光がどのような化学反応で起きるか という基礎研究をする人は、この3年で徐々に減り、現在では世界に数人いるかどうかも分かりません。 

 応用はもちろん大事ですが、基礎研究がなくては応用はあり得ません。 将来の発展のために、若い人が基礎研究に目を向けてくれることを願って、 私の話を終りたいと思います。 


山中伸弥(生理学・医学)

 研究者として成功するには「ビジョンとハードワーク」、つまり目標を はっきり持ち、一生懸命やることです。これは当たり前のようで難しい。 日本人は勤勉なのでハードワークは得意です。でも、ビジョンがなければ無駄な努力になってしまう。 


田中耕一(化学)

 役に立っているという喜び、これはエンジニアにとって、なにより大切なものなのです。 


天野浩(物理学)

 なぜ勉強をしなければならないか、高校生の時まではわからなかった。しかし、大学の講義で工学とは人のためになる学問と聞いて以来、視野が 広がり、どんな学問も好きになり、何でも頭の中に入るようになった。 

 私は研究者になろうと思ったことは一度もなく、今でも研究者だと思っ ていない。私の原動力は人の役に立つこと、世の中を変えることで、その実現のために何をしなければいけないか、それを考えるのが研究者といえば、研究者。なぜ研究者になりたいのかを突き詰めて考えると、自ずと自分の立つ位置がわかるのでは。 

 

鈴木章(化学)

 科学者でもエンジニアでも、みんな、自分の研究が世の中の役に立つことを願って研究している。でも、役に立つような研究に巡り合うことは、 なかなかあるもんじゃない。その意味で、自分はラッキーだったと思う。 


小林誠(物理学)

 研究者は、ひとつひとつの真理を見つけていくことに喜びがある。その研究が、大きな成果に結びついていくか、小さな成果で終わるかは、後になってわかること。その時その時、乗り越えていくことに一生懸命努力は してきた。どんな学問でもそうでしょう。ただ、この研究をずっと続けていても、結果が出るのか、出ないのか、それを見極めることも大切。それはその人の能力とセンスでしょうね。 


大隈良典(生理学・医学)

 研究が役に立つという意味が、このところ数年後に起業できることと同 じ二なっている。それが科学をおかしくしている。本当に役に立つことは 10年後か20年後、100年後かもしれない。 


根岸英一 (化学)

 自立しながらも協力的であれ [Be independent and cooperative.] この二つの形容詞は実は相互に両立できるのである。このことはこれまでのわたしの半世紀の人生の中で、間違いなく最大の発見(あるいは再発見)である。さらにいえば、この二つはどんな関係にも適応できる。教師と生徒、友人同士、夫と妻などである。 


■ノーベル賞を受賞した科学者の皆さんがここで強調していることは、次の点です。①研究開発は己個人の利益のためでなく、世の為・人のためという大きなビジョンを目指してこそ、初めて成功する。②基礎研究があって、応用技術の開発がある。基礎研究はその時はそれがどのように役立つか理解されない。応用的理解が得られるのは10年後、50年後かもしれない。だが、基礎研究の追求を決して疎かにしてはならない。今はすぐに役立つことばかりが求められている。③自立しつつ且つ協力し合う―それが研究にも全てのことにも絶対に必要である。



<2022年5月>

『ノーベル賞受賞日本人科学者 21 人 こころに響 く言葉 』(2019年2月刊 悟空出版)より  (2)

(著者:竹内薫 たけうち・かおる―1960年、東京生まれ。東京大学教養学部と理学部で科学史と物理学を学んだ後、マギル大学大学院で理学博士号を取得。サイエンス作家として数多くの 著書を出している)


下村脩

 苦労をすればするほど人間は向上する。苦しい時代を経験したことで、 難しいことから逃げないようになった。 

 (出典:毎日新聞取材に応えて)


野依良治

 研究者には、「百万人といえども、われ行かん」の精神が必要です。 ノーベル賞はそのような精神のあるところ、いわば絶対的な価値の創造、「オ ンリーワン」の業績に対して与えられるものと、私は思っております。 

  (出典: 『人生は意図を超えてーベル化学賞への道』) 

 私はいまだって、「努力すればよくなる」と思っているけれども、同じように感じている人は、きわめて少ないのではないでしょうか。本人たちが信じていないととは、けっして実現しないのです。 

  (出典: 同上) 


赤崎勇

 古代ギリシャの数学者ユークリッドの言葉に、「学問に王道なし」とい う言葉があります。それは、学問するのに楽な方法はない、誰でも努力するほかはない、という意味です。 

結晶成長などでも新しいことをやろうと思ったら、「こういうやり方で やれば間違いない」ということはないのです。 

 私自身、窒化ガリウムの研究を通じて正に「研究に王道なし」を実感しています。 

  (出典:『青い光に魅せられて 青色LD開発物語』) 


天野浩

 不可能と決めるのは、多くの場合、やってきた人たちの言い訳に近い。 当時の人たちが締めた理由をよく突き詰めて考え、まだ試されていない方法を自分で見出すことが大切だ。

  (出典:仙市民会館での講演)


田中耕一

 私は見えないかもしれない現象を、意識的に見る努力をしていたと言えます。なにか新しいことを発見したい、なんとか発見して、役立つ技術 を開発したいと一心に思っていたのでしょう。 

 思ったように結果が出ないと、意気阻喪して、もう、その研究にさわりたくなくなります。でも、どうして現実の結果があるべき結果とちがうのか、そのことをとことん突き詰めれば、その先に、新しい発見が待っているかもしれません。 

  (出典:『生涯最高の失敗』)


山中伸弥

 10回挑戦して、9回失敗して、1回やっと成功するくらいの感じで、これからいろんなことが起きると思うから、9回失敗しないと1回の成功は手に入らない。私自身がそうでした。

   (出典 :  高校生特別授業「京都賞 高校フォーラム より)


江崎玲於奈

 私は”失敗は成功のもと” だと信じている。

  (出典:『限界への挑戦』)

 行き詰まって壁にぶつかった時、マラソンと同じように「もう一踏ん張 りしよう」という勇気を持つ。知力を振り絞る。それとそが理想的なオプションであり、仕事の醍醐味でもあるわけです。 

   (出典:『致知:2014年4月号 対談 「研究の道は無限な 

   り」) 


大村智

「言うだけでなく、実行しなくては駄目」。それが信条だ。大切にしているのは周りへの気配り、想いやりの心だ。 

  (出典:産経ニュース』2015年10月5日付) 

 いかなる言葉をもってしても 真意を十分に伝えることはできない。行動を見せて初めて可能になる。 

  (出典:『人をつくる言葉』)

 人の言うことは 半分聞け。あとは自分で考えて行動に移せ。おそらくうまく行かない 。しかしそこに独創性が生まれる。 

  (出典 : 同上) 


◆研究開発に失敗や困難との遭遇はつきもの。しかし、それこそが進歩・飛躍の入り口であることを先生方は教えています。この入口に立った時、諦めることなく、更に努力し、勇気をもって粘り強く考え抜き、決して後退せず、行動し、前進し、進歩し続けることで新しい世界が見えてくるものである、と。本当に「学問に王道なし」です。



<2022年4月>

『ノーベル賞受賞日本人科学者 21 人 こころに響 く言葉 』(2019年2月刊 悟空出版)より  (1)

(著者:竹内薫 たけうち・かおる―1960年、東京生まれ。東京大学教養学部と理学部で科学史と物理学を学んだ後、マギル大学大学院で理学博士号を取得。サイエンス作家として数多くの 著書を出している)


朝永振一郎

「われわれをとりかとむ自然界に生起するもろもろの現象―ただし主と して無生物にかんするもの―の奥に存在する法則を、観察事実に拠りどとろを求めつつ追及すること」これが物理学である、としておきましょう。 

(出典 : 『物理学とは何だろうか』岩波新書) 


下村脩

 私は自然に学ぶことの大切さを強調したい。人類はGFPのみならず遺伝子やその他色々重要なことを、自然界の物事やからくりを調べることにより知り得た。つまり我々は自然に学んだのである。人類が自然により創 造されたことを考えれば、人類が自然に優ることはあり得ず、自然を完全に理解することも無理であろう。自然界にはまだ我々が知らないことが沢山ある。科学的に重要な新規な知識を得るためには自然に学ぶのが一番である。

(出典 : 『クラゲに学ぶ ノーベル賞への道 』長崎文献社) 


福井謙一 

 自然は畏敬すべき存在である。しかし、人間がいかに自然を畏敬しようとも、自然は人間に対して、決して手心を加えてはくれないであろう。 

(出典 :『 私の履歴書―科学の求道者』日経ビジネス文庫) 

 生物であれ、物質であれ、絶えず変化し、すべてが生まれては滅び、流れてはまた、他のものに変わっていく。つまり万物は「生滅流転」の図式の中で存在しているわけです。

(出典:『高等学校国語Ⅱ 自然はすべてつながる』大修館)


大隅良典

 あるキノコは、一日でワッと立ち上がって次の日には枯れてしまうという激しい生き方を見せてくれます。なぜ植物はあんなに早く成長できるのかというのは、植物を観察しているととても不思議なことで、その原理を 考え始めるとたくさんの面白い問題が見つかります。 

(出典:『続・僕たちが何でもなかった時代の話をしよう』文春  

 新書) 


梶田隆章 

 我々の住む宇宙はまだまだわからないことがたくさんあります。そのよ うな大きな問題は1日とか2日という短い研究で解決できるものではなく、 たくさんの人が興味を持って長い年月をかけて解き明かすものなので、宇宙の謎解きに、若い人にはぜひ参加していただきたいと思います。 

(出典 :2015年10月6日、東大本郷キャンパス山上会館での会見で) 


大村智先生

 常に考えていなければいけないことは、「自然は相対的なもの、様々な 要素が絡み合ってこそ成り立つ複雑かつ広がりのあるものである」という ことです。どんな学究においても、自然の大きな繋がりのもとで考えなけ れば正しい方向に向かっていかないでしょう。 

(出典 :「 自然が脅えを持っている』潮出版社) 


利根川進 

二〇世紀には自然科学がひじょうに発展しました。前半は物理学の黄金期であり、後半は分子生物学を中心にして生物学がひじょうに発展したのです。そもそも生物学の究極の目的は、生物とは何か、とくに進化の頂点 にあるわたしたち人間はいったい何者なのかを知ることであるといってもいいでしょう。 

(出典: 『私の脳科学講義』 岩波新書) 

◆先生方は皆一様に、自然は偉大である、自然には畏敬の念を持って謙虚に対し、自然から徹底的に学べ、と教えています。この姿勢こそが新たな発見を生んだ根本哲学だということが分かります。



<2022年3月>

●湯川 秀樹(ゆかわ ひでき、1907年 - 1981年) 第2回

◆湯川博士と同じ京都大学物理学科を出ている池内了氏(宇宙物理学者)は、湯川理論を次のように分かりやすく紹介しています。

『湯川秀樹の中間子論は、物質間に働く力の起源について時代を越えた重要なアイデ アの提案であり、その神髄は永遠に残るでしょう。私たちは、磁石が鉄を惹きつける とか、電流が流れる導線の間に力が働くことを知っています。「なぜ、力が働くのだ ろう?」と疑問を持った湯川は、物質の間に何らかの粒子が遣り取りされる(交換さ れる)ことによって力が働くのだ、ということを見抜いたのです。つまり、力を媒介 している粒子の存在を予言したことになります。実際に、磁石や電流の間には質量を 持たない光の粒子が遣り取りされるとすれば、その力の大きさや到達距離を正しく求めることができ、その予言が正しいことが示されました。では、原子核の内部に働く 力にはどのような粒子が交換されているのでしょうか。原子の中心に存在する原子核 内部は小さな空間ですから、そこで働く力はあまり遠くまで到達しない近距離力です。 しかし、磁石や電流の間に働く力よりも何百倍も強い力であることがわかりました。 湯川秀樹はこの力を説明するために、中間子と呼ぶ電子と陽子の中間の質量を持つ粒 子が遣り取りされているとすればよい、そう提案したのです(一九三四年)。一九三 七年に中間子候補の粒子が見つかったのですが、実際に力を媒介している粒子ではないことがわかりました。この間、湯川は大いに悩んだことと思われます。ようやく、 一九四七年に強い力を媒介する中間子が発見され、湯川のアイデアが完全に証明され てノーベル賞の受賞(一九四九年)となりました。今日、物質間に力が働く機構は 「湯川メカニズム」と呼ばれています』と。


 こうした独創的で創造的な研究が生まれた背景、根源とは何か。『科学に生きる』(河出文庫 2015年1月刊)の中で、湯川博士はこの問題について、次のように語っています。


『人間はどうしたら創造的に生きられるのか、生き続けられるのか。私は自分に向って、こういう問いかけを、長年にわたって繰返してきた。この問いかけが始まったのは高校生のころからだったが、それに対して何ほどかの自信をもって答えられるよう になったのは、自分の能力や仕事に対する客観的な評価が、ある程度できるようになってからである。それより、さらに後になると、創造的に生きるということを、自分だけでなく、他の人々にも共通する問題とて考えるようになってきた。 

 しかし、今になってふりかえってみると、もっと前から、私の心の奥で、もう少しちがった形での自問自答がなされていたように思われる。それは中学生のころまでさかのぼれる。最初の問いかけは「自分はいったい何者であるか。自分はいったい何を して生きてゆくべきか」というような形であった。それから今日までの間に、五十年 の歳月が経過した。五十年前の私と今の私の間には、多くの点で、ひじょうに大きな隔たりがある。しかし、創造的に生き続けたい、そしてそのために、自分が何者であ るか、自分の中にどのような可能性が潜んでいるか、何をして生きてゆくべきかを問 い続けている、という点において、不変なるものの持続が確認できるのである。… 

 別の言葉でいうなら、自己を発見することから始まって、次にはまた、もっと違った自己を発見する、さらに後になってまた新しい自己を発見する。そういう発見ない し再発見を繰返すことが、前進でもあり、それが創造的に生き続けることを可能にしている。そういってもよいであろう。… 

 私にとっての最初の明確な自己発見は、自分が孤独な人間だと強く感じたこと、そのことであった。それは中学の一年生の時のことである。…(筆者福永注:その後、仲間内で独りぼっちになるような出来事があり) もともとあった内向的な傾向が、急速に強くなっていった。…

 ちょうどそのころ、童話・童謡の雑誌「赤い鳥」が出だしたりしていた。それで一 時は、童話作家になれたらいいだろうなどと思った。そうは思ってみても、そのころの私にとっては作文が大変な苦手であったから、作家になるなどとは、自分の適性に反した夢にすぎないと思いかえさざるを得なかった。 この夢があえなく消えた後、私の関心は文学書よりも哲学的な書物のほうに移っていった。それは中学の後半から高校の前半の三、四年間のことであった。しかし、文学少年が哲学青年になるのは、別に珍しいことではない。ここまできても、私はまだ自分が何者であるか、何者になりうるかについて、自信のある判断ができずにいた。 ただ自分は結局、学者になるしかない、それも世間との交渉のできるだけ少ないよう な学問の分野に入ってゆくしかない、とは思い続けていた。 

 ところが、高校時代の後半になってから、私の興味は急に物理学にしぼられだした(筆者注:湯川博士は数学が好きでよくできた)。それはひとつには当時、科学の先進地域であったヨーロッパで、物理学が激動の時代を迎えつつあることを知ったからであった(筆者注:物理学の世界は分子・原子レベルの研究から原子核内部の粒子を研究する量子力学の時代へと革命的飛躍を遂げる時代を迎えていた)。そこには、未知の世界が大きく開かれていた。数年後に自分が研究者として、この世界に入っていったら、何かができるのではないか。自分の適性もそれに向いているという、多少の自信もできつつあった。それよりも何よりも、物理学を研究するのは大いにロマンチックなことだ、と思ったのである。この気持は今もなお変らない。 

 この自己発見は、私からいろいろな迷いを追いはらってしまった。大学へ入ってからの私の気持は安定していた。孤独な人間であるという気持自身が、自分の選んだ道 を一人で歩くのだという青年期の気負いに変りつつあった。ただし、まだ何事をも成就していなかった私には、「ついに無才無能にして、この一筋につながる」という哲 蕉の言葉が、絶えず励ましとなっていたのである。 …

 私の中にあって、何十年にもわたって、私を動かし続けているのは、未知の世界へのあこがれである。私にとって、それは美しい世界であると期待されている。物理学者でない人たちにとっては、それは別に美しいとは思えぬ世界であるかも知れない(筆者注:湯川博士はこうした「未知の美しい世界へのあこがれ」は少年期に良く読んだ童話からの影響であった、と述べている) 。』

◆湯川博士は、自分の創造性を生んだ大きな理由として、こうした幼年・少年期の環境・生活の中で生まれた自分の個性、未知の世界にあこがれと美を感じるロマンチックな感情、そして数学好き、学者への志をあげています(筆者注:第1回で紹介したように湯川一家は地質学者であった父親はじめ典型的な学者一家であった)。誰しも―天才であれ凡才であれ―こうした何らかの個性・得意・創造力生んでいく必然性を、幼少期・少年期の時代に形成させています。そこに「自分とは何か。自分はどの分野で生きていったらよいのか」の答えがあるようです。


『自分の専門に近いところに話を限って――科学者の創造性という問題についてお話したいと思います。 

必要条件である執念深さについて。…研究というものは自分の能力が続くかぎりやりたい―い よいよ駄目とわかれば、やめたらいいのでありますが、なかなかそうは思いきれない のでありまして、まだ自分はやれると思いがちであります。幸い、私どものように大学におります者には、停年というものがあります。京都大学は、かつては停年が満六十歳であったのが戦後六十三歳になりました。…しかし、そのようなわれわれ学者のキャリアを考えてみますと、これは私の主観が 非常に強く入っているのですが、要するに学問することそれ自身が執念です。執念深 く、つまり、なにか執念にとりつかれてやっておる。それは、いやしくも学に志す人はみんな、それだけの執念をもっておったに違いないのでありますが、ただ、その執念がどのくらい強いか、どのくらい執念深いか、これは学者によって違う。しかし、 執念深いから成功するとはかぎらない(笑)。いくら執念深くても成功しない人もあ りますね。数学でよく使う言葉で申しますと、ある命題が成り立つための必要条件と十分条件というのがあります。 執念深いということは確かに必要条件だと思います。しかし、十分条件でないことも確かです。 

 なぜそういう執念をもつのかということになると、わかりにくくなってくるのです が、さらによく考えてみますと、その人が自分自身のなかに非常に深刻な、内部的な 矛盾をもっておるということと非常に関係があると思います。…

 ある一つの考えに執着しているけれども、しかし、それと反対の考えが自分のなかから抜けきらない。ああでもない、こうでもない、もっとほかのもののほうが良いのではないか、 というように、信じたり迷ったりしながら、いつまでもやっているのが学者の仕事ですね。 

 もちろん一概にはいえませんが、私どもがやっているような理論物理、基礎物理の 研究はそういうものです。ある学者がある説を強く主張している。いかにも、それを 100パーセント信じているように見える。しかし案外、本人の心のなかでは、それと反対の説が気になっている。そういうことが多いのではないでしょうか。優れた仕 事をする人は、そういうものです。それだからこそ迫力があるのでしょう。自分のな かでまずたたかっておりますからね。自分で悟ってしまったらなにも論文を書く必要 はない。論文を書くのは、他人が目あてのようにみえますが、それよりもまず、自分 にいいきかせるためであります。 

 とにかく、そういう矛盾が内部にありますと、それが何らかの形で外に現われる。…いずれにしても矛盾ということと執念ということとは非常に関係があるわけですが、 しかし、矛盾を含んでいるとか、ある一つのものに執着するとか、一口にいっても、 その執着するところは、いろいろあるわけです。非常に高い理想、それが容易に達成できないような非常に大きな遠いものかもしれない。それを達成しようとする人は、 仕事のスケールも大きくなり、大きな仕事を成就する可能性も出てくる。…

 ところで、執念深いとか、自分のなかに矛盾を含んでいるというようなことが重要 だと申しましたが、もちろん、それだけではいけないのであります。創造的能力と一見、反対物のように見える能力に、記憶があります。実際、非常に記憶力がよく、したがって学校時代に成績がよかった人で学校を出てからは一向パッとしない、学者に なっても独創的な仕事ができないという人が、たくさんあります。それから、また理 解力といわれる能力があります。これも、しかし創造性と相反するように見える場合 があります。ものわかりは非常によいが、独自の考えは持っていないというタイプの人を、たくさん見受けます。しかし、ある種類の記憶力と理解力とが、創造性を発揮 するための土台として必要なことも明白であります。』 

◆一つのことをやり続けさせる執念。そうした執念が創造的仕事をやり遂げる大きな力である、ということです。継続は力なり、との教えです。そして、そうした執念を生み出すのは、自己の内部にある矛盾(筆者注:対立物との闘い、アンチテーゼとの闘い、疑問を抱き、それを解明していく闘い)である、というのです。そうした矛盾は、高邁な理想、大きな目標を持ってこそ生まれてくるものである、と教えています。勿論、記憶力・理解力も蓄えないと「創造的仕事」はできない、ということのようですが。


『人間のいろいろな知能、頭の働かせ方のなかで、誰でもある程度そういう能力をも っておって、しかも創造的な働きと一番つながりがありそうに思われるのは、類推と いう働きであります。… 

 ある人がやさしい例と似ていると思うことによって誰にもわからなかったむつかしいことを理解できたとしたなら、そこではじめて、本当に創造性が発現さ れたといえるでしょう。実際、古代の哲学の書物、たとえばギリシャや中国の古典を読みますと、盛んに「たとえ話」が出てきます。古代の思想家は失際、たとえ話によ って、人にむつかしい思想を教えただけでなく、恐らく自分自身も、そういう類推によって、独創的な思想に到達し得たという場合も多いと思います。…

 人間の場合に、類推の能力が創造的な働きをするのは、「類似に気がつく」ということが核心となり、出発点となるからであります。… 

 そこで、もう一度、人間の持つ類推の能力について考えて見ますと、それは明らかに「直観」といわれるものと密接な関係を持っています。よくわからないものを理解するために、それと似ているだろうと思われる、もっとよくわかったものを持ってく る。よくわかったものというのは多くの場合、それについての直観的なイメージを私たちがすでに持っているものなのであります。原子を理解するために持ってきた太陽系については、私たちはすでに、はっきりと直観的に把握することができていたのであります。直観的に把握するということは、各部分をばらばらなものとてではなく、 全体として、あるまとまりを持ったものとして掴むことであります。三つの直線を 別々のものでなく、端と端のつながった一つの図形と認めることによって、三角形の イメージができる。もっと複雑な図形についても、それがある図形として認識される のは、人間の持つ直観の能力によるといってもよいでしょう。… 

 類似性と同時に本質的に違っている点を探りあ てることによって、別の段階に飛躍することができる。しかしその場合、そういう飛躍のための跳躍台としても、類推や模型が大いに役に立つのであります。私自身も中 間子論を生み出す最初の段階で、それまでよく知られておった電磁気的な力との類推によって、当時まだ正体の全くわからなかった核力の本質をつかむことを考えたのです。その場合、両者は似ていると同時に、違った点もあるべきことは初めから予想していました。このように類推という思考過程は、古い、よく知られたものを手がかりとして、それと似た、しかし異質的なところもある新しいものを発見したり、理解したりするのに役立つのであります。 』

◆湯川博士は創造力をうむ大きな力は人間誰しもが持っている類推力であると言います。そしてその類推力は「例える力」であり、「直感力」であり、あるものを「一つのまとまったイメージ」として把握する力である、と言います。

 湯川博士は、創造力という難しいテーマを、実に分かりやすく私たちに教えてくれています。



<2022年2月号>

●湯川 秀樹(ゆかわ ひでき、1907年 - 1981年)     第1回

日本の物理学者(理論物理学)。京都大学・大阪大学名誉教授。京都府京都市出身。 原子核内部において、陽子や中性子を互いに結合させる強い相互作用の媒介となる中間子の存在を1935年に理論的に予言した。1947年、イギリスの物理学者セシル・パウエルが宇宙線の中からパイ中間子を発見したことにより、湯川の理論の正しさが証明され、これにより1949年(昭和24年)、日本人として初めてノーベル賞を受賞した。



【 老子や荘子の思想は自然主義的であり、宿命論的であった(彼は5,6歳頃より祖父から漢学を学んでいた)。しかしそこには、一種の徹底した合理的なものの考え方が見出されたのである。一つにはこの点が私にアッピールしたのであろう。というのは、私は、小さい時から、中途半端な物の考え方には満足できなかった。前に言ったように、京極小学校にいたころ、毎朝、朝礼があった。その後で建部校長が訓話をされた。どんな話だったか、ほとんど全部、忘れてしまっている。が、不思議なことに、その中の一つだけを、今でもはっきりと覚えている。校長先生はある朝、「徹底」という題で話された。いろいろな動物が川を渡った。ほかの動物はみな 泳いで渡った。象だけは川の底をふみしめて渡った。これが徹底だという話である。小学生の私の心の中に、徹底という言葉が、いつまでも強い印象を残した。ただ校長先生の話を聞きながら、もしも象の背も立たないような川があったらどういうこと になるだろうかと、子供心にふと疑いを抱いた。 中学生の私は、一方では老子や荘子の逆説を痛快に感じながらも、何かそれではすまされないものがあることを否定できなかった。… 

 確か一中の四年生(17歳頃)になった時だと思う。生物の時間に進化論の初歩的な解説を習った。教頭の武田弘之助先生からである。…はじめにラマルクの用不用說を紹介された。生物がそれぞれの器官をしじゅう使っ ていると、それがだんだん発達する。それによって生物は進化して行くというのであ る。これは私にはたいへん納得しやすい考えであった。ところが先生は、この説はだめだと言われる。生物が生れてから獲得した能力は、遺伝しないから、進化の役には立たないと言われる。そこで次にダーウィンの進化論の解説がはじまる。生物の同じ仲間同士の間で生存競争が行われる。こういう仕組で生物が進化していくというのである。この考えは私にはどうよくわからなかった。家へ帰ってからも気になるので、庭を歩きまわりながら、先生の話を考え直してみた。 …自然淘汰が起るためには、生れた時から適者と不適者の間の差違が存在していなければならない。成長してからの違いを問題にするなら、ラマルク説と 同じことになる。そんなら、そういう生れつきの差はどうしてできたのか。この点 についての先生の説明は、はっきりしなかった。しかし、先生がどう言われたにせよ、 中学生の乏しい知識で、いくら考えこんで見ても、進化論が徹底的にわかるはずはな かったのである。 

 ずっと後になって推量して見ると、当時の私は、ほとんど無意識的に、自然界で起 る出来事には一つ一つ因果的必然性があるという考え方を、唯一絶対と信じていたのであろうと思う。従って宿命論を唯一の合理的な考え方として、受入れやすかったのであろう。ところが生物のある種類の全体に対して、進化という合目的的とも見える現象が起る。そこには何か私の単純な考え方では解決できないものがあることを、 子供なりに感じ取ったのであろう。 

 私はこの時まだ、二十世紀初頭に物理学の大変革があったことを知らなかった。私が子供心に唯一の合理的な考え方だと思っていたところのものが、実は十九世紀末までの科学者が絶対に正しいと信じてきた考え方にほかならないことさえ、はっきり認識していなかった。まして量子論とか相対性原理とかいう、十九世紀までのいわゆる  「古典物理学」の根底をゆるがす新しい学説が、二十世紀初頭に現われていたことなど、もちろん知らなかった。 しかし、ダーウィンの進化論を理解しようと思って苦しんだという事実は、私の精 神の成長過程の中で、重要な意味を持っているように思われる。私の潜在意識は、こ のころからそれまでとは違った方向へ向って、活発な反応を示し始めていたらしいのである。 】 (『旅人-ある物理学者の回想』 1960年 角川文庫)

 

◆湯川博士の父親は京大の地質学教授で、子供の教育では大変厳しい人でした。子供は皆後に大学教授になるなど、学問一家でした。彼はそういう父親の厳しい教育の下、どちらかというと孤独を愛する、内省的な少年となり、哲学的な思考を深めていきました。湯川博士のその後の成長、研究の過程は、哲学的影響抜きには語ることができません。「二十世紀初頭に物理学の大変革」と書かれていますが、それは哲学的に言えば「形而上学」から「弁証法」への大変革でした。「形而上学」では物事を静止的に捉え、AはA、BはBであり、物事は定義された通りのものであるとされました。AからBへの進化という考えはしませんでした。しかし、ダーウィン、アインシュタインなどによって、物事はすべて運動し、変化発展していく、という古代ギリシャの哲学者ヘラクレイトスなどが唱えた「弁証法」的なものの見方が復活してきたのです。実際、自然は常に運動し、変化発展していますから「弁証法」的なものの見方の方がより正しい、より優れたものの見方なのです。自然を「分類する時代」には「形而上学」的見方も必要でしたが、「分類」が一区切りとなり、次に、「分類A」と「分類B」との関係、古いものと新しいものとの関係が問題になるや、もはや「形而上学」ではだめで、「弁証法」が求められるようになったのです。それは科学の発展として、当然の歩みでした。

 湯川博士が中学生になった頃、ちょうど、この大転換・大変革が学問・自然科学の分野で始まったのです。

 中学生の湯川博士は、最初はまだこの変革の意味が分からなかったと書いていますが、ダーウィン理論について、深く考え、理解せんと努力しています。湯川博士は「私の潜在意識は、このころからそれまでとは違った方向へ向かって、活発な反応を示し始めていたらしいのである」と記しています。すなわち哲学的関心が「形而上学」から「弁証法」へと向かい始めたのです。

 次回は、博士とアインシュタインとの関係を取り上げ、博士の哲学的成長・変遷について語りたいと思います。  


●利根川進 (とねがわすすむ   1939年~) 第2回 


【利根川  いまから考えると、サクセスストーリーだからとうぜんそうなっているけれど、信じ られないくらい運がよかったと思います。でも、運だけかというと、きっとそうじゃない。 

だいたいわたしは、しんどい思いをしたことは忘れる性格なんです。いいことだけを、覚えているというところがある。わたしがバーゼル免疫学研究所に行って一〇年間、とくに最初の 五年間くらいの苦労したプロセスをストーリーに書いたら、それにはほとんどの人が耐えられ ないだろうと思います。それは友人たちが知っていることです。彼らから見れば、もうアメイ ジング(驚異的)なんです。スイスには当時日本人なんてほとんどいなかった。客観的に見ると たいへんな苦労をしています。だけど、あとから見ると、わたしはやっぱり運がよかったと思 う。なにしろ、成功していますからね。 

だから、わたしはよく言うことなんだけど、ひじょうに楽観的な人がサイエンスに向いてい ると思うのです。いろいろむずかしいことがあってもかんたんに滅入らない人、あきらめない 人。それから、プライオリティ(優先事項)がしっかりしていること。これは重要です。つらい ことがあったときに、やめようと思うか、それでもがんばって成し遂げようと思うか。これは 

自然科学者でも、他の分野の人でも同じでしょうが、どのくらいプライオリティをしっかりし て、集中してやれるかという能力は、とても重要なファクターだと思います。 藤田 何にプライオリティをおくかというときに、自分に確信させる、自分にそれを信じさ せる力がひじょうに重要だと、以前おっしゃってますね。 

利根川 もちろんそうです。科学者なんて基本的には、それなんですね。… することはいっぱいあるんだから。人間、時間なんて限られているでしょ。自分はあ と二〇年生きるとすると、このあいだに何をするかということさえ、ほんとうなら考えをめぐ らすべきでしょう。がんを宣告されて、あと二年しか生きられないと言われた人は、もっとシ ビアな立場に立つ。この二年間どうやって生きようかと、真剣に考えます。そういう極限の状 態にない人は、ずっと生きると思っているから、ゴールがはっきりしない。とくに若い人はそ うです。それで、くだらないことでもおもしろいというふうに誤解するのです。やってみれば 別にたいしたことでもないことをね。 …

自分にとって何がほんとうに重要かということを、どこにほんとうのおもしろみがあるかと いうことをしっかりと認識して、それにもとづいて人生を設計していく。わたしはそういう人 が成功するのだと思います。 

あることを成し遂げるためには、いろんなほかのことを切り捨てないとだめなんですよ。と ころが人間は、なかなか切り捨てる決心ができない。とくに、もうすでにやっていて、少し成果があがっているものを、なかなか切り捨てられない。やってみて成功すればわかる。あれを 切り捨てて、これをやってよかったなとわかる。それは、想像力が足りないんですね。足りな いというか、人間はものを想像する能力は限られている。これがこうなったらどうなるだろう かという、先を読むのはなかなかむずかしい。だから、それをやっぱり経験で習っていく。】 

◆根岸さんは研究者(他のすべての職業人)の成功の条件として、「楽天的であること」、そして「何が最も重要で、何を最優先し、何を切り捨てるかをしっかりと認識すること」をあげています。実際、人生は短く、活動できる時間は限られています。長期的に、そして短期的に、しっかりとした人生設計・人生計画を立て、「絶対にうまくいく」という楽天的気持ちで、集中すべき明確な計画を以って、一日一日を大切に生き抜いていくことが不可避だということです。研究者として「成功した人」である根岸さんの経験談であるだけに説得力のある人生訓ではあります。


藤田  突然、創造性があらわれるわけではなくて、何に創造性があるかを感じる力があるということですね。 

利根川 感じる力を内にもっていることは必要です。だから、運だけじゃないと言った意味は、若いころに、ある程度の態勢がその人のなかに整っていなくてはいけないということです。向 こうが発信しても、こちらが受け取れなかったら役に立たない。 

 若い学生から進路の質問があると、わたしは、まず自分がやりたいこと、分野ならいわゆる おもしろいものを決めなさいと言います。「おもしろい」というのは、かんたんだけどひじょ うに意味深長な言葉で、ものすごく努力をする価値があるものを、おおよそのところで見つけ なくてはならない。自分でね。つぎに、その方向に行くためには、世界を見て、誰と研究する のがいちばんいいかを考える。そして、その人のところへなるべく物理的に近づけるような努 力をする。できれば、その人に気に入ってもらう。もっとも、こちらにある程度能力がなかっ たら気に入られようがないですけれど。誰でも入れてもらえるわけじゃないから、そこがまたむずかしいところなのですが。】 (岩波新書『私の脳科学講義』 2001年刊) 

◆「何が最も重要で、何を最優先し、何を切り捨てるかをしっかりと認識すること」を実践する上で、「何に創造性があるか」感じとる上で、必要なことは、「自分がやりたいこと、何が面白いか」をまず決めることであるという。これは、何としても自分で見つけ出さないといけない、と言います。研究者として「成功」した根岸さんのアドバイスだけに、耳を傾けさせられる言葉ではあります。





●利根川進 (とねがわすすむ   1939年~) 第1回  

 1939年愛知県生まれ。父親が地方の工場長であり、1947年小学校1年から1952年中学校1年まで富山県大沢野町(現富山市)で、中学2年までは愛媛県三瓶町(現西予市)で過ごし、中学2年の時東京へ。東京都立日比谷高等学校を卒業し、京都大学理学部に入学。卒業後、カリフォルニア大学サンディエゴ校博士課程修了。ソーク研究所、バーゼル免疫学研究所を経てマサチューセッツ工科大学教授(学習と記憶研究センター所長) 。免疫学者、分子生物学者。抗体グロブリン分子の多様性が免疫細胞の分化過程における抗体遺伝子の遺伝子組換えによって実現されることを明らかにし、分子生物学の従来の常識を覆した。その功績によって1987年度ノーベル医学生理学賞を受賞


【わたしの(アメリカの)ビザは、一八カ月のポストドクトレーニングが終わったところで、一九七〇年末に切 れることになっていました。 
 ところが、アメリカを去らなければなら ない日の二ヵ月ほど前に、わたしのその後 の人生に大きい影響を与えるできごとがあ ったのです。一九七〇年一〇月に入ってから、そのときヨーロッパを旅行していたダルベッコ博士(注:利根川博士が属していたアメリカのソーク研究所の所長)から突然手紙をもらったのです。その 手紙には、こんなことが書いてありました。 
 君がわたしの研究室を出てからどこに行くことを決めたのか、あるいはまだ決めていない のかを、わたしは知らない。けれども、もしまだはっきり決めていないのであれば、ここに もうひとつの可能性を示唆する。スイスのバーゼルというところに、新しい基礎免疫学研究 所ができる。そこはひじょうにすぐれた免疫学者を集めているが、分子生物学者はまだ雇っていない。(ここが重要なところですが)わたしは、分子生物学者が、これまで研究の対象に していなかった免疫現象を、研究の対象にしていく時代がきたと思う。もし興味があるなら、 所長のニールズ・ヤーネに手紙を書け。 
 そういう手紙を受け取りました。わたしは「とんでもない」と思いました。つまり、免疫学 なんてまったく興味がなかったし、スイスのバーゼルなんて聞いたことがなかったし、ニール ズ・ヤーネという人の名前も聞いたことがありませんでした。何も聞いたことがないことばかりです。念のために、研究所の下の階にいる免疫学者の友人のところに、「免疫学には、分子 生物学を修めた者が、何かできそうなおもしろいことがあるか」と聞きに行きました。彼は言 下に「そんなものはない」と言ったのです。そういうこともあって、わたしはその手紙を引き 出しの奥にしまいこんで放っておいたのです。
  一カ月くらいして、ダルベッコ先生が研究所へ帰ってきました。ダルベッコ先生の言動に、 わたしは少なからず驚かされました。先生は自由放任主義で、あまり研究室の人間に「ああしろ、こうしろ」と言わない人です。ところが、このときは「免疫学はおもしろくなるぞ」と言って、論文を二つ三つもってきて、「これを読んでみろ」とひじょうに熱心にわたしに勧める のです。 じつは、わたしは、その論文を読んだとき、ふたたび「これはだめだ」と思ったのです。それにもかかわらず、わたしは、ダルベッコ先生の研究における大局観のようなものに、ひじょ うに感銘を受けていました。どうして「だめだ」と思っていた方向に進むことになったか、い までも決定的なことはわかりません。しかし、おそらくダルベッコ先生の大局観に、深いところで傾倒していたのが大きな理由だったと思います。 …
 最後の最後に、わたしは方向転換して、バーゼル免疫学研究所に行くことを決めました。一 九七一年一月、八年間滞在していた南カリフォルニアを去って、真冬のスイスのバーゼルに着任しました。 
 着任したとき、わたしはまだ三一歳でした。契約期間も 最初の二年間ということで、研究補助員を一人与えられて、最小の研究グループをつくって研究をはじめました。ところが、なにしろ免疫学のことは何も知りませんし、研究所でセミナーがあっても、何を言っているのかさっぱりわからないという状態でしたから、新しいアイディアもありません。そういうことで、最初の一年間は前のつづきで、がんウイルスの研究をしていました。 
 わたしは、その一年のあいだに耳学問で少しずつ免疫学のことを習得していきました。そして、二年目に入って、あるテーマで免疫学の研究をはじめたのです。そのテーマは、免疫学の世界では何十年もミステリーとして解けなかった問題です。ひょっとしたらそれを、わたしが すでに取得していた研究方法、いわゆる遺伝子組換え法を中心にした方法で、解けるのではないか、というアイディアがわたしの頭に浮かんだのです。この一連の研究で、のちにノーベル賞をいただくことになりました。】
(岩波新書『私の脳科学講義』 2001年刊) 
◆利根川さんは、最初免疫学について、あまり興味はもっていなかったといいます。最初はダルベッコ先生の勧めに従う気はなかった。しかし先生の熱心な勧めに最後は従い、最終的にはこの免疫学の分野でノーベル賞をもらうことになるのです。利根川さんは、ここで非常に興味深いことを言っています。自分で「だめだ」と思っていた方向に進んだ決定的理由はよくわからないが、「おそらくダルベッコ先生の大局観に、深いところで傾倒していたのが大きな理由だったと思います」と。1975年にノーベル賞をもらっているダルベッコ先生は世界の分子学全体の動き、流れをよく知っており、分子学の将来をも見渡せる「大局観」の持ち主で、若い研究者には極めて高いレベルの研究課題を意識させて指導するという、優れた教育者でもありました。利根川さんは個々の研究についてのダルベッコ先生の指導についてだけでなく、そうした「大局観をもった指導者・教育者」としてのダルベック先生に深く傾倒し、そこに信頼を寄せていたようです。つまり、利根川先生もまた「大切なものは大局観」という直感があり、その直感からダルベック先生の「勧め」「誘い」に従ったのでしょう。ここには「指導する者・教育する者」と「これから学習する生徒・学ぶ者」との弁証法的関係があり、上と下の相互作用があって初めて「これから学習する者」も素晴らしい世界に進む道が切り開かれるということを教えています。

◆利根川さんの「発見」は、次のように極めて「革命的」なものでした。
免疫学上の大ミステリーを解く
 数万種類の遺伝子から100億個の抗体がなぜつくれるのか。…これがGODゴッド(Generation Of DiversityのGOD―多様性発現=のミステリー(神の秘密)と名づけられた免疫学上の最大のジレンマ・ミステリーでした。・・・数の上での大きなジレンマが生じます。このジレンマがまさに、免疫学で長いあい だわからなかったことです。それは、少なくとも一○○億種類の可変領域、すなわちちがう部分をもった抗体をつくらなければいけないのに…(注:抗体を作る遺伝子は)ゲノム解読プ ロジェクトが進んで、現在では三万~五万個しかないといわれています。しかも、この三万個の遺伝子を、すべて抗体用に使うわけにはいきません。わたしたちの細胞は、いろいろな酵素、細胞を構成している構造物質など、いろいろなタンパク質をつくらなければいけません。したがって、三万個の遺伝子のうち、抗体用にはほんの一部しか使えない のです。 ・・・
 (驚いたことに)まさに、ダーウィンによる生物進化のプロセスと同じ戦術を、免疫系が使っているのです。 そのために、この免疫系のことを Darwinian Microcosmos(ダーウィンの小宇宙)と呼ぶことがあります。つまり、免疫系の中で、ダーウィン的な進化がおこっているということになるわけです。 この成果(注:長谷川さんの発見した成果)の大事なところは、もちろんGODのミステリーを解いたということです。しかし、 それに加えて、生命科学全般にインパクトを与える、別の一面がありました。つまり、すでにお話したように、遺伝子は進化の長い過程においてのみしか変わらない、というのが生命科学の常識だったのです。それに対して、免疫系の抗体遺伝子についてはそのドグマがあてはまらない、ということがこの研究で明らかにされたわけです。つまり、それまでの生命科学の常識をくつがえす発見になったのです。 
 ダーウィンは、約三六億年前に地球上で生命が誕生してから、その後DNA型の生物が発生して、このDNAが組換えという現象と突然変異という現象にもとづいて、長い期間に変異株(注:新遺伝子)をつくって、その変異株のなかからそれぞれの地域の環境にもっとも適合した変異株が生き残り、しかもはびこってきた、そうすることによって「進化」という現象がおこった、という理論を提唱しました。遺伝子のランダムな多様化と環境による変異株の選択、これがダーウィン の進化論の二大原理、進化論のエッセンスになるのです。 
 なぜ、ダーウィンの進化論をここでもちだしたかというと、じつはわたしたちの研究の結果、 まさにこれと同じ原理が、免疫系のGODのミステリーに潜んでいるということがわかったからです。しかしながら、ダーウィンの進化論と免疫系のGODのミステリーの原理とでは、ひ とつ決定的に大きなちがいがあります。それは時間のスケールです。遺伝子は安定的なものです。そうでないと、子が親に似る遺伝という現象はおこりえません。 安定になるようにいろいろなメカニズムが備わっているのです。しかし逆にまったく変わらないというものであれば、ダーウィンの進化論は成り立ちません。遺伝子はひじょうに遅い速度 で、何百年、何千年という長い時間をかけて少しずつ変異していくのです。 それに対して免疫系の場合は、一世代、一個体の免疫系の中で、しかも抗体遺伝子に限って、 ものすごい速度で、親から受けついだ限られた数の遺伝子に、変異(注:自然の組み換え)が入っていくのです。しかも、ダーウィン進化論のもうひとつの原理である、環境による特異的な選択も、免疫系の中でおこっています。このメカニズムのおかげで、わたしたちは親から受けついだ二〇〇〇個程度 の抗体遺伝子、つまり遺伝子全体が三万個あるとすれば三%になりますが、三%程度の遺伝子 を使って、これを急速に変化させることによって、一〇〇億種類以上の抗原に対処していることがわかったのです。】(同書)
◆利根川さんは、人間の免疫細胞は、人類が長い長い時間をかけて行っている進化論的進化・変化を、短時間の間に次々と行っているという、それまでの科学の常識を打ち破って「GODのミステリー」を解いたのです。
 どんなミステリーも解かれてしまうと、後から見ると、実に単純な真理に帰着します。しかし、そうなるというメカニズムの発見は、実に巨大な努力と素晴らしいひらめきによってはじめて実現されるものです。


●真鍋 淑郎(まなべ しゅくろう  1931年~ )

1931年(昭和6年)、愛媛県宇摩郡新立村(現:四国中央市新宮町)に生まれる。祖父と父は医師。旧制中学校の愛媛県立三島中学校(現:愛媛県立三島高等学校)を卒業。「医師には向かない」と考え、地球物理学や気象学の研究に向かう。1953年(昭和28年)に東京大学理学部の地球物理学科を卒業。同大学院の修士課程を修了、「凝結現象の綜観的研究」で理学博士号を取得。1940年代に米国で世界初の汎用コンピュータを発明したフォン・ノイマンの影響を受け、コンピュータを使った気象予測(数値予報)の研究のために、プリンストン大学高等研究所へ。1958年、アメリカ国立気象局に入り、後に主任研究員になる。1968年、アメリカに移住、プリンストン大学客員教授となり、1969年に「大気海洋結合モデル」、つまり世界初となる「地球温暖化の予測」という論文をネイチャー誌に発表した。これらの研究により、地球温暖化を予測するために先駆的かつ重要な役割を果たしたことが評価され、2021年にノーベル物理学賞を受賞する。


『(日本では「頭脳」流出問題が大きな問題になっています。アメリカ政府から大きな支援があったとおっしゃっていましたが、日本の大学や研究機関の研究環境の改善策についてのご意見は?)

真鍋  研究を始めたころは、こんな大きな結果を生むとは想像していなかった。好奇心が原動力になった。後に大きな影響を与える大発見は、研究を始めた時にはその貢献の重要さに誰も気付かないものだと思う。今はコンピューターに使われている人が多い。若い人に言いたいことは、コンピューターに振り回されるな、と。ポピュラーな、はやっている研究に走らずに。自分の本当の好奇心を大切することです。

 最近の日本の研究は、以前に比べて好奇心を持って研究することが少なくなっているように思います。日本では、科学者が政策を決める人に助言する方法、つまり、両者の間のチャンネルが互いに通じ合っていないと思います。米国はもっとうまくいっていると思う。日本では、いつもお互いのことを心配しています。とても調和の取れた関係性で、うまく付き合うことが最も重要なことの一つです。他人に迷惑をかけるようなことはしません。日本人がイエスと言っても、それは必ずしもイエスを意味しません。ノーを意味することもあります。米国ではやりたいことをできる。他人がどう思おうが、私は気にしません。実際のところ、他人を傷つけたくはないけど、彼らが何を望んでいるのかは知る由もありません。米国での暮らしは素晴らしいと感じます。おそらく、私のような研究者は好きなことがなんでもできる。使いたいコンピューター、欲しいものはすべて得られました。私は調和の中で暮らすことはできないものですから、それが私が日本に帰らない理由です。

 私は教育には詳しくありませんが、最近の日本における研究は、以前にくらべて好奇心に駆られた研究が少なくなってきているように思いました。そして、日本の教育をどのように改善するかを考えてほしいと思います。日本では、科学者が意思決定者に助言する方法、科学者と政策決定者の間のチャンネルというものについては、双方がコミュニケーションを取っていないと思います。アメリカでは、国立科学アカデミーが政府に非常に効果的な形でアドバイスをしており、はるかにうまくいっていると思います。政策決定者と研究者がどのようにコミュニケーションをとるのか、もっと考えるべきではないかと思います。』

◆真鍋さんは、アメリカと比較しつつではありますが、日本の研究環境に本当の自由がないことを問題視しています。本当の自由とは、第1に、研究を押し勧める最大の原動力は研究者自身の「好奇心」である。「流行っている」かが問題ではない。他人や周囲がどうかではない。研究者の内発的な好奇心、つまりある問題についての自分自身の真理探究の欲求こそが大事なのであり、それを探求し続けることが結果として世ため人のため社会のためになる。子供たちの好奇心の自由な発露が十分に許され奨励されているのかどうか、ということが大事だとうことです。第2に、政府・政策決定者は、科学者の「自由な好奇心に駆られた研究」を推奨し、財政的にも十二分に支援し、自由に研究ができるような環境を整えること、が大事だということです。第3に、政府・政策決定者は、科学者の自由な研究を擁護し、科学者の科学的なアドバイスに耳を傾け、最良のコミュニケーションをとるべきである、ということです。

 現在、日本の研究者が危機感を募らせている最大の問題は、政府が基礎研究を軽視し、すぐ効果の出る実利的研究にのみ目を奪われ、大半の予算が後者に投入されていっていることです。当然、教育現場においても「子供の好奇心」を重視し、これを伸ばしていくという教育は軽視され、直ぐに役立つ知識・技術の習得が第1という傾向がますます強くなっているのです。また、コロナ禍が示しているように、政府は科学者のアドバイスに従うことよりも「世間の評判」「経済成長」を重視し、本当の問題の解決を遅らせてしまっているのが現状です。この点については、日本のみならず、「トランプ現象」のアメリカもまた深刻な壁にぶつかっているといえます。

 ノーベル賞を受賞したような科学者は、世界を舞台に行動し、活躍し、国際的評価を得ているだけに、耳を傾むけるべき貴重な発言が実に多くあります。


『(研究を始めた1960年代、気候変動が世界でこのような深刻な問題になると思っていましたか?)

真鍋  それは答えるのはとても簡単です。研究当初、こんなに重大なものになるとはまったく想像していませんでした。私は単に自分の好奇心から研究を始めただけなのですが、私の考えるところでは、科学において、時間がかなりたってから社会に大きなインパクトを与える大発見の多くは、研究当初、研究者たちはのちにどんなに大きな貢献になるかは想像してなかったと思います。最も興味深い研究とは、社会にとって重要だからといって行う研究ではなく、好奇心に突き動かされて行う研究だと思います。私は本当に気候変動の研究を楽しみましたし、すべての研究活動を後押ししたのは好奇心でした。自分はとても少ない得意分野で研究を進めてきました。私はとてもラッキーだったと思います。私は改めて大学院生に勧めるのは、好奇心から始まる研究です。それがあなたたちにとって最も重要なアドバイスだと思います。他の人がうらやむような魅力的なプロジェクトではなく、あなたが得意なプロジェクトを選ぶのです。』

◆ここで、真鍋さんは「内因論」の重要性を訴えています。どんなに社会的に重視されている問題であっても、そこに対して自らが好奇心を持つことができなければ、研究は進まない。特に、研究に取り組む最初・当初は、この好奇心という内因を大切にし、育て、伸ばしてやることが絶対に重要だということです。特異な分野の研究であってこそ長続きし、社会的にインパクトを生むような重要な発見がなされる、ということです。果たして、日本の教育はそういう風になっているでしょうか?


『(007年にIPCC(気候変動に関する政府間パネル)がノーベル平和賞を受賞しましたが、これと今回の受賞と比べてどちらがより重要ですか?)

真鍋  アル・ゴア氏とIPCCが受賞したノーベル平和賞のことですね。私もIPCCのたくさんいるメンバーの一人でした。IPCCが気候変動問題が平和と何の関係があるのか、不思議に思われるかもしれません。しかし、今から振り返ってみれば。気候変動、そして(アフリカ・サハラ砂漠の)サヘルの干ばつは農業に大きな問題を生み、そこに人が住めなくなり、アフリカからヨーロッパにやってくる大量移民を引き起こしました。そのため、私はノーベル賞委員会が平和賞を授与したのはすばらしいことだと思います。そしてその一人として私もいたわけです。政治の世界のことは、私にとってはとても不思議な世界です。気候変動を予測することはとても難しいことですが、私に言わせれば、政治の世界や社会で起きていることを理解すること以上に難しいことは何もありません。気候変動は今や環境だけでなく、エネルギー、農業、水など想像しうるありとあらゆるものと関係しています。干ばつや洪水など、社会の大きな問題が絡み合っていおり、今起きている気候変動にどうやって対応するのかを考えなければなりません。私たちはとても難しい問題に直面しています。』

◆ここで、真鍋さんは、「今や、最大の困難、最大の問題は政治である」と言っています。気候変動や環境問題は世界的な問題であり、世界的な協力・共同抜きには解決しえません。協力・共同について深く考えてみることが求められています。


『私が最も興味がある問題は、人類によって二酸化炭素がすでに45%も増加しているわけですが、もしこうした地球温暖化を招かなかったらどうだったか、ということを考えることです。また、二酸化炭素の数値を変えずに将来を迎えた場合、或いは追加的に二酸化炭素が増えた場合、大陸の氷床はどうなるかといことです。なぜなら、人々は今から100年後、200年後の未来について語っていますが、数百年後にはグリーンランドの氷床は重大な危機に直面しているからです。これは今後1千万年の間に私たちの気候がどのように変化していくのかという、もう一つの魅力的な問題だと思います。1千万年である必要はありません。しかし、氷床の力学については理解しなければなりません。現在の氷床のモデルは非常に粗雑ですですから、これはおそらく過去400年の気候変動については当てはまりますが、これからの百万年の間に何が起こるのかを知りたいと思うでしょう。人類がどうなっているのかを予測するのは非常に難しいですが、魅力的な問いです。』

◆真鍋さんは人類の未来、数百年後、1千万年後の人類にとっての気候変動と環境問題にも言及しています。科学の目はまさに望遠鏡の如きものです。真鍋さんの「科学的な予言」に耳を傾け、自然科学の面からも、社会政治科学の面からも、「気候変動という人類の未来の大問題」の解決を目指さねばならないと、あらためて思ったことです。

                                (2021年10月6日 朝日デジタル&朝日GLOBEに紹介された「インタビュー」より)



●大隅良典(おおすみよしのり ) 第2回

    1945 年、福岡生まれ。東京大学大学院理学系研究科博士課程単位取得

    後退学。理学 博士。専門は分子細胞生物学。 「オートファジーの仕組

    みの解明」により2016年のノーベル生理学・医学賞を受賞。 東京工業

    大学科学技術創成研究院細胞制御工学研究センター特任教授。


『もう三十数年になり ますが、私は「オートファジー」という、細胞の中で起こる分解過程 の研究を続けてきました。…オートファジー研究のきっかけになったのは、飢餓状態に置いた酵母細胞を観察することを思いついたときでした。…酵母細胞を栄養源のない培地に移して3時間ほど経ったころでしょうか。液胞(注:それまでは細胞内の液胞は何の役にも立たない、細胞内のごみダメ溜め位に見られていた)の中で、球状の構造体が激しく動きまわっているのが見えました。たくさんの構造がみる みる溜まっていくのです。この瞬間が、その後の私の研究の方向性を決めました。…現象を観察できたら、あとは当然、メカニズムを解き明かすことが生物学者としての次の課題となってきます。遺伝学的な解析の結果、私たちは合計18個の遺伝子を解明しました。ついに「手がかり」がつかめたのです。いざ遺伝子がわかると、オートファジー研究のフィールドは一気に近代生物学の領域に入ってきます。ありとあらゆる系で、オートファジーがさまざまな働きをしてい ることがわかってきました。 』 

◆大隈さんが研究した「オートファジー」について、簡単に説明すると、細胞が持っている、細胞内のタンパク質を分解するための仕組みの一つです。大隈さんは飢餓状態においた酵母細胞を使い、その細胞内にある液胞の活躍でタンパク質を分解する現象を見つけました。そして、そうした現象を引き起こすメカニズムを追求し、合計18個の遺伝子を発見します。ノーベル賞に値する発見でした。

 これにより、オートファジー研究のフィールドは一気に広まり、近代生物学のあらゆる領域で、オートファジーがさまざまな働きをしていることがわかってきました。例えば、細胞内での異常なタンパク質の蓄積を防いだり、過剰にタンパク質合成したときや栄養環境が悪化したときにタンパク質のリサイクルを行ったり、細胞質内に侵入した病原微生物を排除したりすることで生体の恒常性維持に関与している現象を指し、このほか、個体発生の過程でのプログラム細胞死や、ハンチントン病などの疾患の発生、細胞のが化抑制にも関与することが知られています。

 大隈さんは、こうした研究活動を踏まえつつ、次のことを提言しています。


『私は、いまの日本の状況においては、「基礎科学は役に立つんですよ」と主張する ような立場には身を置かないようにしたいと思っています。というのは、日本の一つ の大きな問題として、「科学(サイエンス)」と「技術(テクノロジー)」 が区別されず、「科学 技術」という言葉で括られてしまっていることがあるからです。 

 多くの人は、それが行政の人間であったとしても、「科学」は「技術」の基礎なんだ、 という理解をしてしまっています。つまり、基礎科学は技術のためにあるのだという 考えを持っている。これは非常に大きな問題だと思います。初田さん(理学者)が言われたように、「科学」というものは、原理や普遍性や法則性を「発見」 する過程です。一方の「技術」とは、「発明」という言葉に代表されるものです。こ の二つには、じつは大変大きな違いがあるんだということを、もう少しわかっていた だく必要がある。そういうことを、私はありとあらゆるところで申し上げてきたつも りです。ただ、もちろん、科学の進歩は技術に支えられていますし、技術の進歩も科 学に支えられているということはありますから、二つの関係が密接であるということ も、一つの事実ではあります。 

 こういった背景があるために、日本においては「役に立つ」ということが、そのま ま「産業の役に立つこと」や「生活が便利になること」というように、非常に狭い範囲で理解されてしまっているのです。だからこそ、いまの日本では「役に立っ」とい う言葉がものすごく氾濫しているし、私はそのことが、あらゆる意味で社会を窮屈にしてしまっているのだと思っています。 …とにかく「効率」 の良さが科学においても重視されてきていることを痛感します。しかも、(最近よく言われている)「選択と集中」というターム(期間)においては、一年、二年、あるいは数年先に成果が出るような研究をやらなければいけないことになってしまう。このこと が、多くの人を基礎研究から引き離す原因になっていると思います。 

 関連してもう一つだけ。いま、日本人には、歴史的に物事を見ようとする視点が全体として欠落していて、自分がいま生きているタームから数年先くらいのことしか考えないまま生活するという傾向が非常に強くなってきているのではないでしょうか。そのこともやはり危惧すべきでしょう。… 

 自分の研究を振り返ってみて思うことは、これが将来、がん医療の「役に立つ」に違いないとか、アルツハイマー病のような神経性疾患や感染症のメカニズムを解明するのに「役に立つ」だろうとか、そういうことを思って始めたわけではないということです。細胞の中で起きている分解のメカニズムを知りたいという、ただの好奇心か らスタートした研究だったということです。そして、本当に小さな現象の発見が、その分野の研究が発展する契機になりました。 』

◆大隈さんは、研究が「世の中の役に立つこと」(実利)を優先・先行させた取り組みになることに強く反対しています。特に、最近は、予算を握っている行政機関が「選択と集中」とかいって、直ぐ成果(結果・効果)が出るような研究ばかりを推奨するような風潮に強くなっており、そうした目先の成果・結果ばかり追いかけている環境では基礎研究は衰退するばかりである、と。勿論、基礎研究も、結果としては、必ず「世の中の役に立つ」ものです。しかし、それは基礎の研究であるだけに、非常に広範な分野・領域に影響を及ぼします。それだけに、目先のあれこれの実利だけに目を奪われている者には、とうてい基礎研究を正しく評価することはできないのです。

 ここには非常に重要な問題提起があります。現代日本の「科学行政」の問題点が明白にされています。

                  『「役に立たない」研究の未来』(柏書房 2021年4月)の                      中の 「第2章 大隅良典・すべては好奇心から始まる―

                    ご み溜めから生まれたノーベル賞」 より




(2021年8月 追悼号)

   益川敏英(ますかわとしひで 1940年~2021年7月23日没)

     2021年7月23日、ノーベル賞受賞者益川敏英さんが81歳の生涯

    を閉じられました。ご冥福をお祈り致します。


   愛知県出身。名古屋大学理学部卒業、理学博士。1980年より京都大

    学大学理学部教授。「9条科学者の会」呼びかけ人。京都大学助手の 

    ころ、粒子と、反粒子とでは、姿形は同じでも壊れ方が違うという

    「CP対称性の破れ」が実験で確認されたが、その後、それを説明す 

    る理論を小林誠氏とともにつくりあげた。その過程で、原子核を構成 

    する基本粒子である「クォーク」が6種類であることを予言した。こ

    れが1973年に発表された「小林・益川理論」である。1994年には6

    種類目のクォークである「トップ・クォーク」がアメリカのフェルミ

    研究所で発見され、理論の正しさがますます確かになった。2008

    年、「クォークが自然界に少なくとも3世代以上あることを予言す

    る、対称性の破れの起源の発見」により、ノーベル物理学賞を受賞


学問とは多くの自由を与えてくれるもの 
 ここ(注:第1回-坂田・早川記念レクチャー)には若い人たちもみえているので、言っておきたい面白い言葉があります。「自由とは何か」ということなんですが、福沢諭吉の「自由といえども法を越えず」という言葉があります。最初これを聞いた時には、僕自身あまりよく理由がわからなかったんです。 何てことを言ってるんだろう、おかしなことを言ってるなと。 
 なぜ福沢諭吉の「自由といえども法を越えず」という言葉に対して僕が反発を感じたかというと、法を越えたか越えないかを誰が決めるんですか? こういう言葉だけだとしたら、非常に反動的なことになりますね。常識が法を越えたか越えないかということ を決めるんであったとしたら、反動的な言葉です。 
 実際に、一九六〇年の終り頃にツイギーというイギリスのファッションモデルが、膝 小僧がちょっと見えるか見えないかのスカートをはいて現れたことがありました。その 時に、当時の世論は喧々諤々(けんけんがくがく)なわけです。あんな短いスカートをはいてけしからんと。 今やそんな膝小僧すれすれのスカートなんて何てことないんですが。ツイギーのミニス カートというのはある意味では時代の流れで、治安がよくなっている、かつ服装の自由度を増やすという意味で必然性があったんだと思います。 
 そのように福沢諭吉のいう「自由といえども法を越えず」などという訳のわからない言葉ではなくて、自由とはどういうことかということを、福沢諭吉より一〇〇年ぐらい 前に、ヘーゲルという人が「必然性の洞察である」と言っています。「自由とは必然性の洞察である」、これだけを聞いて、「あっ、よくわかった」という人は、ぜひ哲学科に行ってください。解説をしないと良くわかりませんよね。例えば、こちらのレバーを押すと100万円出てくる。こちらのレバーを押すと毒ガスが出てくる。さあ、どうする、 ということなんです。どちらを押したらどうなるかということがわからずにそれを言われたら、どちらを押すかということは、ただ偶然に身を任せるだけですね。どちらを押した時にどうなるかということがわかった時に、例えばこちらを選択するということに、 自由というものがあるはずなんです。いろんな方法、選択の道があるけれども、こちらにいったらどうなる、こちらにいったらどういう結果になるということがわかった上で、 こちらを選ぶということが自由の選択なんだ、ということをヘーゲルが言ったのです。 
 そういう意味で言いますと、学問というのは人類に対して、より多くの自由を与えてくれるものです。法則がわかって、「こうすればこうなる、ああすればああなる」とい う意味で、より多くの自由を人間に与えてくれるものだと言えると思うのです。』
   (益川敏英著『科学にときめく』 2009年6月刊 かもが
    わ版)
 ◆私たちの友人で長年に亘って「地震理論研究」をしている人
  物がいます。まさに、その研究の目指すところも「自由とは
  必然性の洞察である」ということに帰着します。新しい理論
  が人類に新しい自由(可能性)を与え、新しい対応方法・対
  策技術の革新をもたらします。

赤﨑 勇 (あかさき いさむ、1929年1月30日 - 2021年4 
        月1日) 追悼号 (第3回)

『1989年の年の秋(9月)に、化合物半導体国際会議(現ISCS)が軽井沢で開かれることになっていました。その会議で発表するために、審査のための予稿を提出したのは4月末です。 まだそのときには、p型ができたとは書きませんでした。「電流・電圧特性など総合すると、この結果はp型ができていることを非常に強く示唆している」という抄録論文を提出しました。
 【注;通常、GaN(窒化ガリューム)単結晶はn型を示している。他の材料ではp型に変える方法として、アクセプタと呼ばれるp型化を示す不純物を少量添加(ドープ)する方法が一般に知られている。ところが、GaN単結晶はこのアクセプタを少量添加しただけではp型化しなかった。そのため、当時は「p型GaN単結晶は絶対にできない」と断言する研究者までいた。事実、良質なGaN単結晶を実現した後、p型化を目指して研究を進めた天野氏も厚い壁に直面した。天野氏は亜鉛(Zn)やマグネシウム(Mg)をアクセプタを選び、GaN単結晶に少量添加してみたが、何度試してもp型化しなかった。だが、天野氏はこの厚い壁を突破する。その方法は、Mgを少量添加したGaN単結晶に電子線を照射するというものだ。これにより、p型GaN単結晶が実現された。赤崎氏と天野氏のグループは、この方法を「低速電子線照射」と名付けた。n型結晶には「電子」が過剰にあり、逆にp型結晶にはあるべき電子がなくぽっかり空いた穴「ホール」がある。が、電圧をかけてp型のホールと n型の電子がくっつくと ピカっ!と光る。p型とn型を合体させたものが青色発光ダイオード(整流作用、電流を一定方向にしか流さない作用を持つLED電子素子、LED半導体のこと)である】
 実は、そのときの選考委員には私も名を連ねていたのですが、当日は出席することができなかったため、委員長にお願いして、代わりに天野君に出席してもらっていました。 その日の夕方、天野君から電話がかかってきて、開口一番、「先生、落とされてしまいました」 。
 私は耳を疑いました。オーラル発表(口頭による発表)は、応募論文の5%程度しか選ばれないとはいえ、私たちの論文が選考から漏れたのは、にわかには信じられない思いでした。 
 すると天野君は続けて、「事情はわかりませんが、ポスターセッションのほうは2、3空き があり、今日中に決めたいので、自薦他薦問わないそうですが、どうしますか?」と言ってきました。  多くの場合プレゼンテーションは研究発表のポスターを動かせる壁に貼り付け、発表者が通っていく出席者の質問に答える形で行われる。「ポスターででも、とにかく発表したい」と私は答えました。 結局、ポスターセッションに採択されました。 
  【注:ポスターセッションの場合、プレゼンテーションは研 
   究発表のポスターを動かせる壁に貼り付け、発表者が出席
   者の質問に答える形で行われる。正式な論文発表ではな
   く、簡易な研究発表スタイル】
 後日、選考委員会での、詳しい採点結果について報告を受けました。その資料を見て、正直、 がっかりしました。多くの委員がとても低い点数をつけていたからです。会議での議論の様子を伺うと、「窒化ガリウムは、p型云々できる材料ではない」などと否定的な意見を述べた人がいて、 その意見に皆引きずられたのではないか、ということでした。 
 採点一覧表を見て私が感じたことは、‶はやりの研究”の成果で、従来よりある程度、特性が向上したといった論文は平均4~5点が多く、半面、「窒化ガリウム」がタイトルに入っている だけで、(おそらく內容をあまり吟味することなく) 2~3点しか与えていない――という印象 を受けました。 
 こうした経験もあって、私はのちに、研究費などの審査の設問に「その研究は外国のどこで行 われていますか?」のような項目があることについて違和感を覚え、しばしば意見を述べてきまし た。「評価システムや項目を見直す必要があるのでは」と。最近はずいぶん改善されたように聞いています。 
 結局、軽井沢で開かれた化合物半導体国際会議において、私たちはポスターセッションで発表したわけですが、それなりに大きな反響を呼びました。特に海外の研究者が強い関心を示し、も っと詳しく話を聞きたいと言ってきました。名刺10枚近くはもらったと思います。 
 ただ、日本の研究者は、それほど関心がないようでした。あいさつには来られるのですが、窒化ガリウムというタイトルを見ただけで興味がなさそうでした。… 一方、この国際会議よりも前、1989年5月のロサンゼルスの学会では、大変な反響を呼び、スタンディング・オベーション(満場総立ちでの拍手)に近い喝采を浴びました。そして、pn接合という表現は使いませんでしたが、「青色に光るダイオードもすごいけれど、こんなにきれいな無色透明の窒化ガリウムを見たのは初めてだ」と言って、たくさんの人が絶賛してくれました。 』
◆ここで、赤崎さんは、日本の学会の「問題点」を鋭く指摘しています。つまり、「既に外国で研究が進んでいて、その基礎の上に乗った、‟はやりの研究”の成果で、従来よりある程度、特性が向上したといった研究」は評価される(5~6点与えられる)が、外国のどこでも研究されていない、まったく新しい研究に対する評価は極めて低い(2~3点しか与えられない)というのです。他の多くの日本人ノーベル賞受賞者も同じような指摘をしていますが、多くの保守化した日本の学会(古い歴史を有する学術組織・団体)は、独創的で全く新しい研究に対して、極めて‶鈍感”であり、外国で評価された後に初めて日本国内で評価されるという場合がしばしばです。日本には多くのノーベル賞受賞者がいますが、こうした優れた頭脳が正当に評価され、のびのびと、自由闊達に研究生活が送れるような社会に転換していかない限り、これからの日本の飛躍的発展は到底のぞめるものではありません。

『私たちが窒化ガリウムのp型伝導(pn接合)を見出した2~3年後だったと思いますが、外国のある雑誌に「赤﨑たちのp型GaN の発見はセレンディピティだ」といった意味のことが 紹介され、しばらくの間、研究会などで話題になりました。セレンディピティとは探し求めてい たものでなく、「偶然に重要なものに巡り合った」ことのたとえに、スリランカの王子様の経験 をひいて用いられる表現です。レントゲンによるX線の発見など、大きな発見によく使われます。 
 私も、なるほど、そうか――と最初は思いました。しかし、よく考えてみると、「結晶をとことんきれいにして」、残留電子濃度の少なくとも10倍以上の「適切なアクセプター不純物をドープ(少量添加)する」という、いわば半導体における伝導性制御のまっとうな方法が功を奏したわけですから、 これは偶然ではなく、むしろ必然だったのではないか、と考えるようになりました。もっとも、「幸運の女神は、いつもそれを強く求めて、それを受け入れる準備をしているものだけに微笑む」ということはあるでしょう。 
 また、仮にセレンディピティがあったとすれば、それは亜鉛ドープの高品質結晶に電子線を当てたとき、天野君が偶然に見つけた発光強度の増大現象(LEEBI)かもしれません。しかし、 このLEEBI現象も、低温バッファ層技術によって結晶をとことんきれいにしていたから、際立って強く観測されたわけで、これもある意味で必然といえるでしょう。』
◆赤崎さんは、単なる偶然(偶々出合った幸運) などないと言っておられます。弁証法的哲学は「偶然性は必然性の結果であり、偶然性を通じて必然性は成る」「必然性の過程では常に偶然が伴う。偶然は必然の産物であり、偶然は必然のための糧である」「すべて必然性が支配するが、この必然性の現象形態が偶然性である」としています。
 赤崎さんは、別のところで、自らの人生を振り返り、三木清の『哲学ノート』の次の一節を紹介しています。
「人生においては何事も偶然である。しかしまた人生においては何事も必然である。このような人生を我々は運命と称している。もし一切が必然であるなら運命というものは考えられないであろう。だがもし一切が偶然であるなら運命というものはまた考えられないであろう。偶然のものが必然の、必然のものが偶然の意味をもっている故に、人生は運命なのである」 と。
 赤崎さんはまさに弁証法的哲学人です。

読者の質問―「青色LEDの発明・発見において、赤崎・天野さん、そして中村さんが果たしたそれぞれの役割とは?」
 青色LEDの発明は、1986年にまず、赤崎勇氏と天野浩氏をはじめとする名古屋大学研究チームが青色LEDに必要な高品質な窒化ガリューム結晶の生成技術の発明に成功し、1991年に、中村修二氏が、これを元に、世界で初の実用的な高輝度を発する青色LEDを発明するに至りました。
 そもそも、LEDの歴史は今から100年以上も前の1906年に始まりました。この時は、イギリスの科学者ヘンリー・ジョセフ・ラウンド氏が炭化ケイ素に電流を流すと黄色く光ることを確認したというものでした。その後、アメリカの科学者ニック・ホロニアック氏が赤色LEDを発明します。そしてさらに、黄、橙、黄緑などの各色LEDが誕生していきました。白い光を生み出すには、光の三原色である赤、青、緑が必要です。その後世界中の科学者たちが、白色を実現するための青色LEDの研究に必死になりました。日本でも同じような取り組みが行われてきました。
 1964年、赤崎勇氏は、国内には東京大学にしかないといわれていた珍しい実験装置が備えられていた松下電器産業が新設した研究所にて、青色LEDの主要な材料となる「窒化ガリウム」と出会い、青色LEDの開発に邁進します。そして名古屋大学の赤崎・天野研究チームは、マグネシュームを少量添加した高品質窒化ガリウムに電子線を当てると性質が変わることを発見。これがヒントになり、1989年にpn接合の青色発光ダイオードを作製することができたのです。その後、中村修二博士が、電子線を当てないとp型が機能しなかった詳しい原因を探り、「マグネシウムに水素原子がくっついて邪魔をしていた」ことを突き止め、「400℃以上で加熱する特別な熱処理をする」ことで、邪魔な水素原子が離れて、電子が思い通りに動くようになり、効率よくpn接合ダイオード=LED半導体を作る方法を編み出されたのです。
 1989年、赤崎・天野氏が、マグネシュームを少量添加した高品質窒化ガリウムに電子線を当てることにより、ついに青色発光ダイオードを開発し、さらに1991年、中村博士が、電子線照射でなく熱処理するだけで従来の100倍の明るさのLED量産化の方法を発明し、こうしてLEDの実用化が一気に進んだのです。 
 (『青い光に魅せられて』2013年3月 日本経済新聞社刊より)

赤﨑 勇 (あかさき いさむ、1929年1月30日 - 2021年4 
        月1日) 追悼号 (第2回)

【 1952年に京都大学を卒業しました。当時はかなりの就職難でしたが、理系出身の学生の多くは、当時のドイツを見習って、日本の工業を興さなければならないという、使命感をもっていた時代でもありました。 
 私は神戸工業株式会社に就職が決まり、明石大久保製作所で働くことになりました。神戸工業は、当時、「神戸工業大学」といわれるくらい、そうそうたる人材を擁していました。一匹狼の集まりというか、野武士の集団というか、組織的でなかった半面、比較的自由な雰囲気があって、 ひとつの思想で押しつけないところが、私には合っていました。 
 この頃の社員には、第一技術部(神戸)に、のち(1973年)にノーベル物理学賞を受賞された江崎玲於奈さんや成田信一郎さん(のち大阪大学教授)など、少なくとも5名くらいの優れた材料屋さんがいました。第二技術部(明石)にも、高木俊宜さん、佐々木昭夫さん(ともに、 のち京都大学教授)、三杉隆彦さん(のち富士通研究所長)などがいました。… 
 1950年代後半から1960年代にかけて、日本経済は高度成長期を迎えます。1956年 には、経済白書に書かれた「もはや戦後ではない」という言葉が流行語となりました。電気冷蔵庫・電気洗濯機・白黒テレビが「家電三種の神器」といわれたのもこの頃です(ただ、一般家庭 への普及は、もう少し先になります)。 
日本においても、エレクトロニクスの時代がいよいよ到来します。それを受けて、8大学(旧七帝大と東京工業大学)などに電子工学科が創設され、その目玉はまさに半導体の教育と研究でした。…
 結局、名古屋大学では1964年の3月まで、助手から講師、助教授になるまでの5年間を過ごすことになりました。この短い5年間が、研究者としての私の原点ともいうべき時代です。神戸工業では技術部にいながら製造現場の仕事が忙しく、研究らしい研究をやったという感覚はほとんどありませんでした。もちろん、戦後の復興期にあって、(私だけではありませんが)これからの日本は科学技術立国であるべきだという意識のもと、少しは世の中の役に立ちたいという気持ちはもっていましたが、当時は研究者になろうという意識はありませんでした。… 
 MOVPE法(註:窒化ガリュームを使った単結晶体作り)での再出発を決心したものの、そう簡単に事は進みませんでした。松下での状況が変化しつつあったからです。 
松下電器東京研究所は設立当初、本社からは独立した存在でしたが、資金は100パーセント 本社から出ていて、所員は研究に没頭できる、自由な雰囲気でした。ところが、消費者運動の高まり、オイルショックやニクソンショックなどにより、松下電器自体の経営環境が厳しくなり、 研究所も影響を受けざるを得ませんでした。 
 1971年には「松下技研株式会社」に組織変更され、近い将来の製品化が見込めない基礎的な研究の資金は自ら獲得するというように、研究所の方針は大きく変わりました。1977年に 小池社長が亡くなったことも、こうした変化に拍車をかけました。 
窒化ガリウム以外に、Sプロジェクトなどいくつかのプロジェクトを遂行していた私自身も、 こうした研究所全体の環境変化の影響を受けざるを得ませんでした。 
 私は窒化ガリウムの可能性を信じていましたが、上層部の目には、窒化ガリウムによる青色発 光素子研究は「海のものとも山のものともつかない」と映っていたようです。… 
そのため、窒化ガリウムの研究に注ぐ力を、ほかの研究に振り向けてほしいと、松下の上層部からはたびたび言われていました。】
◆ここで、赤崎さんは注目に値する「時代状況」の変化というものについて語っています。戦後から1960年代までは、「日本の工業を興さなければならないという、使命感をもっていた時代」であり、「一匹狼の集まりというか、野武士の集団というか、組織的でなかった半面、比較的自由な雰囲気があった」時代であり、次々と新しい挑戦が進んでいきました。ところが、「1971年には(会社内体制が)組織変更され、近い将来の製品化が見込めない基礎的な研究の資金は自ら獲得するというように、研究所の方針は大きく変わり、1977年には社長が亡くなったことなどが切っ掛けになり、こうした変化に拍車がかかった」 という時代に変わっていったというのです。
 確かに、戦後から60年代までは、「平和と豊かな生活を!」「科学技術立国の日本を!」「力強い経済成長を!」合言葉に、社会的使命感に溢れた多くの技術者・経済人・勤労者が伸び伸びと、自由闊達に、思う存分働き、素晴らしい成果を生み出し、「頂上」を極めていきました。しかし、1970年代に入ると「公害」「インフレ」が火を噴き、「石油ショック」を機に、世の中は「高成長」から「低成長」に転落し、その後は「バブルの乱痴気騒ぎ」を経て、「長期低落の氷河期」を迎え、今や日本は「格差に苦しむ貧困社会」「出生率低下・低落社会」「増え続ける若者の原因不明の自殺大国」「膨大な債務を抱える借金大国」に転じてしまい、「ゼロ成長」「未来に希望の持てない社会」などと言われる時代に陥っています。
 今、赤崎さん始めノーベル賞受賞者の皆さんが、危機感を持ち、口を揃えて訴えていることは、「現在の日本は、目先の成果・成功のみに目を奪われ、社会的使命が忘れ去られ、科学的基礎研究がまったく軽視されている。もっと基礎研究に投資し、ここに力を入れていかなければ大変なことになる」ということです。
「時代」は否応なく変化し、変貌し、転換していくものです。今という時代を生きる私達には、産業・経済・社会システムの根本的な再検討が求められ、抜本的なシステム変更が求められているようです。その再検討を進める上で、ノーベル賞を受賞された方々が提起されている多くの助言・アドバイスは、非常に参考になり、教訓に満ちています。そこから学び、自らの場所において、その真実を追求し実践することが大切と思います
(『青い光に魅せられて』2013年3月 日本経済新聞社刊より)

赤﨑 勇 (あかさき いさむ、1929年1月30日 - 2021年4 
        月1日) 追悼号 (第1回)
鹿児島県生まれ。京都大学理学部卒業後、松下電器研究所、神戸工業で国産ブラウン管開発担当経て、名古屋大学工学部教授に。日本を代表する半導体工学者。名古屋大学特別教授・名誉教授、名古屋大学赤﨑記念研究センターフェロー。高輝度青色発光ダイオードの発明で中村・天野氏と共に2014年度ノーベル物理学賞を受賞。2021年4月1日亡くなる。

父の言葉と母の愛情に抱かれて 
 私の生まれは、鹿児島県薩摩半島の南部中央に位置する知覧町(現・南九州市)です。物心が ついてからは、鹿児島市の北東部、通称・上町で育ちました。 祖先は、島津家の分家のひとつである知覧島津家の流れを汲む薩摩藩士だそうです。… 
 父は、知覧にあった県立薩南工業学校(現・薩南工業高等学校)の建築科を出て、会社勤めなどを経験したようですが、最終的には仏具屋として、鹿児島の西本願寺関連の仕事をしていました。当時の私はあまりよくは知らなかったのですが、私の二つ違いの兄・正則の話によれば、父はなかなかのアイデアマンだったようで、仕事のほうでは新しいものにどんどんチャレンジする人だったといいます。また、かなり盆栽に凝ったり、小鳥、金魚、餌などを飼ったり、晩年は海釣りを楽しんだりと、多趣味な人でもありました。私が小さい頃に何回か、自転車に乗せてもらい、鹿児島市内を流れる甲突川という川の上流に川釣りに連れて行ってもらった思い出があります。
 父の口から聞いたことはありませんが、父は兄弟姉妹が多く(三男五女)、三男だった父は、 おそらく経済的理由で上級学校へ進学しなかったので、子どもたちには、本人が行きたい学校へ行かせたかったのだと思います。それで、「行きたければ(東京でも京都でも)どこでも行きたい学校へ行っていい」「好きなことをやればよい」と言っていました。敗戦のとき疎開先で、「これからは思いっきり好きなことがやれるね」と言っていたのを、よく覚えています。こうした父の言葉を受けて、私も自然に自立心が芽生えていったように思います。…
 母は、大変信心深い仏教徒で、毎日曜日、お寺に法話を聞きに行っていました。その日曜学校 に、小学生の私を必ず連れて行くのです。おそらく、私がひどくやんちゃだったからなのでしょ う。 …
 母はいつも微笑を絶やさない心のやさしい人で、誰にでも親切で、私たち兄弟からはもちろんのこと、親戚や近所の人たちからも慕われていました。子どもたちに対しては、「人様に迷惑を かけない限り、自分の好きな道に進みなさい」と言っていて、いつも温かく見守ってくれました。 …
鉱物に魅せられる  
 少年時代は、当時の多くの子どもたちと同じように、近くの野山や鹿児島市内の磯海岸という 海辺で遊ぶのが大好きでした。日が暮れるまで、城山での虫捕りや磯遊びに夢中になっていました。特に、磯海岸には無数の貝殻や、波に削られて丸くなったきれいな小石がたくさんあって、 飽きもせず、海岸の石を拾っては眺めていたことを覚えています。いつだったか、父が、「こんなものを買ってきたよ」と言って、机の上にポンと小箱を置いて くれたことがあります。開けてみると、箱の中は四角く仕切られていて、敷き詰められた綿の上 に、方解石や黄銅鉱などさまざまな色や形をした鉱石の標本がきれいに並べられていました。これにはすっかり夢中になってしまいました。なぜ石によって、こんなに色や輝きが違うのだろうと、鉱物の不思議にすっかり魅せられてしまったのです。 鉱物の外形の面のクセを「晶癖」「晶相」といいますが、結晶が成長する際に、成長速度が遅い面は平らになり、成長速度が速いと樹枝状に尖ったりします。また、きらきらと光ったり、 雲母のようにペラペラと二次元的に剥がれたり、石によってさまざまに性質が違うのです。こうした晶癖や晶相への興味は尽きず、飽きることなく石を眺めては楽しんでいました。このように、 少年の頃、鉱物標本の虜になったことは、後年の私の人生を暗示しているように思います。 …
「敬天会」に憧れて 
 ところで、私が生まれたのは1929年、世界大恐慌があった年です。小中学校時代はちょうど第二次世界大戦の真っ只中で、とても困難な青春時代を過ごすことになりました。 
私たち兄弟が通っていた大龍小学校は、鹿児島の城下町上町の島津家内城の中の大龍寺跡に 1883年に創立された由緒のある小学校で、近くには島津家屋敷をはじめ、「健兒の舎」や南洲神社などがありました。その大龍小学校出身の県立第二鹿児島中学校(現・甲 南高等学校)生の有志が、大龍小の校訓「敬天愛人」(西郷隆盛の遺訓に由来)に倣って、「敬天会」をつくって活動していました。私が小学校6年生のとき、兄がその二中の敬天会で活動しているのがとても楽しそうで、自分もぜひ入りたいと思っていました。 
 小学校の担任の森武英先生にはずいぶん可愛がっていただきましたが、その森先生が、私を県立第一鹿児島中学校(現・鶴丸高等学校)に進学させてほしいと両親を説得しに来られたことがあります。しかし、わが家は両親とも本人任せでしたし、私自身は「一中か二中 か」というより敬天会に入りたくて、二中以外への進学は考えませんでした。』
◆赤崎さんもまた、他のノーベル賞受賞者同様、貧しくても自然の中で伸び伸びと育てられています。そして、周囲の大人や先輩がこどもたちを暖かく見守り、様々な良き影響を与え、その成長を助け、励ましています。残念ながら、現代社会ではこうした環境は実に稀になってきているのが実情です。ノーベル賞級の頭脳は個人の力だけによって生み出されるものでありません。社会全体が「良き環境」を作り上げない限り、個人の才能も開花しないのではないでしょうか。
「プチ・アインシュタイ ン」
 (京都大学理学部在学中に聞いた)湯川先生のノーベル賞受賞の知らせは、いい意味で大変な衝撃でした。もっと も、湯川先生ははるか雲の上の人ではありましたが、京都大学の学風にも感化されて、「自分も何か小さいことでもいいから新しいこと、やりたいことをやろう」という気持ちを抱きました。 近衛通りにある医学部の横を歩きながら、そうした思いを抱いたことを覚えています。 …
 大学時代に受けた講義で最も印象に残っているのは、荒勝文策先生の「物理学通論」です。風貌がアインシュタインに似ていることから、私たちは荒勝先生のことを「プチ・アインシュタイ ン」と呼んでいました。 
 荒勝先生は、日本で最初に、コッククロフト・ウォルトン型加速器を用いて原子核の人工変換 の実験に成功した方で、敗戦までは京都大学でサイクロトロンの開発をされていました。原子爆弾の研究のためではなかったのですが、残念ながら戦後、GHQ(連合国軍総司令部)の命令により、理化学研究所のそれと同様、荒勝研究室のサイクロトロンは解体され、投棄されたそうです。 
 先生の講義の詳細は忘れてしまいましたが、いまだに強く印象に残っている言葉があります。 先生は、両手の掌を理論と実験に見立て、向かい合わせて、交互に上げて行きながら、こうおっしゃいました。「理論があって、それを実験が後付けで実証することもあれば、実験結果が先にあって、それが理論を誘導することもある」 
 のちに研究生活を送るようになって、このことをしばしば実感することになりました。特に、 窒化ガリウムの研究(青色LED開発)の途上で、荒勝先生のこの言葉を思い出しては励まされたものです。
 できない理由を考えるより、手を動かす 
 のちの松下電器東京研究所時代にも、理論家と議論になることがありました。なぜそういう議論になったかといえば、まさに荒勝先生の言葉が胸にあったからです。理論家ではない私が言う のも口幅ったいのですが、私は、理論家というのは、実験屋を刺激する新理論を打ち立てる人だと考えています。何かが「できない」とき、いろいろ仮定を立てて、どうしてできないのかを説明する理論家は多いのですが、それだけは少し淋しいのではないか、というのが私の考えです。 一方、実験屋は、「できない」理由を考える暇があったら、まずは手を動かして実験をしてみるべきだというのが私の持論です。
  たとえば、結晶の純度や品質を高めると、それまでとは異なる物性(値)を示すことがあります。最近、東北大学で非常に純度の高い鉄をつくることに成功したそうですが、その鉄は従来の鉄に比べて安定していて、錆びないといわれています。…私たち科学者は、常に謙虚でなければならないということだと思います。「もうこんなにわかった」というのではなく、「なんとかここまではわかった」という姿勢が必要ではないでしょうか。 そのことを、京都大学時代、荒勝先生の講義などを通して身につけることができたのは、とても よかったと思っています。』
◆荒勝先生の「理論があって、それを実験が後付けで実証することもあれば、実験結果が先にあって、それが理論を誘導することもある」 という言葉、哲学が実に大いなる影響を赤崎さんに与えたことが記されています。「思想も人を捉えるや物質的力、行動エネルギーに転化する」という哲学上の教えがありますが、荒巻先生のこの言葉が赤崎さんの内部に「巨大なエネルギー」を生み出し、研究・開発を推し進めていったことが伺われます。荒巻先生のこの理論と実践に関する言葉は、すべての研究者にとっても重要な教えであり、実に示唆に富んでいると思います。
  (『青い光に魅せられて』 2013年3月 日本経済新聞社刊)

●大村智(おおむら・さとし 1935年~)  第3回
 《週刊新潮・3月25日号で、大村博士が開発した「イベルメク 
 チン」がコロナ治療薬として世界中から注目されていることが
 特集され、大きな話題をよんでいます。そこで、イベルメクチ
 ンの発見・開発に至る経過を紹介しておきます。

『新化合物を探す 
 北里研究所の大村室では、学生を含めメンバーの全員が微生物を探すことに力を注いだ。鞄には常に小さなビニール袋とスプーンを入れておき、土を採取して研究室に持ち帰っては菌が作る物質を調べた。学生には採ってきた土から微生物を分離する実習をさせた。… 
 ビニール袋は今でも持ち歩いている。ノーベル賞受賞後の記者会見などで、ビニール袋を見せながらポーズをとってほしいと頼まれて、ずいぶん写真を撮られたので、見たことのある人もいるだろう。自宅の庭でも外出先でも、気づいたときにいつでも土を採れるようにしている。…

スクリーニング 
 私たちの研究室では土を採取し、そこにいるさまざまな微生物が作る物質を見つけだす。そ のなかから、たとえば高血圧に効く薬や、血管を詰まらせる血栓を溶かす薬になるものを見つける。この作業を「スクリーニング」(探索研究)という。絶えず他人がやらないスクリーニン グ法を考え、逆転の発想を取り入れたこともある。 
 従来は病原菌の働きを抑えるとか酵素の機能を妨げるといった活性をまず考え、そうした活 性を持つ物質を探すのが主流だった。私は順序をひっくり返し、最初に化合物を見つけ、それ から性質や活性を調べた。微生物は無駄なものを作っていないと考えたからだ。他の研究者が あとから同じ活性を持つものを探しだしても、われわれが先に化学構造を明らかにし、特許をとっておけば権利を主張しやすい。 
 この方法で見つけた代表的な化合物の一つにスタウロスポリンがある。土壌中の放線菌から 見つけ、構造までしっかり決定してからいろいろな活性を調べた。スタウロスポリンは今では 世界で最も使われている生化学試薬だ。生化学や分子生物学の研究者で知らない人はおそらくいないだろう。… 

エバーメクチン 
 私は米メルク(製薬会社)と契約する前に、何回か同社を訪ねて微生物を探すグループを見ていた。すると、みんなでおしゃべりして笑いながら作業している。あんなにいい加減では駄目だと思った ことがあった。 
 微生物はみんな「顔」が違う。ただ拾うだけなら、一番大きなコロニー(集落)から採って くれば簡単にすむ。しかし本当によいもの、新しいものを見つけようと思ったら、色や形など の特徴をしっかりとらえなければならない。メルクの人たちにその気持ちがあるようには思え ず、ウチのグループはもっとよい仕事ができるなと感じた。… 
 一九七五年になってメルクから、送ったうちの一つの歯株に線虫を殺す物質を生産するものがあったと連絡が来た。静岡県伊東市川奈の土壌から分離した菌株だった。この物質こそが、二〇一五年のノーベル賞の受賞につながった「エバーメクチン」だ。 
ただ、最初は問題もあった。この歯株が生産する物質は線虫だけでなく、マウスに対する毒 性もあるようだったからだ。あらためてデータを調べたところ、オリゴマイシンという別の物質も生産しているのが原因とわかった。 
 エバーメクチン、および化学構造を少し変えた誘導体「イベルメクチン」の発見はラッキーずくめだった。 
 ふつうは注射なら効いても経口だと効果がないなど、投与法によって効いたり効かなかったりする。ところがエバーメクチンは注射しても飲ませても、皮膚に塗っても効果がある。そうした性質をもつこれらの物質に「エンデクトサイド」という呼称がついた。 

新薬承認 
 放線菌が作る、寄生虫を殺す物質「エバーメクチン」の特許は米メルクが出願し、一九七八年に成立した。… 
 動物薬を発売した時点で、メルクは熱帯の人々がかかる寄生虫病の治療薬の開発を検討した。 同社のモハメド・アジズ博士らは、河川盲目症とも呼ばれるオンコセルカ症に対し、一九八一 ~八二年にイベルメクチンを使った治療の臨床試験を実施した。 
オンコセルカ症はブヨが媒介する線虫によって起きる。人の体に寄生したメスの線虫が産む 一日あたり千匹もの幼虫が体内に広がり、死骸が皮膚にひどいかゆみを起こす。失明をもたらすこともある。世界保健機関(WHO)はこの病気に効く薬を開発するよう、製薬会社に求めていた。 イベルメクチンを一回投与すると、一カ月後には目や皮膚の線虫が消えた。 イベルメクチンは蚊が媒介するリンパ系フィラリア症にもよく効いた。 
 オンコセルカ症は世界で一億二千万人を超える人々が感染の危機にさらされていた。 さらに、イベルメクチンはメルクと北里研究所の無償供与により、目下展開されているオン コセルカ症およびリンパ系フィラリア症撲滅作戦の一環で、年間二億三千万人あまりに投与されている。無償供与されてはいるが、これまでの総合計額は約四千億円相当と概算されている。』
  (『ストックホルムへの廻り道―私の履歴書』日本経済新聞 
   出版社 2017年9月)

◆イベルメクチンの源は、静岡県伊東市川奈の土壌から分離した菌株にあったとのことですが、大村博士は一貫して新薬開発の源を土中の細菌に求めて来ました。大村博士は常に大自然に対して畏敬の念を持ち、大自然は無限の潜在能力と可能性を持っていると述べていますが、イベルメクチンの開発の成功は、その見事な証となりました。まさに、大村さんは微生物を含めた自然世界に対して、実に謙虚であり、自然のもっている無限の力・潜在力に対して深い敬意をもって接し、その力をお借りして「人の役に立つものをつくろう」との研究哲学の持ち主なのです。
 なお、週刊新潮の記事では、日本の政府・厚労省、「イベルメクチンは儲けがない」とする大手製薬会社などは、この大村博士の開発した優れたコロナ治療薬「イベルメクチン」の評価について、まったく後ろ向きで、この薬を承認しようとしていません。まことに嘆かわしい限りです。他のコロナ治療薬が1錠数万円もするのに対して、イベルメクチンは1錠たったの600円という安さなのに、です。
 大村博士は日本の頭脳であり、日本人・日本民族の誇りです。日本政府は率先して、国際的にも高く評価されているこのイベルメクチンの承認・生産を奨励し、コロナ禍に苦しむ日本人、そして世界中の人々の救済に全力を挙げて当たるべきでしょう。

●大村智(おおむら・さとし 1935年~)  第2回
 大村さんは講演・インタヴューなどで実に印象的な名言を残していま
 す。その幾つかを紹介します。

『私の仕事は微生物の力を借りているだけであって、私自身が難しいことをやったりしたわけじゃない。正直言って、微生物がやってくれた仕事を整理したようなもの』
『日本というのは微生物をうまく使いこなして今日まで来た歴史があります。農業生産にしても、本当に微生物をよく知って、人のためにという伝統があるんですね。そういう環境に生まれたことはよかったと思います』
『自然は、我々が必要としていることや課題となっていることすべてについて答えを用意していると私はいつも確信している』
 ◆大村さんは微生物を含めた自然世界に対して、実に謙虚であ 
 り、自然のもっている無限の力・潜在力に対して深い敬意をも
 って接し、その力をお借りして「人の役に立つものをつくろ
 う」との研究哲学の持ち主です。
 そうした哲学は、大村さんが前回紹介したように大自然の中で 
 育ったことや、山梨県という醸造業の盛んな地で学生生活を送
 り、後にこの地で本格的な研究生活を始めたことと深く関係し
 ているようです
 昭和38年(1963年)、大村さんが助手として着任した山梨大
 学の研究室の研究テーマは、地元の特産品であるワインの醸 
 造に関連するものでした。ワインは酵母という微生物のアルコ
 ール発酵によって作られます。この研究室時代に、大村さんは
 微生物が持つ力のすばらしさに気付いたとのことです。大村さ
 んのノーベル賞受賞へつながる研究成果「イベルメクチン」の
 発見は山梨大学での微生物との出会いから始まっているので
 す。昭和48年(1973年)にアメリカでの研究生活を終えて帰国
 した大村さんは、北里研究所の抗生物質室長となり、そこで、
 土壌に多く生息している微生物がつくる抗生物質の抗微生物活
 性の調査に精力的に取り組み始めました。大村さんをはじめ研
 究室員は、常にカバンの中に小さなビニール袋とスプーンを入
 れておき、通勤時や出張時、様々な場所の土を採取しては、そ
 の土から微生物を分離し、抗微生物活性を調査したそうです。
 いかにも大自然の中で、大自然の恵みを肌で感じ取った成長し
 てきた大村さんらしい研究者生活です。

『夜間の工業高校だから、近辺の工場から仕事を終えて駆け込んできて勉強する人がほとんど。あるとき期末試験の監督をしていると、飛び込んできた(生徒の)一人が、手に油がいっぱいついていた。私は一体何なんだ。ショックだった。もっと勉強しなきゃいかん。本当の研究者になろうと思った』
『やったことはだいたい失敗するわけでしょう。思ったよりはるかに難しかったり、うまくいかなかったり。しかしうち5回、6回、7回やっているうちに、びっくりするぐらい上手くいくときがある。その味を味わうと、あとは何回失敗しても怖くない。それが研究の楽しさですよね。1回失敗してそれでだめだと思ったらだめですね。失敗したからよかった、これは絶対役に立つと思いながら続けることが大事ですよね』
『いろいろやりたいことはあると思うけど、これやると失敗する、じゃなくて、やってみようという気を絶えず起こさなきゃだめ。成功した人は失敗を言わないですよ。でも人より倍も3倍も失敗している。だから1回失敗したからって、若い頃はどうってことないよ。とにかくやりたいことをやりなさい』
 ◆山梨大学卒業後、大村さんは東京都立墨田工業高校定時制の 
 教師となっています。研究時間を多くするために夜間教員を選
 んだということのようです。しかし、そこで、中学に行きたく
 ても行けなかった父親の向上心に溢れた生き方を見て育った氏
 は、働きながら懸命に勉強する夜間の学生の姿に強い感銘を受
 けたのです。失敗についての教えも、苦労しながら学び、働
 き、行動する若い青年に対する「エール」であり、貧しいなが
 らも精神的に豊かな環境の中で育った氏の、若者に対する愛情
 あふれた激励がそこにあります。
                 (2021・3・1)

●大村智(おおむら・さとし 1935年~)
  山梨県韮崎出身。山梨大学の自然科学科卒。都立墨田工業高校の夜間部    の先生をしながら、東京理科大大学院修士課程を経て、北里研究所から 
 北里大へ。北里大生命科学研究所教授に。現在北里大特別栄誉教授。早 
 くから、抗生物質の一種であるマクロライド系抗生物質の研究(土を採
 取し、その中から微生物が作る化合物を取りだす)に取り組み、1977年
 に細胞内の酵素の働きを妨げる「スタウスポリン」を発見し、ガン細胞
 の増殖に関わる酵素の働きを阻害する治療薬を作る。これは副作用が起
 きにくい「分子標的薬」の最初の発見であり、その後の各種治療薬開発
 に多大な貢献を果たした。2015年、ノーベル生理学・医学賞受賞。

【今も田園風景が広がる山梨県北巨摩郡神山村鍋山で、私は…長男として生まれた。…この一帯は冬には冷たい北風が吹き付け、夏は盆地特有の蒸し暑さになる。それでも故郷の自然に触れると気持ちが落ち着き、「自分は自然から生まれたんだな」という気がする。詩人、大岡信さんの「眺望は人を養う」という言葉はまさにその通りだ。
 父は18歳の時に父親(私の祖父)と死別している。当時、姉一人、弟三人、妹一人の6人兄弟の長男として祖母と共に一家の生活を支えた。…
 私たち兄弟姉妹5人は、みな大学まで進んだ。当時ここまでの教育を施すのは並大抵のことではなかっただろう。その苦労を支えていたのも、父が若い時に上級学校へ行けずに独学した悔しい思いだったのではないか。…私が中学生のころ…段ボール箱いっぱい…父が通信教育を受けるのに使った「高等講義録」が出て来た。勉強を競った友達が上級学校に通うのをしり目に、小学校高等科で、農業をやりながら時間を見つけてはこの講義録で勉強していたこを知った。…私は怠けて遊んでいた自分の生活に恥じ入った。…
 母は…嫁いできて以来、隣の清哲村の小学校の教師として勤めながらわれわれ兄弟を育ててくれた。…戦後の農地解放とともに、母は教員を退職後…百姓仕事をせざるを得なくなっていた。それまでピアノをひいていた細い手に鍬をもち、小さな体に大きな籠を背負い、田や畑に父と一緒に出掛けていった。…教員を止めて何年か経つうちに…「養蚕の先生」として迎えられるようになっていた。…
 両親が忙しかった間は、同居していた父方の祖母の志げが子供の面倒をみてくれた。隣村の村長の娘で、よく勉強しており記憶力も良かった。私が小学校1,2年頃、青年たちに講義を聞かせたというエピソードが残っている。…
 私の考え方や行動は、一緒に過ごした祖母の影響を最も強く受けたように思う。中でも「人のふり見てわがふり直せ」「情けは人のためならず、巡り巡りて己のため」という考え方が一番大切だと教えられたのをよく覚えている。…
 当時の農家の御多分にもれず、父は長男である私にはいろいろな面で家長となるべき育て方をした。躾には厳しかった。冬の朝など背を丸めて手をポケットに入れて寒がっていると、大声で叱られた。山にもよく連れていかれた。植林のためであった。…仲間を集めて山の中に一晩こもり、ツタの蔓を使ってターザンごっこをしたり魚を釣ったりした。…喧嘩も良くした。売られた喧嘩は買う。上級生から見ると私は目障りだったようだ。…
 冬になると、夏の間にはない仕事が小・中学校から帰った私たち兄弟を待っていた。それは裏山へ「もしき」(薪)を取りにいくか、「ごくも」(松の枯葉)掃きに行くことだった。…それは子供にとって半ばノルマになってなっていた。そうして集められたもしきとごくもが、農家の一年分の燃料となった。…
 自分の記憶にはないのだが、母はよく「智は動き回って危なくて困った。…などといっていた。小学校へ上がってもケガばかりしていて、祖母はよくドクダミを採ってきて傷口に貼り付けてくれた。…
 両親から勉強をしろと言われた記憶はない。小学校では体育の成績がよく、「優」をもらっていた。…よくやったマラソンもいつも上位でゴールした。…
 中学の担任の鈴木勝枝先生(韮崎高校校長の奥さん)は私を「農作業であれだけ働きながら良い成績をとっている」と認めてくれ、学級委員にも推してくれていた。…
 1951年、私は県立韮崎高校に入学した。3年生の時は一番成績の悪い生徒ばかかりのクラスにいた。どうせ農家を継ぐのだからと、勉強なんかしなかった。…私はスキーに打ち込んだ。3年生の時は長距離の一般の部で優勝するほどのめり込んだ。
 転機が訪れたのは1953年、高校3年生になって。虫垂炎になって手術を受け、安静にしていなければならなかったので本をよく読んだ。それを見た父が「大学へ行く希望があればいったらよい」と言ってくれた。父のこの一言で…受験勉強に遅ればせながら取り組むことにした。…受験雑誌を手に、一日数時間しか眠らないほどの猛勉強を開始した。…担任の先生から「お前では受からない」と言われていた国立山梨大学学芸部自然科学科に入学がかなった。…受験勉強するまで山梨大の名前すら知らなかったが、家から通学できる甲府にあり、都合がよかった。】
    『私の履歴書 ストックホルムへの廻り道』(日本経済 
     新聞社刊)より
 ◆少々長くなりましたが、山梨の農村部で育った1935年(昭和 
  10年)生まれの大村さんの子供のころの経験を詳しく書きま
  した。氏は、別に神童と言われるような子供ではありません
  でした。しかし、その自然環境、父母、祖母、先生に囲まれ
  た社会・教育環境をみると、ある意味、理想的で、後に氏が
  何事にも見せる不屈の闘争心、向上心が如何に養われたかが
  よく分かります。近頃、「教育格差」ということがよく言わ
  れ、その根本要因は「収入格差」「経済格差」にあるとされ
  ています。大村さんの育った環境を振り返ってみると、現代
  のそうした「収入格差」「経済格差」を含めた「家庭環境格
  差」について、いろいろなことを考えさせられます。現代社
  会では、貧しい家庭は経済的だけでなく、その学校生活や地
  域生活を取り巻く社会的環境も無残なほどに破壊され、子供
  が「のびのび」「すくすく」と育ち、成長することがまこと
  に困難になっています。大村さんを取り巻いていた当時の家
  庭環境を見ると、現代の日本社会が失った良きもの、失って
  しまった良きものの何かがよく分かります(勿論、当時より
  も現代の方が進歩している面もありますが)。昔の田舎で
  は、それなりに皆が貧しく、子供も働くのが当然で、汗水た
  らして懸命に働く父母・祖母の姿は子供の目に美しく映り、
  知識豊かな先生・地域リーダーは誇りと責任感をもって子供
  を導いていました。大村さんはそんな環境の中で、子供時代
  を送ったのです。そんな「良き社会」の更に高い次元での復
  興を、と願わざるを得ません。
                 (2021・2・1)

●小柴昌俊さん(こしばまさとし 1926~2020年11月)  
          追悼(その2)
 2002年にノーベル物理学賞を受賞した東京大学特別栄誉教授の小柴昌俊さんが、去る11月12日夜、老衰のため都内の病院で亡くなりました。94歳でした。心からなる哀悼の意を表します。
 さて、小柴さんが遺した次のような言葉は新たな事業・研究に取り組む者にとって、極めて示唆的です。(『やれば、できる』2003年2月・新潮社刊より)

『シカゴ大での生活が三年あまり経った頃、「宇宙線はどういう元素組成をしているのか」を調べた論文を完成させました。 
 それ以前に、「宇宙の元素の存在比はどうなっているか」という論文が、他の先生の研究で発表されていて、その論文と比べてみると、ぼの実験結果とは違うところが二カ所ほどあった。ぼくの測った宇宙線は、重い元素が多かったんです。 
 このことに疑問を持ったぼくは、自分一人の頭でこねくり回すより、専門家に意見を聴こうと思いました。幸い、シカゴ大にはインド人のチャンドラセカール先生という天体物理学の大権威がいて、思い切って、彼の研究室まで教わりに出かけました。
 「星にはいろいろなタイプがあって、違うタイプの星は元素組成も違ってくる。重い元素 が多いのは、おそらく比較的若いタイプの星だろう」
 そういったことを、チャンドラセカール先生から助言をいただいたのです。… 
 ぼくは、分からないことがあると、必ず専門家に意見を聴きに行くんです。 これはひょっとして、ビリで大学を出たことと多少関わりがあるかもしれません。 自分が分からないことは、分かる人の話を聴く―そんな姿勢が、成績優秀な優等生には案外欠けているんですね。しかし人間一人でできることなど高が知れている。ぼくの姿勢が素直とか謙虚とかいうのではなく、専門家の話は聴いたほうがいいに決まっているという単純なことだと思います。 
 ただ、なんでもかんでも聴けばいいというんじゃない。聴く前に、左から右から、上から下から、内から外からと、とことん考えるんです。 
 自分なりに時間をかけて考えたうえで「分からない」と思ったことを専門家に聴くと、 たとえ目に見えた成果がなくても、すごく良い勉強になるものなんです。思えば、大阪市立大へ南部先生を慕って武者修行に出掛けた動機も同じようなことです。 
 チャンドラセカール先生に教わったことがきっかけで、ぼくは星に関する勉強を始めました。そのおかげで、書き上げた論文の中に、超新星の話を入れておくことができたのです。… 
 チャンドラセカール先生に教わりにいった経験が、四十年以上後のぼくのノーベル賞受賞につながっていったことを思い返すと、ここでも人の運命や縁というのはつくづく不思識なものだと考えずにはいられません。ぼくは、どこへ行っても行く先々で素晴らしい人間に巡り会っていたんだなと、返すがえす思う次第です。』 
 ★自ら考え抜いた上で、とことん自分の頭で考えた上で、素直
  に専門家に聞く。氏は、このような学ぶ姿勢がいかに重要か
  を教えています。そういった学びの積み重ねの上に大発見と
  ノーベル賞の受賞があったのです。案外、人に聞くこと・尋
  ねることはやさしいように見えます。しかし、とことん考え
  抜いた上で、ということは難しく、おろそかにされているの
  ではないでしょうか?この過程抜きに、ただ聞くということ
  であれば、それは安易であり、大きな成果が生まれることは
  ないように思います。

『三年ぶりに、(アメリカから)原子核研究所に帰ってきました。 まずはシカゴ土産である原子核乾板をどう解析していくかが問題になりました。 ぼくはぼくなりの意見を展開したのですが、当時の日本のボス的な先生方には相容れない考え方だったようです。いくらシカゴ帰りと言っても、当時のぼくはまだ三十代半ばで、 大先生方からしてみれば、まだまだ若造に過ぎませんから。 
 そして、こちらはアメリカ仕込みで思うところを正直に指摘したりすると、途端に厳しい雰囲気になってしまうんです。「生意気言うな」という反応ですよね。 
 このへんがアメリカの研究者との最大の違いで、アメリカでは権威だろうがノーベル賞受賞者だろうが、学生がどんどん意見をぶつけて、ときには考え方の間違いなんかを指摘したりします。 
それが当たり前のことで、決して険悪な雰囲気になんてならないんです。もし指摘された教授が怒ったりしたら、周りから笑われるだけですよ。 
 指摘する学生も指摘される教授も、目指している方向は一緒なので議論に感情が入り込まないんですね。お互い指摘し合って、ともに考えることが良い方向に進むことになる。根本の所にそういう共通理解があるのです。
  ところが、残念ながら、日本はそうではなかった。今も、当時とあまり変わらない所があるかもしれません。大先生の言うことを咎めるとは何事だ―ということになる。一事が万事その調子で、肝心の指摘の内容なんて関係ないことが多いのです。 
 ぼくは日本が大好きだけれど、学問のこの点に関しては、アメリカ流の議論のほうが正しいと思うし、すっきりしていて好きなので、アメリカの流儀で意見を言ったらたちまち睨まれてしまったというわけです。そんなこんなで、何人かの日本の先生方と大喧嘩になってしまったんです。』
 ★先輩・先達者に敬意をもって接することは大事なことです。
  しかし、氏がここで述べていることは、そういった問題では
  ないのです。権威は重視尊重されねばなりません。しかし、
  そのことは、自分の意見・見解を率直に提起することを否定
  することではないはずです。勿論、意見を言うからには、や
  はり自らの見解について「とことん考え抜く」ことをしなけ
  ればなりませんが。ただ、内容に関係なく、「意見を言う」
  こと自体が否定されるのは、やはり可笑しいというべきでし
  ょう。
  日本では、新しい学説がなかなか認められず、海外・外国・
  世界で認められて初めて日本国内で評価されるということが
  多々見られます。小柴さん指摘の件も、日本の頭脳が海外に
  流失している大きな理由の一つのようです(最大の理由は、
  近年、政府・企業の研究費援助が削られる一方だということ
  にあるようですが)。違った意見をとことん戦わせる(矛盾
  をとことん深める)ことこそ、成長と発展の糧であり、エネ
  ルギー源なのです。新しい発見は常に「常識」の否定の上
  に生まれてくるものであり、そこに激しい矛盾の対立が生ま
  れてきます。それをオープンに、率直に受け入れ、戦わせて
  こそ、新しい発見が生まれる、ということを知るべきでしよ
  う。

『金曜会(注:三菱系企業財団)の幹事役の社長さんから、 「小柴先生にひとつうかがいたいことがあります。電子と陽電子をぶつけるという実験をソ連へ視察に行くそうですが、仮にそういうことを日本のグループがやった場合、日本の産業界に具体的にどういったプラスがあるんでしょうか」 と質問されたんです。
 これには困りました。 産業界にプラスになるような要素がないと旅費を出してくれないのかなあ、ここまで漕ぎ着けて、旅費が出ないと厳しいことになるなあと、不安に思ったのです。 
 それでも、まさかウソを吐くわけにもいかないので、正直なところを話しました。
 「恐らく、これから始める実験は、百年経って、役に立つか立たないかというくらいの実験なのです」
 すると社長さんは笑顔になって、「その正直なお答え、大変気に入りました。ひとつ気をつけて行ってらしてください」 
 そう言って、旅費を出してくれたんですね。ぼくは深々と頭を下げて、お礼の言葉を述 べました。あの頃の日本には、こういった度量の広い人が何人もいたのです。』 
『96年、カミオカンデの150メートル隣にスーパーカミオカンデが完成しました。98年には 戸塚君の指揮下でニュートリノに質量があることが確認されました。これは「標準理論」に理論上の変更を迫る、大発見だといえます。 当時の新聞の一面にも載るニュースとなりましたが、実はアメリカの新聞の方が扱いはより派手でした。「ワシントンポスト』の一面にも、大きく載ったのですね。…
 そして、2002年4月、93年にすべての役割を終えていたカミオカンデの跡地に、 カムランドという新しい観測設備が完成しました。 ここでも、早くも素晴らしい観測結果が生まれました。…今度は反電子ニュートリノに質量があることを突き止めたのです。反電子ニュートリノは、スーパーカミオカンデで検出されたミューニュートリノとは別の種類のニュートリノです。 …
 さて、カムランドのような観測施設が世界中に広がると、とても楽しみなことが出てくるんです。 
 世界の何箇所かにカムランドと同じような検出器を置くと、検出した反電子ニュートリノを使って、地球のトモグラフィー(断層写真法)ができるんじゃないかという可能性が出てきます。これは、紫晴らしいことなんですよ。 たとえば、地球のどこの部分にウラニウムの鉱石がどのくらい溜まっているかとか、そ ういう診断がたちまちできてしまう。 
 こうなってくると、ソ連のノボシビルスクへ視察へ行くときに三菱財団「金曜会」幹事役の社長さんに言った「あと百年は産業には役立たない」という予言を、良い意味で翻すことになるのかもしれません。…究極の目的は、宇宙の始まりの様子が分かるという点にあります。 』
『今、科学技術を振興するべきだという声が高まっていますが、その意図は、産業に役立って日本の経済に息吹を与えるといったところにあるのでしょう。 しかし、ぼくたちの研究は数年後に産業に利益をもたらすものとは違う。
  でも、宇宙ができた1秒後の様子が分かれば、それはとても素晴らしいことじゃないかと、ぼくは心の底から思うんですね。そう思いませんか? 
 ぼくは、日本人っていうのは実力があるんだから、もっと自信を持てと、今一度言いたい。… もちろん、ただ根拠もなく楽観的に考えるのではなく、最大限の努力はしたうえでの話です。 
 十分に先を見据えて、ぎりぎりの努力をしていれば、たとえ失敗しても損失なんてミニマムに抑えられるし、努力を重ねたという事実の方が、遥かに価値がある。
 ちゃんとやれば、どんなことでも、なんとかなるものなんです。』 
 ★目先の利益に捉われるな、ひたすら真理を探究せよ、それは
  いずれ人類に大きな幸福をもたらすことになる。氏はそう言
  っています。昔の金曜会の社長の言を引いたのは、最近の日
  本の現状―目先の利益だけを追い求める社会的政治的風潮―
  に対する憂い故でしょう。日本の政治家・企業家は、今こ
  そ、この小柴さんの遺言をしっかりと受け止めるべきでしょ
  う。


●小柴昌俊(こしばまさとし 1926~2020年11月)さん追悼(その1)
 2002年にノーベル物理学賞を受賞した東京大学特別栄誉教授の小柴昌俊さんが、去る11月12日夜、老衰のため都内の病院で亡くなりました。94歳でした。心からなる哀悼の意を表します。
 小柴さんは愛知県豊橋市の出身で、東京大学理学部を卒業したあと、昭和62年まで東京大学理学部の教授を務め、この間に、岐阜県の神岡鉱山の地下に観測施設「カミオカンデ」を設置し、ニュートリノという物質のもとになる素粒子の1つを観測することに世界で初めて成功しました。
 小柴さんは、『ノーベル物理学賞への軌跡―物理屋になりたかったんだよ』(2002年12月・朝日新聞社刊)において、次のような一文を残しています。
『岐阜県神岡鉱山の地下1000mにある「カミオカンデ」が、 大マゼラン星雲にあらわれた「超新星一九八七A」からやってきた素粒子「ニュートリノ」を観測したのは、一九八七年二月二三日。わたしが東京大学を定年退官する一カ月前 のことだ。「陽子崩壊」という現象を検証するためにつくられたこの実験装置が、一年半をかけた改造を終え、太陽の中心からやってくるニュートリノを検出できるようになってからたった二カ月で、いままでだれにもできなかった、太陽系外からのニュートリノを観測する機会に恵まれたのは、ほんとうに幸運だったと思う。…
 超新星 (supernova)というのは、「新」という名前とはうらはらに、歳をとった重い星が生涯を終えるときの姿だ。突然あらわれて太陽一億個分と同じくらいの明るさで輝き、 やがて消えてゆく。…
 もちろんわたしも、銀河系内に超新星があらわれたら、カミオカンデはそこから来るニュートリノを捕まえられると、この装置を計画して予算を申請している段階から考えていた。だが、三〇年に一度くらいしか観測できない銀河系内の超新星にあんまり期待するわけにはいかないから、観測はずっとむずかしいけれど、毎日太陽系外からやってきているはずのニュートリノが観測できるように、装置の改造をしておいた。…
 そうしたら、改造が終わって二ヵ月、わたしの定年一カ月前に、超新星があらわれた。 もっとも、わたしたちの想定していた天の川銀河ではなく、お隣りの銀河での出来事だったから、実際に捕まえた超新星ニュートリノの数は11個と、距離が離れている分少なかったけれど。ちなみに、このとき、雨霰と地球に降り注いだニュートリノの数は、一平方 センチあたり100億個くらいと思われる。…
 カミオカンデが一九八七年二月二三日午前七時三五分三五秒(世界標準時)から約十三秒間に、11個のニュートリノ信号を捕らえていることがはっきりした。日本時間で言うと、午後四時三五分になる。これはきわどい時間だ。なぜなら、ふだんだと、だいたいこのくらいの時間に磁気テープの交換をするので、どうしてもわずかな記録の空白ができてしまう。イヴェント(注:超新星からの信号到来)がこの空白の時間帯にあてはまらなかったこと、これが幸運のはじまりだった。…
 たしかに、わたしたちは幸運だった。でも、あまり幸運だ、幸運だ、とばかり言われると、それはちがうだろう、と言いたくなる。幸運はみんなのところに同じように降り注いでいたではないか、それを捕まえられるか捕まえられないかは、ちゃんと準備していたか、いなかったかの差ではないか、と。…
 絶妙のタイミングで超新星にめぐりあったせいか、わたしはしばしば、「あいつ、ヤマ 勘で当てやがった」と評される。しかし、わたしに言わせれば、ヤマ勘というのは、磨けば当たりがよくなるものだ。
 そもそも実験は、わからないことがあるからやるのだ。答えがわかっていることを確かめるために、実験をする必要はない。自然に対して「わからないこと」をどういうかたちで問いかけたらよいのか、とことん考え詰めると、適切な方法にたどりつける確率がよくなる。これは、わたしの実感だ』と。
  
◆小柴さんが「たしかに、わたしたちは幸運だった」というように幸運であったことは間違いのない事実です。例えば、17万年も前に大マゼラン星雲内で、ある星が寿命を終えて超新星爆発を起こし、それにより膨大な量のニュートリノが発生し、それが偶々1987年2月に地球に到達し、そのうちの11個がカミオカンデの装置で捕えられたこと。例えば、カミオカンデの装置は元々は太陽系内のニュートリノを観測するための装置であったが、1年半かけて太陽系外からやってくるニュートリノを観測できるような装置に改造していたこと。例えば、その装置改造がニュートリノ到達の2ヶ月前に完了していたこと。例えば、ニュートリノ観測できたのが大学定年1ヶ月前であったこと。例えば、記録の空白ができる磁気テープ交換の時間帯に引っかからなかったこと、等々。
 しかし、そういう幸運は、すべて、小柴さんが「何としてもニュートリノを捕えるんだ」という強烈な目的意識性・計画性を持ち、実際にその実現目指してあらゆる努力を尽くし、その時に備えて準備していったからこそ生まれた「幸運」であって、決して「棚からぼた餅」式の幸運ではありませんでした。
 小柴さんが言うように「幸運はみんなのところに同じように降り注いでいた」のです。最大の問題は「それを捕まえられるか捕まえられないかは、ちゃんと準備していたか、いなかったかの差ではないか」とということなのです。
 ニュートリノは存在する。それは必ず地球に到達して来る。この必然性を信じ、その時に備え、万全の準備をしていたからこそ、小柴さんはニュートリノを捕えることが出来たのです。偶然は必然の産物であり、偶然は必然の糧です。必然を信じ、必ずやって来る偶然の時を待つ―これはすべての事業に通じる真理だと思います。小柴さんの逝去に際し、改めてこの真理を学び、心に刻み付けておきたいと思います。合掌。
 
第15回 中村修二 (第3回)
『 技術とはいったいなにか 
 あるとき、カリフォルニア大学サンタバーバラ校(UCSB)の私の教授室へ、一人の大柄な白 人男性が訪ねてきたことがあった。 「ドクター・ナカムラはあなたですか…あなたは私の命の恩人です。ありがとう」…いきなりのことで面食らったが、その男性は私が発明した技術によって命を助けられのだと語り出した。詳しく話を聞いてみると、そのときも(アウトドアが好きで、よく山へ入ってキャンプを楽しむというその男性は)一人で山歩きをしていたのだが道に迷ってしまった。迷いながら山を歩いているうちに日が暮れてきて、あたりが真っ暗になったそうだ。…人里から離れているせいで、周囲には人工の灯りは全くない。暗闇の中で山中を歩くのは自殺行為だが、寒くなってきたこともあり、早く道を探したほうが賢明だと彼は決意したと言う。…(そのとき)ポケットを探ってみると、車のキーホルダーが出てきた。鍵穴を探すための小さなLED製のライトがついている、よくあるキーホルダーだ。彼はその灯りを頼りに道を探し、ようやく山から下りることができたのだと言う。 
 消費電力の多い電球では、それに見合う電力を発生させることは難しい。たとえできても発光時間は短くなる。懐中電灯やキーホルダー式のライトなど、LEDを光源にしているからこそできる製品だ。同時にこの技術は、電力インフラが整備されていない途上国の家庭を明るくするためにも役立っ ている。…
 発展途上の国々は、赤道を挟む低緯度地帯に位置していることが多い。自然に恵まれている国もあるが、低緯度地帯には貧困と飢餓に苦しむ人々がたくさん住んでもいる。「今いったいなにが最も必要か」―彼らにそんな質問をすると、その多くはこう求めてくるそうだ。「情報を得るためのテレビ、そして暗い夜を明るくする電灯が欲しい」。だが、テレビや電灯があったとしても、それを機能させるためには電気が必要になる。…その電気が不足している。… 
 たとえば、ネパールで実現したプロジェクトでは、LEDの照明装置と発電機を組み合わせ、低価格で省エネ、安全な灯りを国民へ提供することに成功している。ネパールではずっと、人々は灯油ランプで照明を得ていたが、そのために火災が起きて多くの人命が失われてきた。しかし、省エネのLEDを光源にすれば、小さな発電機でも夜の闇を照らすことができる。このプロジェクトは、大きな成果を上げることができ、火災の発生も少なくなってきたそうだ。
  LEDに限らず、技術が人の役に立つことを知るのは、それを発明したり開発した研究者や技術者にとって大きな幸福だ。私はそれが研究者や技術者の究極のモチベーションだと思っている。画期的な発明をし、技術を革新し、人々の生活に役立つようなものを作ろうとする努力が、世界の平和と人類の幸福につながっていく。
 話題の燃料電池にしても、その仕組みを開発したのは研究者や技術者たちであり、こうした電気を作り出す側の技術と、私の作ったLEDなどの使う側で省エネになる技術が一緒になれば、非常にコンパクトな装置で電力消費をまかなうことができる。原子力発電所がたくさん必要ではなくなるし、発展途上国などのように送電線といったインフラが整備されていない地域でも、電気を使うことができるようになる。 
 私は人類の最大の問題は、食糧や石油に代表されるエネルギー問題だと思っている。こうした問題を解決するのが科学の役目であり、実際に新しい技術を発明し、人類の役に立つ技術を開発する のが研究者や技術者の責務だ。 
 現在の地球上の人口は約六十一億人だが、二十一世紀中に百億人を突破すると言われている。人 類が直面する食糧問題や人口問題、そしてエネルギー問題を考えるとき、われわれ科学者と科学技 術の果たす役割は大きい。』
     (『負けてたまるか! 青色発光ダイオード開発者の言い分』朝
      日新聞版、2004年3月)
大きな発明、発見、改革には大きな努力・エネルギーが必要となります。大いなる困難を乗り越えていくためには長期にわたる大いなる忍耐が必要とされるからです。中村さんの青色LED発明の過程をみても、長期にわたって困難で孤独な実験作業の繰り返し、失敗の繰り返しを経験させられています。そうした中村さんを支えていたのは、「実際に新しい技術を発明し、人類の役に立つ技術を開発する のが研究者や技術者の責務だ」という使命感です。個人的で、私的な利益だけを求めていては、巨大な困難に耐え、作業を継続させていくことは出来ません。これは全ての発明・発見者に共通する教訓です。
 勿論、その結果としてそうした発明・発見者にそれなりの利益が与えられることは否定されるべきことではありません。特に、日本の研究者の場合、研究費用の欠乏に悩まされることが多く、そのために特許権・特許料を請求するという裁判がいくつか起こっているのが実情です。「科学(者)を軽視し、科学(者)を否定する社会に明るい未来はない」。このことを肝に銘じておかねばなりません。

第14回 中村修二   (第2回)
『当時の日亜化学が手がけていた主力商品は蛍光体だった。蛍光体は、すでに技術的な改良の可能性も低く、新たな市場の開拓余地も少なかった商品だ。 国内大手が手を引いたあとだったから、かろうじて日亜化学は生き残ることができていたに過ぎない。 
 しかし、いずれは東アジア各国、韓国、台湾、シンガポール、中国などの後発企業が安い商品を投入してくるだろう。それは火を見るよりも明らかだった。経営を安定させるためには、主力の蛍光体以外の商品を開発しなければならない。一社員が心配しなくても、会社だってとうに危機感を募らせていたのだと思う。 しかし、私は自分でなんとかできないかと考えた。…製品化の是非に対し、しっかりした意見を述べてこなかったという反省も少しはあった。 
 いずれにせよ、会社では評価もされず出世も期待できない。特許も論文も出せないなら、研究者としても無名のまま終わってしまうだろう。そのとき、「こんな会社、辞めてやる」 という想いが私の頭をかすめたが、「人から言われて研究開発してきたからダメなんだ。日亜化学には半導体の知識を持っている人間がいない。いるとすれば自分だけじゃないか。だったら、自分の判断で目標を決めるのがイチバンええ」。
 人間、死ぬ気になればなんでもできる。サラリーマンは辞表を覚悟すればなんでも言える。ブチッとキレて度胸がすわった。そして私は社長室に乗り込んだ。「青色LEDの開発をさせてくれ」と、社長に直訴したのである。
 考えてみれば、今は巨大な企業も、創業時にはベンチャーだったはずだ。 日亜化学を起こした小川信雄氏も、そうした創業者の一人だった。もともと薬学や化学方面の研究者だったのだが、戦後すぐに故郷の徳島県阿南市に協同医薬研究所を設立し、それが後に日亜化学となったのである。 
 残念ながら二〇〇二年九月に亡くなられたが、同じ開発研究者として、小川氏は社内で私を理解してくれる数少ない人間の一人でもあった。あるとき、「中村クンのモノ作りの才能はたいしたもんだ」 とほめていたと人づてに聞いたこともある。 さらに小川氏は、利益が出れば研究開発費に回すべきだという考えを持っていた。持論は「世界一の商品を作る」というものだったから、研究にはある程度の予算を使わせてくれたのだ。 
 私はその小川氏が社長だったとき、半ばヤケクソになって直談判した。「青色LEDをやらせてください」「ほう。青色LED? なんやそれは」 青色LEDと聞くと、いつものように小川氏のメガネの奥の目が好奇心で輝いた。 
 赤と黄緑のLEDを組み合わせれば、オレンジ色が発光する。電車内の表示など に使われているオレンジ色をよく見れば、赤と黄緑が同時に光っていることがわかるはずだ。赤に緑と青を加えれば、RGB(赤、緑、青)という光の三原色が同時に発光することで白色の光になる。印刷などに使われているのはCMY(シアン = 青、マゼンタ=赤、イエロー黄)だが、C MY三原色が足し算で黒になるのとは逆に、光のRGBは引き算、つまり三色が同時に発光すると 白色になる。さらに、街頭のビジョンスクリーンを見ればわかるが、この三原色を組み合わせれば、無限に近い色調や階調を表現することができるのだ。  
 そのため、鮮やかで強い光を発する青と緑色のLEDが待ち望まれていた。白色を発光させることができれば、長寿命で消費電力の少なくてすむ LEDは白熱電球や蛍光灯などの一般照明に取って代わる。 
 蛍光灯や白熱電球など、一般照明全体の市場規模は百二十億ドル(約1兆3千億円)と言われている。米国のある調査機関の試算によれば、一般照明などに使用される高輝度LEDの市場は、二〇〇七年に五億ドル(約五百五十億円)を超える規模になりそうだ。 白色LEDは、まだまだ蛍光灯に比べると発光効率が悪い。 だが、今のペースで技術開発が進めば、数年後という近い将来、既存の一般照明に取って代わることになるだろう。そうなれば、コンビニや家電店にLED製の照明機器や装置が並ぶ日も近いだろうし、さらにオフィスビルや電車などの交通機関の省エネ化に大きな影響を与えると思う。 
 消費電力が低く省エネであり、ほとんど球切れもなくメンテナンスフリーなどといった利点がLEDにはたくさんある。LEDという光源は、高輝度の青と緑色がなかったためずっと損をしてきた。だが、その二つのLEDが実現すれば一挙に逆転する。 
 その市場は限りなく大きい。もし単独で開発することができれば、大きな利益を会社に与えてく れるはずである。「目の前の小川氏も、蛍光体という蛍光灯などに使われる化学物質を研究してきた人物だ。これまでにない全く新しい人工の灯りに、大きな可能性があることはすぐに理解してくれた。 
「その青色LED、どうしても開発してみたいんか」 「お願いします」。 一か八か、ヤケクソで直訴したのだ。どんな答えが返ってきても、私には覚悟ができていた。 
「あ、そうか。やりたいんなら、ええわ。やりなはれ」 「えっ? ホントにええんですか?」 小川氏の答えは拍子抜けするほどあっさりしたものだった。 
 実は、クビを覚悟で青色LEDの製品開発案を持っていった時期、幸い業績が上向きで会社に余裕があったのである。「利益が出れば研究開発に回す」という小川氏の持論通りの答えだった。今から考えれば、あれは 不思議な巡り合わせだった。人生には考えるより行動すべき時がある。そして、あれがその時だったのかもしれない。』 (『負けてたまるか! 青色発光ダイオード開発者の言い分』朝日新聞出版、2004年3月より
                          (次回へ続く)

◆会社の将来、研究開発者としての自分の将来に深刻な不安、危機を覚え、これを何とか打開せねばと思った時、中村さんは覚悟を決め、小川社長と直談判に乗り出します、この時が、中村さんと青色LEDにとっての決定的転機の時であったと思います。
 この時の中村さんの覚悟とは、「人から言われて研究開発してきたからダメなんだ。日亜化学には半導体の知識を持っている人間がいない。いるとすれば自分だけじゃないか。だったら、自分の判断で目標を決めるのがイチバンええ」「人間、死ぬ気になればなんでもできる。サラリーマンは辞表を覚悟すればなんでも言える。ブチッとキレて度胸がすわった」というものでした。
 よく考えて、考えて、その結果到達した一定の結論、後はそれを実行するか、しないか、です。最後は決断と勇気がすべてを決定します。覚悟を決めてやる!それしかありません。
中村さんは覚悟を決めて小川社長と直談判しました。創業者で元来ベンチャー気質をもっていて、「世界一の商品を作る」という壮大な持論を持っていた小川社長は、中村さんの覚悟をよく理解し、受け止め、「あ、そうか。やりたいんなら、ええわ。やりなはれ」と答えました。中村さんと青色LEDの未来が大きく開かれ、転換を果たした瞬間でした。
「今から考えれば、あれは不思議な巡り合わせだった。人生には考えるより行動すべき時がある。そして、あれがその時だったのかもしれない」と、中村さんは述べています。確かに、「幸い業績が上向きで会社に余裕があった」ということもあったでしょうが、それは大して重要な問題ではありません。その時は、社長の決断・回答が少し後にずれるるだけのことです。
 自分の人生において、ある人との巡り合わせが、大きな転機となることがしばしばあります。しかし、その巡り合わせは、単なる偶然ではありません。自らが何かを求めて求めて苦しみ、闘い、前に突き進もうとしているからこそ、「運命的な出会い」が生まれます。ただ、その時、問題になるのは、自分が「何を求めていたのか」です。「何を」―その方向性こそが大事であり、それが全てを決定するのです。

第13回   中村修二 (第1回)
  (なかむら・しゅうじ 1954年~)
  愛媛県生まれ。徳島大学工学部電子工学科、同大学院。1979年、 日
  亜化学工業入社。1993年、20世紀中には不可能と言われた青色発光
  ダイオードを独カで開発、実用化に成功。1999年、日亜化学を退
      社、2000年、カリフォルニア大学サンタバーバラ校工学部教授。
      2014年、ノーベル賞受賞。 

『自然と触れ合ったり自然の中で暮らすことは、私の価値観において非常に大きな比重を占めてい る。生まれたのは愛媛県佐田岬半島の大久という寒村だったし、育ったのも大洲という田舎町だ。 
学生時代こそ徳島市内に住んでいたが、大学院生のときにすでに結婚して娘が生まれていたので、 子育てを考えて、都会の企業で勤めることをあきらめ、徳島県阿南市の小さな会社に入った。 
 今の私を考えるとき、生まれ育った四国の自然の影響を否定することはできない。目を閉じれば
  美しく豊かな伊予の海が浮かんでくる。 
 繰り返すが、私に限らず、人間の感性を豊かにし、想像力を育て、発想の幅を広げるために、自 然との関わりは絶対に必要だと思う。 特に科学者にとって、自然との関係は非常に大切だ。こうしたことは、ここ数年の日本人ノーベル賞受賞者の生い立ちを知ればよくわかる。白川英樹さんや野依良治さん、小柴昌俊さんといった 比較的、年輩の研究者が豊かな自然と触れ合ってきたのは当然だが、私よりも少し若い富山県出身の田中耕一さんも自然に対する畏敬の念を抱きながら育ってきたと言っているのだ。 
 今の子どもが自然と触れ合う機会を失いつつあるのは非常に残念なことだ。私は自然の中で育て ることが、教育の第一歩だと思っている。身近な疑問は、好奇心や研究心を養う。子どもは自然の 中でこそ育てるべきなのである。 
 当時の私は手を動かし身体を使ってモノ作りをすることより、机に向かって理論を考えるほうが 得意だったし好きだった。世間知らずというか、製品化などを見すえた実用的なものの見方をどこ かでバカにしていたのである。 
 …私は都会の会社で働くことに抵抗があった。特に子育ては自然の中でしたかったのだ。 内定をいただいた会社を断り、私は徳島に残ることにした。都会嫌いと子育てのためだった。 「徳島で就職したいんですが」と、大学院で指導していただいた先生に相談すると、阿南市にある日亜化学という会社を紹介された。 学生結婚から始まった私のアウトロー人生は、この小さな会社に就職することでさらに続いていくことになる。 』
◆多くのノーベル賞受賞学者が田舎育ち、大自然の中でのびのびと育ち、大自然との触れ合いの中で様々な感性を磨かれ、好奇心を育ててきたことが伺われる。中村さんの場合、田舎暮らしが好きということで就職先まで地元徳島の田舎町の会社に決め、就職している。この自らの生き方、進路の決め方には中村さん独特の感性が働いている。一つの方向に徹する
ということは中村さんの研究スタイルでもあるようだ。

絶望から生まれた使命感 
 新入社員の私が配属されたのは、私を含めて三人しか課員のいない開発課だった。その当時の開 発課は、薄汚れたバラックのような建物の中にあった。どんな会社でも同じだが、主力製品が一つだけでは経営が安定しないし、取引先の銀行だっていい顔をしない。いくつかラインナップをそろえ、バランスの取れた製品構成にしたいと考える。…あらゆる隙間を埋め、世界を制覇する。これが資本主義における企業の究極の目的だろう。蛍光体が主力だった日亜化学も、同様に半導体材料などの製品の開発を目指していた。【注:日亜化学にとって、半導体関連の研究は、新しい製品の開発への取り組みであった】
 私の大学、大学院時代の専攻は電子工学。化学会社では、大学で学んできたせっかくの知識を活かせないだろうと思っていたのだが、最初に私が命じられた仕事は半導体の原料になるガリウムの精製である。そのことで、私は少し希望を抱いた。だが、そんな想いはすぐに打ち砕かれる。 「あんた、なんで開発課なんかに来たんじゃ?」 会社勤めに少し慣れたころ、打ち解けてきた先輩が気の毒そうに言った。私がけげんな顔をしていると、すぐにこう続けた。 「かわいそうだが、開発課はもうすぐ廃止されるんよ」 
 専門知識の活かせる部署に配属され、これからバリバリ働いて画期的な製品を開発してやるぞ、 そう腕まくりしていた矢先のことである。新入社員の私は真っ青になってしまった。 
 会社は、前年に人員整理するくらい経営が苦しかった。開発課を廃止しなければならないくらい 会社が危ないのだろうか。そう言われれば、思い当たるフシがいくつもある。経費も削りに削られ、鉛筆一本ノート一冊で も課長のハンコが必要だった。 
「ガリウムの精製は三、四年やっとるんじゃが、ちいっとも業績が上がらん。利益を生み出さんそんな開発課などつぶしてしまえと言っとる役員がおるんじゃ」
  愕然としている私に、先輩がそう追い打ちをかけた。 
 どうせ田舎に骨を埋めるつもりで入った会社だ。入社時に営業でも経理でもなんでもやる、やれ る自信があると腹をくくっていたから、研究開発や開発課には特別な未練はない。 
 だが、私にとってより切実な問題は、会社そのものの存続だった。メーカーにとって重要な研究 開発に資金を回す余裕さえないのか? この会社、ひょっとして危ないんじゃないか? せっかく入った会社がつぶれてしまったのでは、また明日から勤め先の少ない徳島で就職先を探さねばならなくなる。… 
 会社がつぶれそうなら自分がなんとかしてやろう。そう考えた。ほかの会社に移ることなど考えなかった。つまり、当時の私にとってのチョイスは日亜化学しかなかったのである。… 
 私の中に「この会社をなんとかしなければ」という使命感が生まれてきた。そんな私の「野心」を実現する手段。それが「青色LED(発光ダイオード)」の開発だったのである。… 
 半導体についての論文や関係特許、学術雑誌に目を通し、…次第に目指す方向性が見えてきた。関連資料を読んでみると、どれにも必ず「LEDは青色がないのが最大の問題であり、青色LEDが開発されればその市場は巨大になる」とある。しかし、続いて「青色LEDを実現するのは技術的に非常に難しい」とも異口同音に書かれていた。 
 LED (Light Emitting Diode: 発光ダイオード)というのは小さな発光体だ。化合物半導体という 「石」が光を発している。われわれの身の回りにあるものだと、パソコンのインジケーターランプがLEDだ。発光体だからさまざまな波長の色を出す。橙色や黄緑色、赤外線を出すLEDはずっと以前に発明されていた。 しかし、青色や紫などの波長の短い色は、長い間、どうしても実現できなかった。 確かに青色LEDが実現すれば、信号機の青も発色できるだろう。 RGB(レッド=赤、グリーン =緑、ブルー=青)という光の三原色がそろうから、いろいろな応用が可能である。 それが大きな市場になることは門外漢の私にもよくわかった。 
 ムクムクと負けず嫌いの性格が頭をもたげてきた。私も研究者の端くれ。実現したことのない技術に挑戦したいと思うのは当然だ。会社がつぶれては大変だという焦りも強かった。もしも青色LEDを開発できたら、経営難の会社にとって大きな貢献となる。危機感と野心で目指した画期的技術。これが私と青色LEDとの出会いであった。…
 日亜化学はちっぽけな田舎の会社だ。当時は経営的にも厳しい状態だった。私にしてもそこのヒラ社員だ。しかも修士出たての若さである。そんな環境と状況で、青色LEDを開発できるのか? いくら世間知らずの田舎者でも、不可能だと言われている技術に挑戦するなどとは口に出すのも恥ずかしかった。だが、野心というものは、表に出そうと思わなくても、いつしか自然に現れるものだ。 
 あるとき、なにかアイディアがあるかと聞かれ、開発課の上司や先輩たちに「青色LEDはどうですか?」と答えてみたことがあった。相手は一瞬、「こいつアホか」という顔をしてからこう言った。 「おい中村、現実をよく見てみてから発言せいよ。業績低迷で会社にはカネもない。開発課を見てもわかる通り人材もおらん。ずっと蛍光体を作ってきたんじゃから半導体の技術や知識もない。なーんにもないんじゃ。青色LEDの製品化は、世界中の超有名企業や一流大学が、何十億、何百億っていう研究資金を使い、超エリート秀才の研究者を何人も投入してもできないんじ ゃろう。うちにできると思うか?」 もっともである。彼らは「ましてお前なんかに」と続けたかったようだが、そんなことは自分が一番よくわかっていた。 
 その後の私は十年にわたって、上司や営業から命じられるまま、LEDの原料となるガリウム燐 やガリウム砒素、さらに赤外LEDや赤色LED…などの製品化に成功する。 
 そのころの開発課では、実質的に開発にたずさわっていたのは私一人だった。今から考えれば、 これらの製品を一人だけで開発できたのには自分でも驚く。…しかし、苦労して開発してもほとんど売れなかった。たとえ売れても買い叩かれた。 なぜなら、日亜化学が半導体ではブランド力のない化学会社だったからだ。また、上司や営業が 開発を命じてきた製品は、蛍光体と同じようにほとんど大手が旨味を吸い尽くしたあとだったからでもある。 
 その責任を取らされるような形で、私に社内から罵声が浴びせかけられた。開発費を使うだけの無能者。売れない製品ばかり作っている無駄飯食い......。もうケチョンケチ ョンである。
 だが、そんな間も、私の頭の中に「二十世紀中には不可能な技術」という青色LEDがこびりついて 
いた。「コンチクショー! 不可能か可能かやってみなきゃわからんじゃろう!」 社内からの非難を浴びつつ、そのとき、クビを覚悟で青色LEDの製品化に挑戦してやろうと決意したのである。』
 ◆「会社がつぶれそうなら自分が何とかするほかない」「誰も
      が技術的に難しいと言っている青色LEDの開発に挑戦しよ
      う」――経営不振の田舎の小さな蛍光灯を作っている化学会
      社の潰されそうになっている開発課の一平社員であった中村
      さんは、そんな「野心」を持ち、冷笑する周囲に反発し、世
      界の大企業・一流研究者を相手に「青色LEDの製品化」を決
      意する。そんな野心と決意をもたらしたもの、それはま
  さに「ムクムクと負けず嫌いの性格が頭をもたげてきた」
     「コンチクショー! 不可能か可能かやってみなきゃわからん
      じゃろう!」という激しい「負けん気」であった。人間、深
      刻な逆境に追い込まれた時、最後にものをいうのは、この
  「負けてたまるか!」という激しい「負けん気」以外にない 
  であろう。
      (『負けてたまるか! 青色発光ダイオード開発者の
        言い分』 朝日新聞出版、2004年3月より)

(第12回)山中伸弥×益川敏英
一見無駄なものに豊かな芽が隠されている 
山中   私はアメリカから帰国した後、日米の研究環境のギャップに苦しんだ時期があるんです。回旋型のアメリカ社会から直線型の日本社会に突然戻ったことで、ちょっと息苦し さを感じていたのかもしれません。ちょうどその頃、偶然にも、ノーベル賞を受賞された利根川進先生の講演を聴く機会がありまして。 
益川  利根川先生といえば、もともとは免疫分野の研究をされていたのが、脳科学に移られたことで有名ですね。
山中  はい。私、そのことを知って、講演会場で勇気を振り絞って手を上げ、利根川先生に質問をさせていただいたんです。「日本では研究の継続性が非常に重視されますが、それについて先生はどのようにお考えですか」と。すると利根川先生は、「いったい誰が そんなことを言ってるんだ。重要で面白い研究であれば何でもいいじゃないか」という趣旨のお話をしてくださいました。私は、その答えにとても勇気づけられました。
益川  もちろん、一つのことにずっと取り組むことも美徳だと思います。でも、無駄を省いて全てを合理性で突き詰めた生き方をしていると、いつか壁にぶつかるんじゃないかな。 僕の研究室を見てもらえばわかるけど、物理の本なんてほんの少ししかないの。いちばん 多いのは数学の本 (笑)。精神医学、天文学、いろいろな本が壁一杯ところ狭しと並んで ます。学生時代は六法全書を持ち歩いていたときもあったし(笑)。でも、「これを物理の 研究に役立ててやろう」なんて思ったことは一度もない。そんなさもしいことは考えませ ん。いつも僕は目の前にある面白いことで遊んでいるだけなんです。 
山中  今は効率が最優先される社会ですが、一見遊びに見えたり、無駄に見えたりすることの中に、実は豊かなものや未知なるものがたくさん隠されているのかもしれないですね。 無駄なものを削ぎ落とそうとして、そうした未来の種まで捨て去ってしまわないようにし たいものです。 』
◆新発見のためには、一つのことを粘り強く、根気よく探求することが絶対に必要なことは言うまでもありません。しかし、ここでは、研究の過程で様々な問題にぶつかった時、強い関心を引かれたり、強く興味をひかれた問題については、たとえ無駄に思えるようなことであっても、積極的に研究してみることが重要である、ということが提起されています。「無駄」を省き、「効率」一辺倒では、かえって「素晴らしい未来の種」を捨て去ってしまうことになりかねない、というのです。「偶然の出会いを大事にしてこそ、求める新発見(必然)に到達することができる」ことは、多くのノーベル賞学者が指摘しているところです。
 
特許をとることの意義
益川  特許に関しては、お父様の工場を見ておられるから、なじみはありました? 
山中  実のところ、私、特許に関してはいまだに素人でして。嘘か本当か知らないんですが、昔、父から特許に関してこんな話を聞いたことがあります。 私の家は、祖父の代からミシン関係の工場をやっていたんですが、残された写真を見ると、祖父のやっていた工場はものすごく大きい。父の経営していた工場とは雲泥の差です。 父が生前言っていたことを鵜呑みにすると、祖父は、ある部品の特許を持っていたから、あんなに大きな工場を持てたと。だけど、祖父は四十代で早死にし、その特許も一代限りで切れてしまった。それで、父がまだ二十歳そこそこの時に、大きかった工場は一気にほとんど潰れてしまい、もとの百分の一ぐらいの小さい町工場を、父が引き継ぐようになったそうです。特許が本当に一代限りで切れるものだったのか事実関係はわかりませんが、子供心にも、 「特許というのは恐ろしい。すごい力を持っているものだ」と思いました。 物理の世界には特許って存在するんですか? 
益川  高エネルギー実験では、測定装置などでいろいろ工夫して、特許をとっているようです。たいして儲かってはいないみたいだけど。
山中  物理の基本的な原理そのものは、特許にならないんでしょうか。 
益川  我々の素粒子の研究では、永遠にならんと思います。もし、クォークに特許が成立したら、世の中のモノすべてに関わってくるから、大変なことになる(笑)。たぶん、僕らの研究には、特許って、なじまないんだと思いますね。 
山中  生命科学の分野も以前は特許になじまないと言われていたんです。「患者さんを使って金儲けしてはいけない」と思われてきた。それがいつの頃からか、知的財産ということが言われ始めて、特許が非常に重視されるようになりました。でも、私達研究者の原動力は、あくまでも真理を知りたいという好奇心なんですね。私が研究の虜になったのは、さっき(第三章)お話しした二つの「驚き」があったからです。 その現象を純粋に追究できたからこそ今日があると思っています。アメリカは知財の管理などをサポートするエキスパートが充実していて、研究者は自分の研究に専念できるシステムになっていますが、日本のほとんどの大学では残念ながらそうなっていません。ベンチャーの推奨も大切だとは思いますが、本当の意味で真実を追求する、純粋な科学者の研究が後回しにされてしまうことを危惧しています。』 
  ◆山中さんが語っているように、「知的財産ということが言
   われ始めて、特許が非常に重視されるようになりました。
   でも、私達研究者の原動力は、あくまでも真理を知りたい
   という好奇心なんです」ということが大前提であり、「特
   許を取得してカネもうけをする」などということが最終目
   的になってはならないこと言うまでもありません。しか
   し、現代社会の経済制度は資本主義制であり、ほっておく
   と私企業が自社の金もうけのために「新発見」を独占的に
   利用してしまう、ということが必ず起こります。そういう
   意味で、学者の方々が、新発見を利用し(特許化し)、利
   益を得てそれを新たな研究費用に回し、社会に還元して行
   くことは、決して間違いではありません。ノーベル賞学者
   の本庶先生が小野薬品会社の「特許独占」に反対し、裁判
   を起こしている理由もそこにあります。日本政府が基礎科
   学研究の予算を減らし、「儲かる目先の研究」を推奨して
   いるような環境の中では、学者の皆さんがそこまでせざる
   を得なくなっていることに理解を及ぼさねばなりません。

プレゼン力と発信力の重要性
益川  山中先生は常々「有力科学誌のエディター達とファーストネームで呼び合えるくらいの信頼関係を築いておかないと、情報戦には勝てない」とおっしゃっているそうですね。 
山中  はい。それはとても重要なことだと思っています。科学者が成功するためには、良い実験をすることだけでなく、いかにしてその実験データをきちんと伝えるかという「プレゼンテーション力」にかかっている、というのが私の持論です。自分の持っているデータや研究成果を、いかにして発信するかということが大 切なのです。たとえば、海外の学会や講演会で聴衆の興味をひくプレゼンが出来れば、演壇を降りてから、たくさんの人が声をかけてくれます。立ち話をきっかけに、各国の研究者や科学誌の編集者達と顔見知りになれば、その後もメールや電話などで連絡し合える関係になれます。相手の国を仕事で訪れたりする際には、できるだけ会って話をします。こうして何年もかけて築き上げた海外のネットワークが、いざという時に大きな力を発揮するというのが、私の実感です。 
 たとえば、我々が命名した「iPS細胞」という名前をアメリカの研究グループが論文の中で使ってくれたのも、そういうネットワークのおかげじゃないかと思うんです。何度もアメリカにわたってむこうの研究者達と親しくしてきましたから、彼らも、「シンヤが付けたiPS細胞という名前を、勝手に変えるのはかわいそうかな」と思って、使ってくれたのかもしれない。もし、彼らとの付き合いがインターネットやEメール上だけのもの だったら、別の名前を付けられていた可能性もあります。 
アメリカのキャンパスでプレゼンを学ぶ
益川  どんなに世の中が便利になっても、フェース・トゥー・フェースの人間関係と、情報発信力が大事だということですね。僕らの若い頃はプレゼンなんて言葉すら使っていな かったけど、山中先生はどこでプレゼンテーションを学んだんですか? 
山中  アメリカ留学中に、UCSFの選択授業にプレゼンや論文の手法を学ぶゼミがあったので、それで受講しました。…実際には、聴衆に見せるスライドは、一枚目と二枚目にわかりやすいつながりがないといけない。同じように実験にもストーリーがあって、「実験Aでこういうことがわかったから、次の実験Bではこういうことをやった」という他者から見ても明確な関係が必要です。だから、単にプレゼン力がついたというだけでなく、実験の組み立てそのものが変わりましたし、論文の書き方も変わりました。言い過ぎかもしれないけれど、人生も変わったと思 います。本当にプレゼンテーションは大切だと思います。…今でもオーラルプレゼンテーションと論文の二つは、常に全ての基本の中の基本ですね。 小手先の技術論ではなく、研究そのものの考え方の基礎がプレゼンテーションには入っていると思います。 
正確に相手に伝えることの価値
 益川  僕は、「プレゼンテーションの大切さ」には、二つの意味があると思うんです。 
一つは、今、山中先生がおっしゃったような意味。つまり、正確に相手に内容を伝えるということです。これには価値がある。人からの意見を組み入れて考えることによって、 そのデータの持つ意味が、より深く自分にもわかってくることもある。 もう一つは、プレゼンテーションそのものの問題。これは、「うまいか、へタか」だけの話だから、たいした問題ではない。実際に価値あるデータであれば、ヘタな言い方をしたって相手は理解してくれる。競い合ってうまく発表したほうが先に行けるなんて、そんなことに僕は価値を認めない。 物理学の世界でも、とりあえず「レター誌(速報誌)」に出しておくという非常にせせこましいやり方があるんですよ。「本論文はあとでゆっくり出すけれど、だいたいこういうことを、俺が証明したよ」と、要点だけちゃちゃっと短く書いて、科学雑誌に投稿するようなやり方です。そうやって唾を付けておくわけ。そういうやり方は、僕、大嫌いなの。 
山中  その意味でも、本当の意味でのプレゼンテーション力が大切だと思います。 特に私が留学していたUCSFには、ミミ・ザイガーという有名な論文の先生がおられました。今も教えてはりますけど、科学論文の書き方を指導するのが専門の仕事なんです。 単語の選び方、文の構造、何をどういう順序で書くべきか、何を書いてはいけないかなど、 実践的な論文の技法を熱心に教えておられました。アメリカのすべての大学に、そういう先生がいるのかどうかはわからないですけども、 日本の大学や研究所は、アメリカに比べて明らかに、そういうことを専門に教える人が少ないですね。ミミ・ザイガーさんのように、あれだけ熱く教えてくれる先生というのは、 残念ながら見たことがありません。』
  ◆ 山中さんの「小手先の技術論ではなく、研究そのものの
   考え方の基礎がプレゼンテーションには入っている」こ
   と、 「単語の選び方、文の構造、何をどういう順序で書く
   べきか、何を書いてはいけないかなど、 実践的な論文の技
   法」は、新発見・新研究の「理解と普及」を図っていく上
   で非常に重要なことです。難しい研究の「基礎」を正確に
   伝えることには社会的意味と価値があります。この点は益
   川さんも「プレゼンテーションの大切さ」として「正確に
   相手に内容を伝えるということ」の重要性を語っていま
   す。
   ただ、益川さんは『プレゼンテーションそのものの問題ー
   これは、「うまいか、へタか」だけの話だから、たいした
   問題ではない。実際に価値あるデータであれば、ヘタな言
   い方をしたって相手は理解してくれる。競い合ってうまく
   発表したほうが先に行けるなんて、そんなことに僕は価値
   を認めない』と主張し、山中先生の見解にやや批判的で
   す。これは、益川さんの「我々の素粒子の研究では、永遠
   に(特許化には)ならんと思います。もし、クォークに特
   許が成立したら、世の中のモノすべてに関わってくるか
   ら、大変なことになる(笑)。たぶん、僕らの研究には、特
   許って、なじまないんだと思いますね」という発言と関連
   しています。つまるところ益川さんには、特許を巡る激し
   い競争が理解できず、認めがたいのです。
   益川さんのこの発言に対し、山中さんは『生命科学の分野
   も以前は特許になじまないと言われていたんです。「患者
   さんを使って金儲けしてはいけない」と思われてきた。そ
   れがいつの頃からか、知的財産ということが言われ始め
   て、特許が非常に重視されるようになりました』と反論し
   ています。山中さんは否応なく激しい「金儲け」の競争世
   界に投げ込まれているのです。これは個人的問題ではあり
   えません。
   まさに、二人の存在、物理学研究者と生命科学研究者の置
   かれている社会的立場の違いが、二人の見解の相違となっ
   ているのです。今や、生命科学の分野の研究、新発見は
   「知的財産」として注目され、特許の対象として大注視さ
   れており、その結果「発表はどちらが早かったのか」とい
   う情報戦が大問題となり、不必要な発表競争が生まれ、
   「ツバをつけるだけの発表」というようなバカバカしい現
   象を生んでいます。資本主義的利益争いの弊害がここにあ
   ります。益川さんのこの面に対する指摘は極めて重要と思
   われます。「共同と協力の哲学」の大切さを主張する益川
   さんの面目躍如がここにあります。


(第11回)山中伸弥×益川敏英

考えるとは感動することだ  ビックリできる感受性 

益川……今、はからずもテレビ番組にたとえて、「人を感動させる番組」とおっしゃったけど、感動というのは感受性と関係してきます。山中先生は、科学者にとっての感受性について、どういうふうに考えていますか。科学というと、理詰めの世界で四角四面で、感受性とは程遠いところにあると思ってる人も多いと思うんだけど。

山中……科学者にとって感受性は本当に大切だと思いますね。自分のやった実験の結果を見て、「うわ、すごい!」って面白がれる人じゃないと、研究を続けていくのは、難しいと 思うんです。そこで心からびっくりできる、感動できるというのが、研究者に必要な才能だと思います。 

益川……僕はノーベル賞を受賞してから、いろんなところで「科学を勉強する原動力は何ですか?」と訊かれるたびに、「それは憧れである」と答えてきました。若者は、読書などで科学界の偉人に憧れる。そして、自分も近づきたい、自分の知らない世界を知りたい、 本に書いてあるその先を知りたい、と感受性を刺激されることによって、若者は科学に近づいていくんだと思う。』

 ◆科学的探究心はどういういうところから生まれるのか?「感動から始

 まる」とはどういうことでしょう。それは「すごい!」と思うところか

 ら「なぜ?」という好奇心が生まれ、それに対する「憧れ」と「より深

 く知りたい」という感受性への刺激が生まれるということのようです。

 それ故に、普段から様々な問題に目を向け、関心を持ち、「すごい!」

 「驚いた!」「ショック!」という体験を重視し、そこから出発して

 「なぜそうなるのか?」という 探求心を発揮することが大切だ、とい

 うことのようです。


目標は高く、行動は着実にできることから

山中……ところで益川先生には座右の銘というものはありますか?

益川……「眼高手低」。この言葉は本来、「評論はうまいけれど実作はヘタだ」という意味なんだけど、学生時代にある数学の先生が、「科学者として目標は高く置きなさい。しかし、 着実にできることから一つ一つ積み上げていきなさい」と解釈されていたんです。僕はこの言葉が好きでね。 いろんなところで若い人達にこの言葉を言っています。「自分の面白いと思えることを、真正面からやってください。ただしその時は、目標は高く持ち、行動は着実なところから」というメッセージをこめて。 

山中……どんな仕事でもそうですが、結果はすぐには出ないものです。研究を続けていくうえで、大切にされていることは何でしょうか。 

益川……やはり、自分の持っている最大の関心事を、とことん追究する姿勢だと思います。 途中で妥協しない。ただし、自分が研究者として手をつけるのは着実なところから手をつ ける。まさに「眼高手低」ですよ。目標は間違っていてもいいんです。自分で検討してみ て、「この目標は間違っている」と思ったら、そこで変えればいい。

山中……目標を変えるのは悪いことだと思っている人がいるけれど、それは違うということですね。 

益川……そう。いちばんダメなのは、目標を設定してもそれを意識することなしに、ちょこまかちょこまか動くことです。それでは発展性がないし、設定した目標が間違っているか どうかもわからない。「自分の目標はこれだ」と設定したら、それを常に意識し、自分がその目標に少しでも近づいているのかチェックしなければいけない。また、そもそもその目標は正しいものなのかも、常に検証していかなければいけません。 間違いに気付いた時は、どの時点から間違ったのかということをきちんと検証し、それを常に反芻する必要があります。そういう作業の繰り返しを通じて、「自分は今、何をすべきなのか」 や、「この局面ではどういうことが必要とされるのか」といったことを分析する力が身についていくのです。 

山中……私は、グラッドストーン研究所に留学していた時、ボスから、「VW」という言葉を教わりました。 「Vision (ビジョン) & Hard Work (ハードワーク)」、つまり、「明確なビジョンを持ち、 それに向かって一生懸命に努力すること」が、研究者として成功するための条件だという のです。益川先生の「眼高手低」と通ずるところがありますね。日本人は概して勤勉ですから、努力は得意だと思いますが、明確なビジョンをつい見失いがちです。うちの学生を見ていても、そういう人が多いような気がします。夜遅くまで 実験や論文書きや諸々の仕事に追われていると、「自分はすごく頑張っている」と思い込み、満足してしまう。ふと気が付くと、何のためにその努力をしているのかわからなくなっている、ということも珍しくありませんよね。 

益川……「VWが大事」というのは、当たり前のことですよね。だけど、よく言われるよう に、当たり前のことほど実践するのが難しい。

山中……ビジョンがなければ、無駄な努力に終わってしまう。これは科学だけでなくビジネスの世界も同じなのではないでしょうか。』

◆何か大きなことを成し遂げるためには、高い目標を持ち、地道に、一歩

 一歩、出来るところから、それをひたすら、粘り強く探求しつづけるこ

 とが大切だということです。 その上で、一定のはっきりした結論が出た

 ら、必要なら目標を変え、新たなその目標に向かって、また地道な探求

 を続ける。新しい画期的なものを生み出す道は皆、同じなようです。


     『「大発見」の思考法』(2011年1月 文春新書)より

                  (2020年7月1日記す)




(第10回)益川敏英

   (ますかわとしひで 1940年~)   第2回


『私は、自然や社会の現象はどんなことでも、かならず「なぜか」を問うことができるという信念をもっています。そして、その問いにこたえをだすことができ、そのこたえがどういう法則にしたがい、どう構成されているか、を知ることができると思うのです。 事実にもとづいて、「なぜか」という問いをつねに発し、考えていくことが大切だと思 います。 

 その問いを発するためにも、ひろい世界にふれることが大切です。「井の中の蛙、 海を知らず」ということばがありますが、そのかえるを井戸の外にだしてあげるのです。 そうすると、いままでの世界がどれだけ狭かったかがわかる。井戸の中にいれば、その 狭い世界にいること自体わからず、井戸の中がすべてだと思ってしまうのです。しかし、 井戸の外に出たとたんに、別の世界があることを知ります。』

 ◆「なぜ?」ーーすべてはここから始まる。益川さんのノーベル賞受賞

  の研究も、ここから始まっています。そして、この「なぜ?」という

  問いを発するためには、「井の中の蛙」にならず、「海」のように広

  い世界に触れることが大切だというのです。何故の答えはすぐ見つか

  るものではありませんが、毎日粘り強く考え続けていくことが大切だ

  ということのようです。


『最近「科学的な○○」といういい方をよく耳にしますが、「科学的」とはどういうことでしょうか。それは、客観的な 事実にもとづいて、論理的に考えることだと私は思います。「科学的な○○」というハウツーがあるわけではありません。客観的事実をありのままに見て、そのなかに疑問を感じて論理をくみ上げていく。それが「科学」だと私は思います。 

 そうした思考を身につけていくうちに、未来を見通す目がやしなわれてきます。どのようにか。いまある自然や社会、また自然や社会にたいする認識は、過去にいろんな過程をへて、今日のものへと発展し、いまある状況になっています。

 自然でも社会でも、過去から現在にいたる過程には法則があります。なぜ現在の自然や社会ができたのかについての考察や知識のなかに、おのずから未来への予測があるわけです。そこから、一定の予測をたてることができるのです。 

 しかし、予測をたててもおおむねまちがっているものです。そしたら、なぜまちがったのかを考えることが大切です。すると、「ここの過程がちがっていた」「ここの思考がまちがっていた」ということがわかります。こうして気づいた知識や法則性は、より強固な知識になり、適用の範囲もひろくなっているのです。これを現実の発展のなかで検 証していくことがとても大切だと思います。 

 あわせて、マルクスの『資本論』やエンゲルスの『自然の弁証法』を読んでほしいと思います。肩肘はらずに、おもしろいので読んでほしいですね。『資本論』は、自然だけでなく社会にも法則があることがわかります。また『自然の弁証法』は、弁証法のいい勉強になります。高校の教科書みたいに「弁証法とは...」と書いてあるわけじゃない。そこには弁証法という思考の適用例が書いてあるわけです。そのような思考例を学んで、自然現象や社会の問題などを自分で分析していく際に、役立ててほしいです。…

 これまでお話ししてきたように、これからの時代は、未来を見通す法則性、この先 一〇年、二〇年先をどう生きていくべきかというようなことに答えが出せるような、過去の経験にもとづいて未来を見通せるような、そういう視点が必要になっていると思います。それは何も技術関係だけのものだけではなく、生きていくということにおいて必要なことです。高校生、大学生は、そういう意味で、未来を見通せるような目みたいなものを養っていくことが必要だと思います。 

 私がマルクス、エンゲルスの理論に初めて出合ったとき、歴史や経済現象にも法則がある、ということをズバリ言っていたことに、えらく感動したのを覚えています。それまで社会科の授業の中でも、これこれの社会現象のなかでこういう法則があるという ことを教えてもらった経験がありませんでした。それだけに、社会現象であれ、自然現象であれ、ものごとには人間の思いとは離れて法則があるととらえる唯物論的なものの見方に感動したのです。』

 ◆「科学とは何か」― 益川さんは、この問いにズバリ「客観的事実

 をそのまま見つめ、その中に疑問を見つけ、その論理性をくみ上げ

 ていくこと」すなわち「法則性の発見である」と答えています。自然

 界・技術的世界でも、こうして法則性を見出すことによって「未

 来を予見できるようになる」というのです。

 更に、益川さんの偉いところは、この法則性は自然にあるだけ

 でなく、社会・経済現象の中にもあり、それを明確に示したマ

 ルクス・エンゲルスの著作物にも言及し、おおいにそれらを学

 ぶよう提案しているところです。ノーベル賞受賞者である益川

 さんは「井の中の蛙であってはならない」「広い海を見よ」と

 の考えを自ら実践し、実証し、私たちに訴えているのです。

      2009年6月出版『科学にときめく―ノーベル賞科学者の 

       頭の中』 (かもがわ出版)より 

                                                   (2020年6月1日記す)


(第9回)田中耕一(たなか こういち 1959年~)2回 

 『一九八六年、私は、自分が発見した「ソフトレーザー脱離イオン化法」と、同僚の開発 した「飛行時間型質量分析(Time of Flight Mass Spectrometry TOF)」を組み合わせた質量分析装置の製品化を担当するために、ほかの四人とは離れて研究所から事業部に異動しました。…もし、このときに製品化が見送られていたら、せっかく私たちが開発したイオン化の技術は、 陽の目を見ないまま、学会発表の機会もなく、社内に埋もれて忘れ去られていたはずです。

  私たちの技術は、一九八八年に「LAMS,K」という名前の質量分析装置になり、質量数1から5万以上のイオンが量れる装置として市販されるところまで漕ぎ着けました。 といっても、一台五千万円以上もしますから、お店で売るわけではありません。 私自身、販売のための資料を作成し、大学の研究室や製薬会社、病院など、国内のユーザー を回って、実際に試料を分析した結果を見ていただきました。しかし、実際の病気の診断や製 薬の分析などに使うには、分解能力や精度がまだ不十分で、「いまひとつ実用性に乏しい」という反響がほとんどでした。
 国内では行き詰まってしまったため、海外にまで活動範囲を広げました。そのころは、海外のほうが私たちの成果に対する評価が高かったため、欧米の研究機関から、ひきあいがいくつも寄せられました。その中でも、米国のシティ・オブ・ホープ(City of Hope)研究所に一人、単に関心を持つだけでなく、真剣に導入を検討して下さった方がいらっしゃいました。免疫学者のテリー・D・リー先生です。…先生は京都にある私たちの工場までいらっしゃって装置の性能を確認し、導入を決定されました。』
(注:田中さんのノーベル賞受賞の対象となった技術は「高分子のソフトフレーザー脱離イオン化法」というものですが、この技術が最も貢献しているのは医療器械の開発であり、病気治療に関してです。新しい医薬品の開発には、タンパク質などの質量を分子レベル・イオンレベルで、大量に、正確に測る装置が必要なのです。田中さん発見以前の装置では、2千個位のイオンしか測れず、実用に供せなかったのですが、田中さんは「失敗」の中で偶然生み出した補助剤を使って、独自の方法で対象物質・試料のイオン化に成功、世界で初めて、タンパク質分子量3万5千を正確に測れる技術を開発し、これがノーベル賞受賞の対象となったのです)

       ◆独創的な技術も、最初からうまく製品化されるわけではなく、
    いろいろな失敗や回り道を経て完成させられていくものです。し
    かし、そこに使用されている独創性はきわめて価値が高く、不滅
    の輝きを持ちます。しかし、製品化の初期の段階で、その独創性
    を見抜くことは難しく、理解されがたいものがあるようです。し
    かし、分かる人には分かるのです。発見者には、「真実は必ずわ
    かる時が来る」という信念が絶対に必要です。
     ところで、残念なことは、日本国内では、得てして、「新しい
    発見」や「独創的な理論や技術」は「今までと違う」ということ
    だけで、評価されず、いとも簡単に排除されてしまう傾向があり
    ます。その点、海外の、特に欧米の研究者・開発者は、率直に独
    創性をこそ評価し、「常識」破りの独創性にこそ多大な価値を見
    出しています。日本の多くのノーベル嘗受賞者の「新発見」「独
    創的発明」はいつも、海外で評価され、世に認められ、しかる後
    に日本国内で話題にされる、というコースを歩んでいます。田中
    さんの独創的技術も同じようなコース、運命をたどっています。
    ここには深く考えさせられるものがあります。
      田中さんは、『新しいことに挑戦する場合、失敗がつきもので

    す。そのようなときに、失敗を重ねても、つぎにまた挑戦しつづ

    けるためには、誉めて育てる「加点主義」を採用する必要がある

    と思います。「今回は、結果自体は失敗に終わったけれども、き

    みの研究に対する取り組み方は良かったよ」と励ますのです』

    と、日本の研究指導のあり方に一石を投じていますが、大いに耳

    を傾けるべきです。


『グリセリンの使用は、 私たちの実験では、イオン化の促進に、ほとんど貢献しませんでした。(注:補助剤ー英語ではマトリックスーを使って試料のイオン化を促進する必要があり、田中さんたちはいろいろなものを試し、最後にグリセリンを使用した実験に取り組んでいた)
 ここで私の研究は、暗礁に乗り上げてしまいました。もうこれ以上打つ手がないんじゃない か、とまで思いました。…すでにほかの質量分析で使われているマトリックスをしらみつぶしに試しました。でも、改善はできませんでした。「私たちは、常識ではできないことに取り組んでいるんだ」ということを思い知らされ、「やっぱり化学の専門家の言うとおりにしておけば、無駄な時間と金をかける必要がなかったはずだ」とも思いました。 悩みながらも、「まだ研究期間は十分残されている。なにもしなければ前進しない。好きな実験をできるかぎりやろう」と自分に鞭を打ち、少しでも良いデータをとるために、金属超微粉末といっしょに使う「保持剤」の種類や濃度などを変化させたり、のべつ幕なしにいろいろなことを行なって、試行錯誤を繰り返していました。
 そのときに、私は大きなミスを犯してしまいました。
 一九八五年二月のことです。量ろうとしていた試料は、たぶんビタミン邸(分子量一三五 ○)だったと思います。この試料を分析装置にかける準備をしていたときに、私は間違って、 いつも使っているアセトンの代わりにグリセリンを、金属超微粉末と混ぜてしまいました。グリセリンはアセトンとちがってねばねばしていますから、すぐに間違えたと分かりました。しかし、金属超微粉末を捨ててしまうのはもったいないので、これも試しに質量を量ってみようと、なんと、その失敗作を実験に使ってしまったのです。ちなみに、「もったいない」というのは、小さいころ私の世話をしてくれた祖母の口癖で、 私の頭のなかには、この言葉が染み付いているようです。余談ですが、授賞式での講演のために原稿を用意しながら、「もったいない」を英語に直そうと苦心したのですが、過不足なくあらわすことのできる英語の言い回しは、見つけることができませんでした。…
 質量分析装置の測定は、真空中で行ないます。グリセリンは真空中で徐々に気化して、いずれなくなってしまいます。だから、この「失敗作」を使っても、そのまま待っていれば、そのうちデータがとれるようになるだろうと考えました。 同時に、ただ待っているより、早く気化させたほうがいいと、レーザーを照射しつづけました。しかも、私は関西で言う「いらち」、せっかちなので、一分でも早く結果を見たかったため、 乾ききらないうちから質量スペクトルを見ていました。
 このように、「間違える」「使う」「レーザー照射」「ずっと観察」という四つの段階が揃ったとき、なにが起こったか――。 それまで見たことのなかったような現象を、はじめて観察することができたのです。スペクトルの質量数が1300あたりに、ピークがあらわれたのです。つまり、分子量が約1200 の分子を壊さずにイオン化することができたのです。考えてみると、ものすごい偶然の積み重ねの結果でした。 …
 もし、混ぜたものを捨てていたなら、何もおこらなかったはずです。また、もしグリセリンが乾くまで放置していたら、何も発見できませんでした。なぜなら、試料が乾いてしまうと、分子イオンの測定はできなくなってしまうからです。…
 私の発見とアルフレッド・ノーベルの発明には、意外な関連があります。ノーベルはダイナマイトを発見し、巨万の富を築いて、その資金をもとにノーベル賞を設立しました。そのダイナマイトの発見は、ニトログリセリンという爆発性の物質が、珪藻土などの粉末にこぼれて染み込むと、安定な状態になることを偶然見つけたためとされています。私の発見は、グリセリンを偶然に金超微粉末に「こぼして」しまったためです。「グリセリン・粉末・こぼす」のが共通していたから、私がノーベル化学賞に選ばれたとは思えませんが。』

    ◆ノーベル賞受賞者は「偶然起こったこと」「失敗が役立ったこ
     と」についてよく言及しています。「偶然起こったこと」が新
     発見に結び付いた、という話がしばしば聞こえてきます。新発
     見は「常識」を越えたところにあり、それ故に、普通でない、
     非常識的な状況の中からしか生まれてこないであろうというこ
     とを考えれば、「偶然」や「失敗」という非常識的状況がどう
     しても必要になる、ということでしょうか。
      ただ、その場合、彼らが繰り返し語り、強調していること
     は、「万策尽きる程の実験を繰り返した末に」ということであ
     り、気の遠くなるような探求の末に、初めて「偶然」や「失
     敗」の中に「真なるもの」を捉えることができた、ということ
     です。
      田中さんもまた、別のところで、『私には「挑戦」する「勇
     気」がありました。「不屈の意志」もありました』述べていま
     す。独創的発見・発明のためには、挑戦する勇気と、それをや
     り続ける不屈の意志、根性が求められるのだ、と。補助剤に関
     する「偶然」が成功に結び付いたのも、まさにそうした挑戦の
     勇気、不屈の意志、やり続ける根性という「必然」があったか
     らこそであり、「偶然の僥倖」(単なるラッキー)などはあり
     えなかった、ということです。

(第8回)田中耕一(たなか こういち 1959年~)第1回
  富山県生まれ。1983年東北大学工学部電気工学科卒業。島津製作所 

  入社。1985年に「高分子のソフトフレーザー脱離イオン化法」を発

  見開発する。2002年、数少ない現場のエンジニアとしてノーベル化

  学賞を受賞。現在、島津製作所内の「田中耕一記念質量分析研究所」

  の所長。受賞後、43歳と若く、しかも珍しい現場エンジニア上がり

  で、素朴な「癒し系変人」の受賞者ということで、マスコミの注目を

  浴びた。だが、「タレント」扱いをされ、まじめな話をしてもまとも

  に取り上げられず、現場仕事にも集中できず、一時は途方にくれたと

  いう。朝日新聞出版社より『生涯最高の失敗』(2003年9月)を出

  し、自身の経歴・研究内容を語った講演、科学ジャーナリスト山根一

  真氏との対談等を公表し、現在、ようやく普通のエンジニアの生活に

  復することができた。


『 私はサラリーマン技術者です。すぐれた頭脳を持っているわけではないし、専門知識も十分 ではありません。でも、こつこつと物づくりに打ち込んだ結果、大きな発見をする機会に恵まれ、ノーベル賞を受賞しました。こういうことだって、あるのです。賞をいただいた仕事は、ひとりの天才・優秀な人物によって成し遂げられたのではありません。むしろ、同僚たちとともに取り組んだチームワークの勝利です。チームワークは、日本の組織が持っている強み、大きな財産だと思います。 』
   ◆田中さん自身が語っている通り、田中さんは今までノーベル賞を

    もらった多くの学者とは違って「会社の現場にいるサラリーマン

    技術者」です。それだけに、多くの人々から注目され、時には

    「タレント扱い」までされるという「不運」にも遭遇していま

    す。私たちは、自分たちと同じような環境・境遇の中にいる田中

    さんがどのようにして素晴らしい発見をするに至ったのか、その

    事実・経過からしっかり学び、日々の行動・仕事に生かしていく

    ことを考えねばならないと思います。


『中学や高校の同級生からは、「田中、おまえは化学の実験で、いつも教科書とちがうことをやってたな」と言われました。そう言われてみると、小学校で自由に発想する姿勢を伸ばしていただいて以来、中学や高校でも、教科書の範囲にとらわれずに自分であれこれと実験を考え出し、試していたような気がします。そんな私をきちんと見守ってくれていた人たち(注:小4から小6までの担任沢柿先生)がいるのだなあ、とありがたく思いました。実験好きは、大学時代も、そしていまもつづいています。なによりも、実験をするのが楽しくて仕方がありません。自分の手を動かし、その結果が目の前ですぐに分かるからです。 ……
 自分の手を動かすのが好きなのは、職人だった父親の影響が強いと思います。父の田中光利 は「目立て」をするのこぎり職人でした。…ミリ単位 の、非常に目の疲れる仕事ですが、父は自宅でこつこつとそれを行ない、家族六人を養いました。目立てだけでなく、新しい道具を売る商売もしていました。私は、父のそんな背中を幼いころから見て育ちました。… …

 母の春江も父以上に頑張り屋でした。毎月の末には帳簿を丹念に読み、伝票をつくる作業に、夜中の二時くらいまで取り組んでいました。もちろん、料理や洗濯、掃除などの 家事をすべてこなしたうえでのことです。 このような環境に育ったため、粘り強い性格に育ったのは当然と言えるでしょう。… … 私が、ノー ベル賞をいただくきっかけとなった発見をすることができたのは、間違った薬品を混ぜた試料を、「もったいない」と捨てずに使ったからですが、そう思ったのは、子どものころから耳に たこができるほど(祖母に)「もったいない!」と言われつづけてきたからなのです。 いまは、私がまわりの人に向かって「もったいない!」と言うことがよくあり、ふとそんな 自分に気づくと、祖母を思い出して苦笑いしてしまいます。』
『「自然には分からないことがたくさんある」と感じるか、「自然は好きなように操作することができる」と感じるか。その感覚の差が、たとえば「ヒトのゲノム(全遺伝情報)がすべて分かった」というニュースを聞いたときの反応にも、微妙なちがいを生むかもしれません。私なら、「そうはいっても自然や生きものには未知の出来事がまだまだたくさんあるのだから、われわれが人類についてすべて分かったという状態からはほど遠い」と反応します。でも、自然 への畏敬の念の薄い人は、「間もなく、われわれは自分たちの性質を自由に操れるようになる だろう」と思うかもしれません。少なくとも私にとっては、富山や仙台、京都の自然が私の好奇心を育み、創造性の源となっていることは確かです。 』
『じつは私は両親の実の子どもではなく、父の兄の子どもで、私を産んでくれた母は出産直後に産後の肥立ちが悪くて亡くなり、いまの両親の養子に入ったことを(注:大学入学時に)告げられました。両親も兄姉も、私にまったく分け隔てなく接してくれて…生みの親が私の誕生後すぐに亡くなるという経験をしたせいでしょうか、私には、人の命や健康を大切にしたい、なんらかの方法で医療に貢献したい、という気持ちがあります。大学時代からそんな思いを持っていましたが、それは、自然の成り行きだったと言えます。…… 
 じつは(島津製作所の)中央研究所への配属を言い渡されたとき、希望の医用事業部ではなかったので少しがっかりしたのですが、約一カ月の研修を終えて実際の仕事をはじめてみると、大好きな実験を朝から晩まで好きなだけできることが分かり、すっかり中央研究所が気に入りました。私たち の隣りのグループは医療診断に使うMRIを開発していたので、その話を聞く機会もしばしば あり、いずれは私もそんな仕事ができるかもしれない、などとも考えていました。 』

   ◆田中さんの実験好き、粘り強い性格、自然現象・生命現象に対す

   る強い好奇心、創造性は、やはり育った環境(存在)によって生み

   出されて来たことがよくわかります。その環境とは、家族であった

   り、学校・先生等々の社会的環境であったり、自然環境であったり

   しますが、いずれにせよ、人間は決して個人の力だけで成長するも

   のではなく、個人は社会の中で社会的教育によって育てられつつ、

   自らもまた学び、意識性をもって成長していくものだといえます。

   現代は何についても「自己責任論」「人間性悪論」「生まれつき

   論」がはびこっていて、環境や社会から切り離して個人的性格につ

   いてあれこれ言う傾向が強いようですが、それが、あまりにも視野

   の狭い、一面的なものの見方でしかないことは、田中さんの手記を

   読めば一目瞭然です。

    田中さんが発見し、ノーベル賞受賞の対象となった技術は「高分

   子のソフトフレーザー脱離イオン化法」というものですが、この技

   術が最も貢献しているのは医療器械開発であり、病気治療に関して

   であり、田中さんは電気工学科の出身でありながら化学・医学分野

   の技術開発に人生を投じて行くことになりましたが、それは決して

   単なる偶然のことではありませんでした。

    実母・生みの親を早くに亡くすという悲しい経験をしていた田中
   さんは、東北大学の電気工学科に在籍していた大学時代から「人の
   命や健康を大切にしたい、なんらかの方法で医療に貢献したい」と
   いう気持を強く持っていたと言います。このように、自分の人生の
   目標をしっかりと立てていたこと、人生目標を明確に意識していた
   こと、これが必然性となり、周囲に強く作用し、様々な偶然の中で
   必然への道を決定づけて行ったのです。田中さんは島津製作所入社
   時、配属先として、会社がCTスキャンやMRIなどの医用機械を
   作っていたのを知っていたので、「間接的でも人の健康に役立つ仕
   事につければ」と「医用事業部」を希望します。しかし、中央研究
   所に配属位されることになりますが、ここで田中さんは、ノーベル
   賞受賞の対象となった技術「高分子のソフトフレーザー脱離イオン
   化法」を発明発見することになります。この技術は医用器械開発に
   供するもので、病気治療に多大な貢献を果たすものでした。結局、
   田中さんの「医用事業部に行きたい」という目標・意識が、会社幹
   部を動かし、最終的には「人の健康に役立つ」ことに繋がる分野へ
   と配属され、電気工学・化学はじめあらゆる知識・才能をフル動
   員させ、人の健康に役立つ技術開発の花を咲かせたのです。
    強い決意、目標、目的意識―必然性ーこそが、その人をしてあら
   ゆる偶然を通じて必然の大きな道へと向かわせる決定的な力のよう
   です。



(第7回)小柴昌俊(こしばまさとし 1926~)

  東京大学理学部物理学科卒業、理学博士。シカゴ大研究員、東大理学部教授。

  退官後東海大教授。ニュートリノを初めて観測し、「ニュートリノ天文学」

  という新しい学問分野を切り開いた。2002年、ノーベル物理学賞受賞。


【岐阜県神岡鉱山の地下1000mにある「カミオカンで(KamiokaNDE)」が、 大マゼラン星雲にあらわれた「超新星一九八七A」からやってきた素粒子「ニュートリノ」を観測したのは、一九八七年二月二三日。わたしが東京大学を定年退官する一カ月前 のことだ。「陽子崩壊」という現象を検証するためにつくられたこの実験装置が、一年半をかけた改造を終え、太陽の中心からやってくるニュートリノを検出できるようになってからたった二カ月で、いままでだれにもできなかった、太陽系外からのニュートリノを観測する機会に恵まれたのは、ほんとうに幸運だったと思う。…
 超新星 (supernova)というのは、「新」という名前とはうらはらに、歳をとった重い星が生涯を終えるときの姿だ。突然あらわれて太陽一億個分と同じくらいの明るさで輝き、 やがて消えてゆく。…
 もちろんわたしも、銀河系内に超新星があらわれたら、カミオカンデはそこから来るニュートリノを捕まえられると、この装置を計画して予算を申請している段階から考えていた。だが、三〇年に一度くらいしか観測できない銀河系内の超新星にあんまり期待するわけにはいかないから、観測はずっとむずかしいけれど、毎日太陽からやってきているはずのニュートリノが観測できるように、装置の改造をしておいた。…
 そうしたら、改造が終わって二ヵ月、わたしの定年一カ月前に、超新星があらわれた。 もっとも、わたしたちの想定していた天の川銀河ではなく、お隣りの銀河での出来事だったから、実際に捕まえた超新星ニュートリノの数は11個と、距離が離れている分少なかったけれど。ちなみに、このとき、雨霰と地球に降り注いだニュートリノの数は、一平方 センチあたり100億個くらいと思われる。…
 カミオカンデが一九八七年二月二三日午前七時三五分三五秒(世界標準時)から約十三秒間に、11個のニュートリノ信号を捕らえていることがはっきりした。日本時間で言うと、午後四時三五分になる。これはきわどい時間だ。なぜなら、ふだんだと、だいたいこのくらいの時間に磁気テープの交換をするので、どうしてもわずかな記録の空白ができてしまう。イヴェント(注:超新星からの信号到来)がこの空白の時間帯にあてはまらなかったこと、これが幸運のはじまりだった。…
 たしかに、わたしたちは幸運だった。でも、あまり幸運だ、幸運だ、とばかり言われると、それはちがうだろう、と言いたくなる。幸運はみんなのところに同じように降り注いでいたではないか、それを捕まえられるか捕まえられないかは、ちゃんと準備していたか、いなかったかの差ではないか、と。…
 絶妙のタイミングで超新星にめぐりあったせいか、わたしはしばしば、「あいつ、ヤマ 勘で当てやがった」と評される。しかし、わたしに言わせれば、ヤマ勘というのは、磨けば当たりがよくなるものだ。
 そもそも実験は、わからないことがあるからやるのだ。答えがわかっていることを確かめるために、実験をする必要はない。自然に対して「わからないこと」をどういうかたちで問いかけたらよいのか、とことん考え詰めると、適切な方法にたどりつける確率がよくなる。これは、わたしの実感だ。】(『ノーベル物理学賞への軌跡―物理屋になりたかったんだよ』2002年12月・朝日新聞社刊より)
    
    ◆ここには、
偶然と必然に関する貴重な教訓がある。事業、学 

     問、ポーツ等における、一見偶然的に得た成功のように見え

     ることでも、その背後にはやはり必然性、ある目標に向かっ

     て、徹底的に考え、研究し、練り上げ、準備するという、粘り

     強い目的意識性、目標探求心の発揮、努力の蓄積が隠されてい

     るということである。
    
  確かに、小柴さんは、「(観測器の)改造が終わって二ヵ

     月」後、「定年一カ月前」に、「超新星があらわれた」、しか

     も、「(磁気テープの)空白の時間帯にあてはまらなかった」

     ことなど、幸運が重なった。

      しかし、小柴さんの言うように、「幸運はみんなのところに

     同じように降り注いでいたではないか、それを捕まえられるか

     捕まえられないかは、ちゃんと準備していたか、いなかったか

     の差ではないか」。実際、「このとき、雨霰と地球に降り注い

     だニュートリノの数は、一平方 センチあたり100億個くらい」

     だったのであり、誰にもチャンスはあった。問題は、小柴さん

     は考えに考え、なしうる限りの準備を整えていたコトであり、

     熱烈な探求心をもってことに当たっていたということである。
     
棚ボタ式の「幸運」を期待し、何もせずただ待ち暮らしてい

     るだけでは、決して「偶然的に訪れた幸運」を捉えることはで

     きず成功を勝ち取ることはできないのである。

      「犬も歩けば棒に当る」ということわざがあるが、これも、

     決して「事件や幸運は偶然やってくる」ということを意味する

     のではない。「歩く」という行動(必然)が「棒」という事

     件・幸運にうち当らせるということである。歩かず、動かず、

     何もしなければ、決して何事も起こらず、何事も生まれない。

     まさに「犬も歩かずば棒に当らない」のである。ただ我々人間

     は、確かな目的意識と探求目的をもって行動することができる

     のであり、やみくもな行動はすべきではない。

 

(第6回)益川敏英(ますかわ としひで 1940年~)
    
愛知県出身。名古屋大学理学部卒業、理学博士。1980年より京都大 学大学    

    理学部教授。「9条科学者の会」呼びかけ人。京都大学助手の 

    ころ、粒子と、反粒子とでは、姿形は同じでも壊れ方が違うという

    「CP対称性の破れ」が実験で確認されたが、その後、それを説明す 

    る理論を小林誠氏とともにつくりあげた。その過程で、原子核を構成 

    する基本粒子である「クォーク」が6種類であることを予言した。こ

    れが1973年に発表された「小林・益川理論」である。1994年には6

    種類目のクォークである「トップ・クォーク」がアメリカのフェルミ

    研究所で発見され、理論の正しさがますます確かになった。2008

    年、「クォークが自然界に少なくとも3世代以上あることを予言す

    る、対称性の破れの起源の発見」により、ノーベル物理学賞を受賞し

    た。

 

『―研究でモットーのようなものはありますか?
 考え続けることが大切。目の前にある謎を淡々と研究してきただけです。一ヵ月くらい寝ずに。実際は三時間睡眠くらいで考え続けることはありますが、ノーベル賞 の受賞理由となった成果については比較的短時間で済みました。主に考えたのは一ヵ月ぐらい。当時は京大職員組合理学部支部の書記長もやっていましたから、同時にいろんな問題が山積していて大変忙しい時期でした。…
 恩師である坂田先生の教室では「勉強しているだけではなくて社会的な周囲の問題も考えられないようでは一人前の科学者ではない」と教えられました。多少、雑音が入ってきたほうが考えが進むんですよね。例えば何かを真剣に考えるときは歩きます。 歩いて歩いて歩き続けます。赤信号の横断歩道を渡って、時々ダンプの運ちゃんに「どこ見て歩いてるんだ!」って怒られたこともあります。女房に言ってますが、もし交通 事故に遭ったら私の責任だからね、って(笑)。』
 ◆問題にぶつかったら、とにかく一つのことを考え続けること。あき 

   らめずに考え抜いていくこと。時には他を顧みることなく、集中 

   して考えること。そこから解決への道が開れていく。益川さんが新

   しい発見に到達した道はそうした道だったようです。最初はたと 

   え短い時間であっても、そうした訓練の積み重ねがやがて集中力を

   生み出していきます。まずは実践です。
 

『私が大学の教養課程のときに数学の先生がこういうことを言いました。「高眼手低」(こうがんしゅてい) 。 目は高いところにいつもおいて、具体的な仕事をするときには手は低くおく。私のこの言葉の使い方は本来の意味とは違います。本来は、他人の仕事を批評するときには目は高いが自らの業は低い、ろくな作品を書かないことを皮肉った中国の言葉です。「しかし」 と言って私の先生は、「仕事をするときは高い目標を掲げて、着実にできることからやっ ていきなさい」と言いました。その意味でも「高眼」ということに重点があって、下のことをやっていても自分の目標はここにあるのだ、それに向かって努力していくのだということが大事です。その第一歩だと思って銅鉄主義(注:他の人が鉄で実験して成功していたら、それを参考に自分も銅で実験をしてみること)をやるのと、目標も何もなく書かなければならないから書くのとでは、あとの結果は全然違ってきます。そういう意味で みなさんも目標は高くもち、それを絶対に下ろしちゃいけない。苦しくても、自分の目標はここにあるのだということを置いて、着実に仕事をしていく。これを私は非常に重要なことだと思っています。…
―どんな仕事でもそうですが、結果はすぐには出ないものです。研究を続けていくう えで大切なものは何でしょうか?
 やはり自分の持っている最大の関心事をとことん追究する姿勢だと思います。 途中で協しない。ただし、自分が研究者として手をつけるのは着実なところから手をつける。高眼手低という言葉…「科学者として目標は 高く置きなさい。しかし着実にできることを積み上げていきなさい」という意味で、いろんなところで若い人に言っています。』
 ◆目標は高く持つ。しかし実際に手を付けるのは出来るところから、 

   一歩一歩。この高眼手低の教えは一流のスポーツ選手もよく語り、

   実践している教えです。ただ漠然と生き、行動するのと、しっかり

   と決まった目標を持ち、目的意識的にそれを追及するのとでは、

   まったく違った結果を生むことは、多くの人が日常的に経験してい

   ることです。人によって目標はそれぞれ違います。自分なりの高い

   目標を設定し、こつこつと実践をつみ重ねていくことが大事でしょ

   う。

            2009年6月出版『科学にときめく―ノーベル賞科学者の 

       頭の中』 (かもがわ出版)より 


 

 

(第5回)藤嶋昭(ふじしま あきら 1942年3月~)
  東京で生れ、愛知県豊田市で育つ。横浜国立大学工学部卒、東大大学院工学部へ。東 

  大工学部教授、10~18年は東京理科大学長。現在、理科大光触媒国際研究センター

  長。子供向けの科学本の執筆に力を入れている。

 

【東大大学院在学中に光触媒反応を発見しましたね。
 当時、半導体を水の中に入れて光を当てるとどんな反応が起きるのかという実験は、世界中の人がやっていました。でもどの半導体も溶けてしまう。皆、溶けない半導体を探していました。…
 私も最初は他の人が書いた論文の実験を繰り返し、検証していました。そこで、「他の人がまだ使っていない、溶けない半導体はないか」と、酸化チタンの単結晶で実験してみると、酸素が出て来た。しかも酸化チタンの表面は少しも溶けていない。酸素はどこから来るかというと、水からしかありえない。光だけで水が分解できたということです。…
 でも、日本の学界で発表しても、「いい加減なこと言うんじゃないよ」とだれも信用してくれません。まだ光がそういうエネルギーを持っていると思われていなかったのです。
 (その後、英科学誌「ネイチャー」で論文を発表したのですね。)
 ネイチャーに論文を出すのは非常に大変なことです。大体が審査自体されず、審査されても却下されたり。ところが送ったら、「すぐに印刷します」と言われ、ほんとうに驚きました。72年に掲載され、世界中の皆が評価してくれるようになりました。
 翌73年にはオイルショックが起きた。石油の価格が急上昇したのです。その時、欧州の国際会議で私のネイチャー論文を話題にしてくれました。論文に「酸素だけでなく水素も出る」と書いておいたら、「クリーンエネルギーの水素を用いた燃料電池が使える。石油がなくなっても大丈夫かもしれない」と。
 それを聞きつけた朝日新聞の記者が74年元日の新聞一面に掲載した。そこから、国内の評価もがらりと変わりました。
(海外でも評価が逆輸入された、と。)
 研究は本物しか生き残れません。それまでに分かっていることを少し変えて、次のことをやってみる。すると、予想と違う結果が起きる事がある。その時こそが発見です。今までの延長線上でない現象の可能性があります。普通はそれを捨ててしまったり、非難されてやめたりするけど、本物だったら新しいライインに乗る。そこにチャンスがあると認識しておかねばなりません。
 発想の転換をして、何故かをよく考えて、新しい現象に気付かないといけない。それには、広い知識が必要だから、広く関心を持つことが大事なのです。】
   (2019年12月7日「東京新聞」の『あの人に迫る』より)

 

     ◆日本の科学会・学界の弱点として、かねてより「古い権威者 

     は、新しい発見、特に若者の発見を評価できず、海外で評価さ

     れて初めてそれを認める」ということがよく言われています。 

     藤嶋さんも同じ体験をしています。村山斉さんも同様の体験を

     させられています。「地位」や「権威」即ち「力」は、勿論そ

     れなりの功績によって築かれるものです。だが、俗世間の功

     名・評判・人気・懐具合に惑わされ、築きあげた「地位」「権

     威」を高めていく不断の努力・探求・進歩を止めてしまえば、

     その瞬間から腐敗し、進歩の敵となってしまいます。常に真理

     を求めて追求・探求を怠らないこと、研究エネルギーを発揮し

     続けること、不断の真理探究の運動を継続することが大切で

     す。そして、真理の前には、誰もが平等であり、それ故に、研

     究結果に対しては、誰もが誠実・謙虚であらねばならないので

     す。
    ◆新発見は、過去の研究・成果の上に、更に新しい何かを試みる

     中で(多くの科学者が偶然の「失敗」が新しい内かを生み出す

     と言っている)、予想もしない、誰も解明していない現象が生

     まれた時、それを捨て去るか、何故かをよく考えてみるか、に

     よって決まる、ということのようです。広い知識・教養、広い

     心・好奇心がないと、それは興味無きものとして捨て去られて 

     しまいます。どんな現象であれ、それが「事実」である限り、

     絶対に無視はできません。その新しい「事実」の中にこそ、本

     物・真理が隠されているからです。


●(第4回)吉野彰(よしの あきら、1948年 ~)
  電気化学を専門とする日本のエンジニア、研究者・博士(大阪大学)。旭化成株式会 

  社名誉フェロー。携帯電話やパソコンなどに用いられるリチウムイオン二次電池の発 

  明者。2019年ノーベル化学賞受賞。

【(なぜ企業研究者の道を選んだのですか?)
 大学の研究者もいいけど、企業の研究は、最終的には新しいものを生み出し、世界を変えるというのが一つの目標。そういうダイナミックスさが面白そうだった。…
 (最近異業種や異分野が持つアイディアや技術を組み合わせる「オープンイノベーション」ばやりです。終身雇用制度が前提だとやりにくいのでは?)
 やり方次第。終身雇用だからといって企業の枠に閉じこもらず、機密保持のギリギリの範囲でお互いに協力すればいい。やっぱり業界同士のつながりがないと、イノベーションは生まれないと思います。例えば自動車、電池、材料メーカーは考え方が全然違う。…ちょうどリチューム電池が世の中に出たころ…まず使う側の人からすると本当にこのリチュームイオン電池が材料として大丈夫なのかがわからない。一方で作る側としては、パソコンメーカーがどんな材料を欲しがっているかわからない。ある人が言い出しっぺになって、会社の枠を超えた情報交換の場ができた。
 (今で言う「オープンイノベーション」ですね?)
 ただ形式的な交流ではだめだ。本音でぶつからないと。ギブアンドテイクだ。
 (ネット社会が進み、情報を共有しやすくなっているのでは?)
 逆だと思う。なまじネット社会になったことで表面的な情報はみな共有しているが、肝心の情報は意外とつかめていない。つまり、「世間ではこう言われているけど、実はこうなんだよ」というような情報は得られていない。…情報を出す側は差しさわりのない情報は出すが、ひそかに自分で考えているアイデアなんて絶対に出さない。もし出すとしたら夜の席でワインを傾けながらだろう。
 (「世界を変える」という企業研究者の目標は達成されましたか?)
 この電池のおかげでIT社会が生まれたということは自信をもって言える。今までの環境問題の議論は、「環境は大切だけど利便性も大事」という本音と建て前の堂々めぐりだった。環境に貢献出来、利便性もあり、コストも低いという世界が見えてきた。そういう世界が近づいていることを、ノーベル賞の講演で伝えたい。】(2019年12月4日付朝日新聞「企業研究者の誇り」)

     ◆「モバイル革命」を生んだリチュームイオン電池であるが、

      当時は社内でもこの研究チームは日陰に置かれ、最初6人  

      だったチームが2人に減らされたという。吉野さんは、実用 

      化の決め手となる「マイナス極に使う炭素材」を求めて全国

      を探し回り、100種類以上の炭素材を試し、ついに最良のも

      のを発見し、開発を軌道に乗せたという。当時吉野さんが

      チームメンバーに繰り返し語っていたこととは、「良いデー

      ターが出ても、それが良い電池にどう結びつくかの追求が大

      事」「性能が良いだけではだめ、消費者のニーズに合った方

      向性の開発が必要」だったという。
       新しい発見・開発は常に大きな困難にぶつかる。それを打

      開するのは、結局のところ、粘り強い、不屈の行動力であ

      る。それ抜きに、困難は突破されず、新しいものを生み出す        

      ことはできないのである。
       また、吉野さんは、企業研究者となった時から、「世の中

      に役立つものを作りたい」「世界を便利な方向に変えたい」

      という実践的な立場に立ち、大きな社会性をもった目標を      

      明確に掲げていた。  
       吉野さんは単なる研究のための研究を排し、単にデータ収

      集をもって良しとせず、常に「それは実践的に社会的にど

      のような価値があるのか」を問い、行動した人である。  

     

                     (2019年12月15日記)

 

 

●(第3回)村山 斉(むらやま ひとし、1964年3月21日~)
 日本の物理学者で、専門は素粒子理論。東京大学理学部に入学   

 し、素粒子物理学を専攻。東北大学助手の後に渡米。カリフォ 

 ルニア大学バークレー校 MacAdams 冠教授。2018までは東京

 大学カブリ数物連携宇宙研究機構(カブリIPMU)機構長(特任 

 教授)。世界で活躍し『日本』を発信する日本人プロジェクト 

 より『日本』を発信する日本人の一人に選出。日本とアメリカ

 を行き来しつつ活動している。


【バークリー(アメリカの大学)へ移ったのは、東京大の大学院でうまくいかなかったからだ。
 もともと物理学の根本のところをやりたくて、素粒子の研究を志望した。提唱した理論を実験で確かめ、双方が助け合って学問が発展していくイメージがあった。ところが、そのころの国内の研究の最前線は、理論が実験から離れ、どんどん数学的になっていた。海外では多様な方向が追及されるのに日本ではそうではなかった。…そんなある日、高エネルギー加速器研究機構の萩原薫さんの…実験に寄り添った理論の話を聴き、「これだ!」と感激。弟子入りを決意したが、萩原さんは長期の英国出張に出かけてしまう。やっと帰国した教えを請うが、…願っていた勉強が初めてできて興奮したのもつかの間、既に(東大理学部大学院)博士課程2年の終わりだった。博士論文の提出期限まで後9カ月しかない。そこで…(同学の)渡部勇君と死に物狂いで素粒子の反応を計算するソフトを作り、それを博士論文にしたところ、理論系の先生からは「単なるコンピューターのプログラムだ」と言われ、実験系の先生からは「これは実験のデータ―ではない」と言われる。理論と実験をつなぐ研究は評価されなかった。
 このソフトは、世界では評価され、今でも欧州合同原子核研究機構の実験で使われている。研究の進め方は国や組織によって様々だが、理論と実験が離れると科学は進歩しない。】
  (2019年9月11日付朝日新聞『探求・村山斉の時空自在』より)

     

  ◆「理論は理論」「実験は実験」というように、理論と実験 

   が離れ離れにされ、何の連携・繋がり・共同作業もなく、 

   お互いに「狭い世界」に閉じこもる傾向は日本の研究機関

   に根強く存在しています。実践性の欠如であり、現実に存

   在する問題の現実的解決からの遊離です。日本の先進的な

   研究や理論・実験は、残念ながら、多くの場合、日本の国

   内では評価されず、「世界(外国)で評価」されて初めて

   日本国内で認められ評価されるというケースがしばしば見

   られます。
  ◆理論と実験は切っても切れない関係にあり、相互の協力・  

   共同作業があって初めて新しい発見が生れます。そして実 

   験によって裏付けられ理論であってこそ、現実の問題を解 

   決する力をもつことが出来、実際に社会的に有効で価値あ

   る事物(新しい機械器具や医薬等々)を生み出すことがで

   きるのです。    

             (2019年12月1日記)

 

 

●(第2回)大隅 良典(おおすみ よしのり、1945年2月9日 ~)
    日本の生物学者(分子細胞生物学)。学位は理学博士(東京大

    学・1974年)現在は東京工業大学のフロンティア研究機構の

    特任教授。オートファジーの仕組み

 の解明」により2016年の ノーベル生理学・医学賞を受賞。


【研究は試行錯誤の連続で、無駄な実験もありますが、本質的には失敗はありません。なぜなら失敗から学ぶことが、次の出発点となるからです。
 世間では、研究者は浮世離れした孤高のイメージがあるようですが、研究者も一つの職業であり、多くの交わりの中から新しいものが生まれます。だからこそ、一人ひとりの個性、創造性が極めて大切にされなければなりません。科学において独創的な成果は、一人の研究者の思いがけない発見や小さな気づきが出発点になることが少なくないからです。
 皆と同じであることが大事にされがちな日本の社会の中で、科学の世界では人と違うことがとりわけ大切だと思います。自分がやりたいこと、好きなことをやれるという意味で、研究者は羨ましいと思われる職業であってほしいと願っています。
 そして、科学の世界だけでなく、一人ひとりが個性と多様性を認め合いながら、豊かに生きていける社会であってほしいという思いを、私は伝えたいのです。】
      (2019年7月24日付読売新聞『時代の証言・30回』より)
    

◆研究に試行錯誤はつきものであるが、失敗はない、という 

 言葉は重い。失敗から学び、それを次の行動の出発点にす  

 る限り、即ち継続してことを進める限り、絶対に失敗はな

 い。いつかは成功する。どんなに失敗しても、決して諦め

 ず、繰り返し挑戦し続けることが、成功への、新しい発見

 への道だ、ということである。
◆独創を貫くということは、特に日本のような「横並び」重

 視の社会では、困難であり、難しい。しかし、個性的で、

 独創的な科学者がいてこそ、人類は新たな世界を切り開く

 ことができる。大隅さんの「科学の世界だけでなく、一人

 ひとりが個性と多様性を認め合いながら、豊かに生きてい

 ける社会であってほしい」との言葉は重い。「個と共同・

 多様の統一」、そこに人類が実現すべき社会の目標があ

 る。そういう社会はそう簡単に実現するものではない。し

 かし、失敗しても、あきらめることなく挑戦し続ける限

 り、必ず成功する、ということである。

           (2019年9月15日記)
  

●(第1回)山中伸弥(やまなか しんや、1962年9月4日 ~ )

  日本の医学者。京都大学iPS細胞研究所所長・教授、カリフォル 

  ニア大学サンフランシスコ校グラッドストーン研究所上席研究

  員、日本学士院会員。学位は大阪市立大学博士(医学)。「成

  熟細胞が初期化され多能性をもつことの発見」により2012年の

  ノーベル生理学・医学賞をジョン・ガードンと共同受賞 。


 

【(研究室のトップが企業経営者のようになってきましたが?)
 平成初期の日本の有力研究室は、自前ですべてできました。いまは、すべてを理解し自分たちだけでやるのは不可能です。チーム力というか、個々の技術を持つ人をバーチャルにつなげ、巨大な組織にして、一日も早く進める能力が求められています。日本の苦戦は、大学の研究者がそういう研究のやり方が苦手で、一国一城の主という研究室の超えられないこともあると思います。…
(若手とシニアの研究者の役割分担をどう考えますか?)
 これまで日本は人生が1サイクルという考え方が中心でした。教育を受けて会社に入り、終身雇用で、定年後に20年ぐらい生きる。単に定年を延ばすと、若い人にしわ寄せがいき、ゆがみが生じます。シニアは2サイクル目の人生を考えるべきでしょう。同じことを続けて若い人と競争するのは、マイナス面のほうは大きいです。日本はアイデアや発想より、人脈とかが重視されるから、研究費の獲得でも年長者が有利になります。若い人と競争するのではなくサポートにまわり、メンター(助言者)的な役割を果たしていきたいと思います。同じ業界でなくてもよいのです。人生経験は生きますから。】

    (2019年7月20日付朝日新聞『新時代・令和 分水嶺の科学

      技術』より)

 

  ◆私たちの企業は、モットーとして『常に協力・共同の精神

   をもって仕事をする。人間は一人では何もできない。わが

   企業は、あらゆる地質関連の業者・技術者と協力・共同

   し、その英知を結合・結集し、巨大なエネルギーにまとめ

   上げ、より大きく広く社会的貢献を果たすことを目指す』

   を掲げていますが、山中さんもその発言の中で、こうした

   協力・共同の精神・姿勢の持つ重要な意義を説いていま

   す。
  ◆今は「高齢者の時代」と言われています。いろいろな意

   味を持った言葉ですが、山中さんの「シニアは2サイク

   ル目の人生を考えるべき」「若い人と競争するのではな

   くサポートにまわり、メンター(助言者)的な役割を果

   たしていきたい」との指摘は極めて重要と思います。
   私たちはこの度、地質調査事業所である新会社≪ジオ・

   ステージ・フォー≫を立ち上げましたが、その設立の大

   きな目的は、現代の高齢化社会にあって、高齢者の有す

   る豊富な現場経験、様々な熟練技術、高度な専門知識を

   結集させ、新たな仕事に活かしつつ、それらを、次代を

   担う若人に伝え、地域社会と共生しつつ成長・進化して

   いくこと、でした。

              (2019年9月1日記)